神の立場に立って考えることが許されるのであれば、神が最も嫌うのは、その是非に関わらず、自分のことを強く正しいと思うことであろう。これは敬虔な信徒の中にも適用できるものであり博学な神学者であっても、自分の意見に固執するならば、神の御心を背くとすら言えるだろう。これは剣呑な真理であり、その知識が、例え正しいものであっても、自分を激しく肯定するものならば、そこに一抹のパリサイ派(律法中心主義)が生まれるのである。

 神は人に自由意志を与えたもうた。それ故に、人間はどんな生き方をしても良いのである。信仰を持っているかどうかは、それほど重要なものではない。人の意見に傾ける耳を持つなら、それは博学な神学を学ぶよりも、神を喜ばせるのである。むしろ、信仰を持つことによって自分を激しく肯定するのであれば、その意見がいくら正しくとも現代のパリサイ派と呼べるものなのである。

 信仰を持っている人よりも、無宗教であったり、他宗派である人の方が話しやすいということが度々ある。あの穏やかなキリストであっても、パリサイ派に対しては激しい批判を浴びせた。そのように宗教的に高い立場にいるものよりも、遊女や税金取りの方が天国に近いという激しい批判を吐かざる得なかった。

 最も重要なものは愛である。しかし、この愛というものは本来、神に属するものであり、人間単体においては愛する能力が全くないと言ってもいいほどである。とはいっても、このような愛を持つことは信仰を持たない人にも可能なことである。己の敵すら愛する神懸かり的な愛は信仰によってのみ発育するものであるが、そのような愛を持つ人は極めて少ない。自然な愛情を持ちながら、信仰を持たずに生きることは十分可能なことである。

 儒教や仏教といった宗教であっても、高尚な人間を作り出すことに貢献してきたと言えるだろう。しかし、これらの宗教に欠けたものがあって、それは謙遜と呼ばれるものである。自分自身に強い自信を持ち、高尚な人格を陶冶するという意志があるならば、キリスト教は無用なのである。しかし、この謙遜を必要だとするならば、キリスト教の援助をなくして、それを得ることは難しいだろう。

 意見の違う人は、また、敵といった存在に対しては、常に譲歩する必要があるだろう。また、敵というものは、まるで遠慮などせずに、こき下ろしてくるので、自分の欠点がよく分かるという利点がある。ぬるま湯のような、環境に浸っているよりも、常に自分を批判するものがいることの方が精神的には安全なのである。確かに、悪く言われることは辛いことだ。しかし、それによって自分の増長が抑えられる。この事はヒルティもトマス・ア・ケンピスを引用して主張している。その罵詈雑言によって、名誉の霧から解放してくれる、と。

 また、人は自分の器の分しか人を認められないために、自分よりも遥かに高尚な知性に出会うと、自分の劣等感が刺激され、その人に攻撃したくて堪らなくなる。これはショーペンハウアーが、その著作の中で主張していることであり、彼が厭世主義になった大きな要因でもあるのだろう。幸福は、誰かに贈り物をあげよう、だとか、何かしてもらったなら、感謝する、という何気ない人間関係の中から得られるものだからだ。

 だから、高尚な知性を持つ、ということは常に敵を持つ、ということである。しかし、この敵の意見にも一理あり、なんでも批判しようとすれば批判できるという事実を持ってすれば(それはソクラテスが証明している)、その批判も、中らずと雖も遠からずということが言えるのである。その人の物差しから考えてみれば、そのような受け取り方は出来るのだろう、と理解を示すことも大変、重要になってくる。ヒルティは自分の増長を抑えるために、侮辱を与えられると神に感謝したそうだ。彼の場合、名声や地位に恵まれていたので、そのような批判は有り難かったのだろう。

 そのために、敬虔なキリスト者は憎まれずには済まない。そのために、意見の違う人や、敵に対しても好意を常に示さねばならない。ヒルティは、この理由のない憎悪に理由を与えないために、と言っている。しかし、このようなキリスト者は常に試練で苦しんでいるので、意見の相違や誹謗中傷などで傷ついても、実生活の方が遥かに大変なので、そのような人格否定は、それほど大した痛手にはならないものだ。

 大事なことは、自分が正しいと主張することでも、相手を論破することでもない。討論をするのならば、それによって優れた見解を見出すこと、また、相手から好意を得ると言うことの方が討論で勝つなどということよりも、ずっと大切なことなのである。人と関わるのなら、敵意と悪意ではなく好意と善意を得られなければならない。そもそも、物事というものは行為そのものよりも動機の方がずっと大切であり、いくら自分が正しくとも、相手を攻撃したいという意志で相手を批判してなどならないのである。

 

 最後にいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回の内容は賛否両論があると思います。しかし、僕は、この批判をするという行為をそのものを否定しているわけではありません。キリストもパリサイ派に対しては激しく批判していたことから考えてみても、批判するという行為そのものを、すべて駄目だと言うわけではないと思います。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕は意見というものは何とでも言えるものだと思っています。自分が正しいとも思いませんし、それに好意的な解釈をしてくれない人もいるでしょう。また、討論などのゲームで賛成が否定か、どちらの立場でも語れる、という人もいます。この事実を考えてみると、説得力のあるものが必ずしも正解ではないことが分かります。とどのつまり、神を信じなければ、ソクラテスの陥った「すべてはわからない」という結論になるのであり、現代風に言えば、全ては人それぞれで正解はない、とも言えるでしょう。今回は皆様の寛大な題度を期待したいと思います。正直、この記事を投稿する意義があるのか、と猜疑心に苛まれていますが、少し挑戦的な意味で投稿してみようと思います。それで同意が得られなくとも、それは仕方のないことだと思います。今回は自分でもクエスチョンマークをつけながらの投稿だったので、あまり自信はありません。どうかご容赦のほどを。それでは、またお会いしましょう。お元気で。