僕には、自分で悪いと思い、謝罪しようと思っても、その謝罪自体をも受け付けてくれない、という人が何人かいる。僕は、その人が好きなのに、どうしても、その人が許してくれないのだ。時には、謝罪は罪悪感に押し潰されそうになることから、逃れるために、つまり、自分が楽になるためのする場合がある。相手からすれば、それすら、鬱陶しいのだろう。最近、僕はある失態を犯した。何故なのか、自分に問いかけてみたが、それは多分、相手に対しての甘えだったのだろう、と思う。

 僕は、その人から、不幸というものを語る資格がないほどに幸福なのね、と言われ、僕は、それが、どうしても受け入れられなかったのだ。その人は年配で、いわば人生の先輩である。その時、僕はあろうことか口答えしたのだ。キリストは何と言ったか、裁くな、である。ヒルティも、こう言う。裁いてはならない、なぜなら、あなたが人を裁く時、相手もあなたを裁くからだ、と。

 いくら本を読んでいても、経験には勝てない。また経験がなければ、どんな良書を読んでも身にならない。僕は自分の十字架を誇っていた。その驕り高ぶりが生意気な口答えを生んだのだろう。あなたの言う通りだ、今後、気を付けることにするよ、そういえば良かったのだ。

 何故、そんな簡単なことが出来なかったのか。驕りである。取り返しのつかないことをしてしまった。僕は、相手が謝罪すら拒絶する時に、神の存在を求める。その人にとっては謝罪すら鬱陶しいものであるから、代わりに神に謝罪するのだ。結局の所、自分が楽になりたいがために、相手の時間をとる、ということ自体が、相手のことを考えていないのだ。しかし、神は聞いてくれる。自分で自分が許せない時、神に謝罪することで、いくらか気持ちが楽になる。いわゆる自傷行為は、自分が自分で許せない時に行うものであるが、僕は神に出会ったことで、そうした自傷行為を行うこともやめてしまった。

 何故こんな安易に過ちに身を染めてしまったのか、自分でも不思議である。僕はかつてこう言った。「安易な批判は、自分の無知の自慢である」。自分で自分の言葉に批判されるとは、愚かを通り越して哀れである。自分は基本的に自分の道徳律によって、自分を律している。人との付き合い方は、決断の連続である、尊敬、憐れみ、従順などの行動が求められいる。僕は基本的に同情の気持ちを根本において、何か自分に出来ることがあれば、その人に施し、それが出来ないなら離れることにしている。

 この経験で傲慢こそが最も恐れなければならない悪徳だと再認識させられた。ヒルティも、心に傲慢が生まれる時は、誰かに告白する必要があると言っている。この記事をもって、自分に対する戒めとして、形に残しておきたいと思う。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。今回は自分に対する戒めとして、告白という形を通して反省の思索を掲載しました。今回はいつになく落ち込んでいるので、結末の文も控えめにしたいと思います。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、この愚かな告白を読んでくれてありがとうございます。結局の所、僕は自分が楽になりたいだけなのである。だから、こんな告白などしないで、自分の罪として背負っていくことの方が価値のある行いであったかもしれない。しかし、神はどんな悔い改めでも聞いてくれます。僕はそれに甘えようと思うのです。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。