まず始めに考えておきたいことは、幸福になることが人生の目的であるか否かである。そのために、神からの祝福とは如何なるものなのか考えてみる必要がある。この考察の根拠には、実際の聖書から引用してみよう。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神から喜ばれることです。」(1)。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい」(2)。「神のみ旨によって苦しみを受ける人は、善を行い、真実な創造主に自分の魂を委ねなさい」(3)これらは聖書の中での苦しみに対する著述のごく一部である。つまり、本当の神の祝福は、幸福に生きることではなく、苦しみを受けることなのである。なぜだろうか。それは、苦しみによって、その苦しみに応じて、ますますキリストに似たものになれるからである。

 神の掟を従った生活が幸福であるというのは二義的な意味合いでしかなく、幸福が目的なのではないのである。しかし、幸福というものに対する見方を少し変えて、道徳的完成に向けての向上心の満足を幸福だと捉えるならば、苦しみながらも、幸福になれる、ということが可能になるのである。自分に与えられている苦しみが、自分の成長に不可分に結びついている、という自覚が生まれるためである。こう考えると幸福になることが目的であるという見方は出来るものの、試練によって練られた人格を有することが、また、同時に幸福であるという二義的な意味合いになるだろう。

 少し、話を変えて、神の視点に立って考えることが許されるのであれば、神はそれほど悪人のことをお嫌いになってはおられない。自分のことを正しいと考え、人に憤慨する、ありふれた善人のほうを憎んでいると言ってもいいほどである。(憎んでいるといっても、その人から神が距離をおく、という意味合いに過ぎない)だから、徳の塊のような人よりも、悔い改めた悪人の方が救いに近いのである。救いに至るまでに耐え忍ばなければならない苦しみも、心から改悛する人は割合少ない。(だから、刑務所の中で洗礼を受け、人が変わったかのように善人になることが多いのはこのためである)

 しかし、このような人達の方が救いに近いからといって、それが最善なわけではない。かといって、いわゆる、ありふれた善人達が良いというわけでもない。そもそも罪とは自己中心的な考えそのものを指すのであって、そう考えると善人達も罪を犯しているのである。(これは三浦綾子文学の中に鮮やかな筆致で描かれている)しかし、罪に囚われているとはいえ、誇りと自信に満ち溢れ、愛の心の従って、人生を生きる(ヒルティのいう)英雄的人物はいるものである。

 この英雄的人物が試練によって誇りを打ち砕かれ、謙遜という偉大なる徳を備えた時、最も偉大なる人間の型が生まれる。このような人に限って、試練も百熱の温度に高まるのであって、その温度が上がることは、いい兆候である。悔い改めた悪人の場合には試練もほどほどで終わり、比較的簡単に幸福になれることが出来るが、このような人は、生きていながら煉獄の火を通らねばならないのである。

 何故、このような人は厳しい試練を受けなければならないのか、それは神の掟を学ぶためである。自分のことを善人だと思っている人が一番危険なのであって(絶望していることに気付かないのは二重の意味で絶望だと言ったのはキルケゴールである、絶望していることに気付いている方が救いに近いと主張した)、そのような人は、敵を愛せるだろうか、右の頬を打たれたら左の頬をも差し出すことが出来るだろうか、下着を取られたら上着を拒まないことが出来るだろうか、つまり聖書の教えである、悪に対して善で報いよ、という掟に従って行動できるだろうか、ということである。

 普通、敵など愛さず、味方を愛し、右の頬を打たれたなら訴え、下着を取られたならば取り返すであろう。これらのことは神のことを考えずに自分を中心に考えているために起こることなのである。このことを真摯に考えてみるならば義人など、どこにもいないことが分かるだろう。

 神の祝福とは本来、教育的な意味を内包していることが多々あり、善行をすればするほど苦しみが与えられるようになるのである。(当然、善行をしたなら良いことで報われることもあろうが、それは神がその人のことを自分の教育すべき子供だと見做していないのだ)このことについては、語る機会があれば、その時に論じることにして、今回はこの辺で筆を置きたいと思う。最後に、不幸や大きな苦しみの中にいる人を叱咤激励し、人生を高尚なものにするために励ますことが出来る人は、あまりにも辛い試練によって何度も何度も鍛えられた人のみである。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は神から選ばれることの暗い側面のことを語らせてもらいました。今回、強調したいのは善人の苦しみは生産的であり、悪人に対する罰とは一線を画しているということです。しかし、天罰が下らないことが本当の天罰であり、なにかしらの不幸に襲われるということは、一縷の神からの許しが含まれていることを意味します。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、現在は「レ・ミゼラブル」読んでいる最中です。なんでもっと早く読んでおかなかったのかと後悔するほど教訓に満ちた物語です。今の一番の楽しみになっています。この世のものに耽溺してはならないとは言われていても、面白いものは面白いですね。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。

 

(1)聖書 新改訳

(2)新約聖書 フランシスコ会 聖書研究所訳注

(3)新約聖書 フランシスコ会 聖書研究所訳注