聖書は単純でありながらも意味深い金言とも言うべき箴言が数多く載せられている。ここで、一つ挙げようと思うのだが、それはミカ書6.8の「人よ、何が良いことなのか。主が何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって あなたの神とともに歩むことではないか」(1)である。これこそ真の人生哲学であって、真理をあらゆる所で探し周りながら、それを見つけることを出来ずにいる人を嘲笑うかのような単純なことなのである。

 しかし、このミカ書の中で守られていないことがある。それは、へりくだって、という短い一節である。生来の人間は遜ることなど知らない。成長や成功によって、慢心が歳を重ねる度に増長していくのみである。謙遜である、ということが人間にとって一番大切な要素であることは、昔から口酸っぱく言われてきたことであり、わざわざ議論をすることでもないのかもしれない。このような謙遜は運命の大試練によって、自分の無力と無価値さを心の底から味わうことによってしか身に付かない。だから、試練に遭うということは神から愛されていることの証拠なのだと考えて差し支えない。

 自分に及んだ不幸が神からのものである場合、ある特徴がある。それは、必ず、それから逃れる道も用意されているということである。それは信仰の進んだ人にも訪れることであって、何事が起ころうとも、神が必ず助け出してくださる、ということが確信になるまで、その試練は続く。トマス・ア・ケンピスの言葉であるが、「我が子よ、逆境にいて忍耐と抑損(身をへりくだる)を守るほうが、順境にあって多くの慰めと信心をもつことよりも、ずっと私をよろこばせる」(2)のである。

 体が健康である間は、仕事に明け暮れているのが精神的にも肉体的にも健康である。しかし、神はしばしば病気を送り、休息を与え給う。それは、もっと、その人に相応しい仕事をさせるためであったり、頑なになった心を砕くためであったり、静かに読書をする時間を与えるためであったりする。

 特にキリスト教における信仰は、試練によって砕かれた心にしか作用しない。キリスト教を信仰しておきながら、なんの試練も与えられず、幸福に人生を終えてしまった人は、最も多く騙された人であろう。天国自体に入れるかどうかも疑わしい。天国を前にして歯ぎしりする人も数多くいることだろう。何故、このような事が起こるのかは判断がつかない。キリスト教を信仰しているという自覚が、ある種のパリサイ派(聖書の律法を重視する宗派)が生まれてしまっているのかもしれない。

 一番良いのは、親からの相続ではなく、愛のある行いによって、神に見つけてもらい、神自らが教鞭を取ってもらうことであろう。しかし、神からの選びは行いからではない、人生の中には神からの呼びかけが二度三度あるという。その機会を逃さず、捉え、自分の自由意志を全て捧げることが必要である。行いは信仰によって自然に為されるもので、特別、誇るようなものでもない。誇るのであれば己の十字架であろう。

 もし、今、時間があるというのなら、読書することが仕事同様に適切なことである場合が多い。特に仏教の法華経や論語の儒教と聖書のキリスト教を比べ、何故、これらの数ある宗教の中で、キリスト教でなければいけないのか、自分で考えてみることも時には必要であろう。これらの宗教を学んだ後はヴォルテールが、その著書、「寛容論」で唱えた寛容をもって接するのが最も適切であろう。

 また、読書の話になるが、読んでおかなければいけない小説ということになると、あまり無いように思える。ヒルティも支持している児童文学の「クオーレ」や「アンクル・トムの小屋」などもあるが、基本的には心の栄養になるようなものを読んでおくと良いと思われる。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」や遠藤周作の「沈黙」などは教養として知っておく程度で良いと思われる。ただ読んで面白いだけならばサマセット・モームを挙げる。

 キリスト教に関係のない重要な著作者を挙げよ、と言われたら、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレーリウスなどのストア派の賢者を、私なら挙げるだろう。(ヒルティに至ってはエピクテトスを自分で訳し、著書に掲載しているほどである)これらの著作者は人間の高尚な面を叱咤激励し、向上心に燃える若者の心を満たしてくれる。

 キリスト教の著述家であるドストエフスキーやトルストイ、日本で言えば三浦綾子や内村鑑三なども良い本を書いている。特に三浦綾子さんの本は、庶民としての様々な気づきに満ちており大文学者の大家よりも親しみやすい。遠藤周作も面白い著作家ではあるが、彼のキリスト像を独特であり、全く力のなかったイエス・キリストを示したが、世界からは大反発が起こった。

 読書自体は無駄にはならないので、様々な本を読んでおくのが良いと思われる。私自身は三浦綾子さんの、様々エッセイや「泥流地帯」や最近のもので言えば、上橋菜穂子さんの「獣の奏者」が人間の情緒面に良い影響を与えてると考えている。また、私は重松清さんのファンで「きみのともだち」は大傑作だと思っている。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回はあれこれ考えてたことを特に秩序もなく、自由に書かせてもらいました。読書に触れる機会が多かったですね。今回の記事は頭に浮かんできたことを、特に教訓を与えるわけでもなしに書いたので特に重要な事は書かれていません。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、最近、時間が持てたので、トルストイの「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキーの「悪霊」「はくち」(差別用語なので変換出来ない)を読んでみました。大長編で大変だったのですが、個人的な感想を言えば、あまり読まなくても良かったかな、という印象です。特にトルストイは強く感じましたね。トルストイは「復活」や「人生論」「トルストイ民話集」という晩年の作品の方が信仰心を慰霊してくれると思います。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」、後、強いて挙げるなら「地下室の手記」を読んでればいいかなと思いました。一番面白いのは「死の家の記録」なんですけども。今回は駄弁をぐだぐだと述べる記事になってしまいました。それでは、また、お会いしましょう、お元気で。

 

(1) 聖書 新改訳

(2)トマス・ア・ケンピス 呉 茂一・永野藤夫訳 イミタチオ・クリスティ