我々が犯しがちな過ちは、神を定義することである。例えば、こんな幸福をくれるなんて、なんて偉大な神なんだ、とか、こんな試練を与えるなんて、なんてひどい神なんだ、などである。しかし、神とは人間の考える定義よりも、ずっと優れた存在であり、神を何かの型にはめることは常に誤った行いである。なぜならば、どんな高尚な言葉で神を説明しても、神はそれ以上の存在だからである。

 では、神を知るということは出来ないことか、そう問われると必ずしも肯定と言えるものでもない。神を知るために最も必要なことは自分の弱さを知ることである。自分がどれだけ哀れで惨めで愚かな人間であるかということを心の底から自覚することによって生じる著しい己の弱さは(このような弱さは辛い試練の中で覚えることが多い)神に対する依存心に変わり、この依存心に比例して神に対する認識が深いものになる。

 全ての過ちの根源は、すなわち、己こそが正義なのだ、と思い込むことなのである。それとは逆に試練によって謙虚にされるということは、神に対する冒涜を寛容することに表れる。ヨブを襲った試練を考えてみると分かることだが、激しい試練の中にいる時に神を冒涜する、ということは、本当に成長した信仰者であれば、誰でも通る道なのである。

 しかし、そのような神に対する冒涜者に対して、憐れみの言葉を投げかけてやることが出来ないということは、それは、すなわちヨブの三友人の犯した誤りを犯すことなのである。己の意見などというものは、いくらでも非難されても構わないものなのである。それよりも試練に悩む同胞に対する同情の言葉の方が、どれだけ大切なことなのかということは筆舌に尽くしがたい。

 自分に対する非難者に対する最も理想的な態度は己を曲げるということである。非難者を受け入れてあげるということ、その非難をせずにはいられなかった人に対する同情の心をもって接するのが最も正しい仕方である。しかし、このように自分を曲げるということを高度に行える者は、試練によって遜った者のみが行えることである。

 ここにおいて大事になることは己を弱さを知る、ということに戻るのである。神は遜る者のみを嘉したもう。自分は正しいのだ、という頑固な頑迷さは、その人の信仰心を疑わせる。自分に誇るものは何もない、ただただ弱さがあるのみで、神の偉大さの前には恐れ畏まることしか出来ない、という人こそが本当に選ばれた人である。

 しかし、とは言っても神に対する反抗心が全くないという人は稀であろう。無神論者になるのには自分の上司に逆らうほどの勇気すら必要としない。神に対する従順とは厳しい試練によって教育された者しか持ちえないものであろう。神に反抗するということは人間の本性からすれば全くおかしいものではなく、自分の理解を越えたものを拒絶するのは当然とも言える。

 また、神を信仰するという道をとったとしても、神に対する友愛というものは真に結構なものであるが、人間が持っている根本的なものは神に対する畏れの方であろう。自分に訪れた試練に苛烈さによって、神とはここまでの試練を人に課すのか、という畏れである。

 基本的に人間は己の弱さなど知らない。自信のある者は己自身により頼むであろうし、自信のない者は、本当は自分はすごいんだぞ、と主張したい虚栄心の虜である。本当に自分の弱さと向き合い、自分のことを無価値だと見做すのは、厳しい試練によって教育されたものにしか出来ないことである。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は弱さということをテーマにして語らせて頂きました。世論では自己肯定感が高い方が良いという風潮の中で弱さの「価値」なるものを主張することは、少し勇気のいることでした。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕の論文は全くの確信を持って書かれたものではなく、それどころか多くの疑惑をも伴いながら書かれたものです。だからと言っては何ですが、僕は自分自身の記事に対して、そう高い評価を持っているわけでもなくて、いつも核心の部分が抜け落ちているとすら感じています。それは、その記事を読むことによって、幸福になれる確かな道しるべとしての役割がそれだと思っています。それを読むことによって、その人の幸福に貢献しない記事などというものは無価値なのであって、僕の記事には肝心要な所が抜け落ちているとも言えるでしょう。それでも記事にするということは、僕のわがままに他ならず、修行中の身にも関わらず、勇み足で説教するようなものでしょう。

 ただ、僕の記事によって皆様が不快な気持ちにならないように願うだけです。それでは、またお会いしましょう。お元気で。