信仰心は一種の愚かさを、その身に宿している。イザヤの言った、奇妙に聞こえる言葉、我が僕ほどの目しいがあるか、耳しいがあるかというのは、キリスト者の様子を表すものであり、信仰者は非常に理性のある存在として、見られるのではなく、一見すると愚か者であると見られるものが、本当の信仰を持っている場合がある。そもそも超常的な価値観を有するキリスト教を信じるためには、子供のような純粋な信仰心がなければ、受け入れられないものである。信仰を受け入れるために教養は必要であるかと問われれば、ヒルティならイエスと答えるだろうが、中途半端な教養を持つことは、信仰から離れていってしまうことにも繋がりかねない。それはキリスト教があくまで理性で判断する場合には、排斥されることが妥当になってしまうことになるからなのだろう。(そもそも唯物論から言うと福音書に描かれている数々の奇跡を信じることは出来ないであろうから)

 また、道徳的に言って一番優れているからという理由でキリスト教を信じる場合もあると思われる。しかし、信仰は道徳ではない。道徳だけを言えば孔子の論語も極めて高い倫理的道徳観を持っている。あらゆる宗教の中でキリスト教でなければいけない理由は、神は存在し、その神に服従する、ということなのである。(イスラム教もユダヤ教も、この敬神という点では、キリスト教とも手を取り合える)

 内村鑑三はかつて、こう言ったと言われている。ある人が信仰を受け入れた、という報告を受けた時に「ご愁傷様」と。というのも、この信仰の本幹は、神を信じることで与えられる厳しい試練を通して、キリストに似たものになる、ということだからである。何の試練も苦労もなしに、キリストを信じ、月日が流れることで自動的にキリストに似たものにされる、というのはナンセンスである。

 キリスト教に対する信仰が、その教えを信じた人に対して何の影響力も及ばさないというのは奇妙なことである。キリスト者であるにも関わらず、世俗の人と同等の生活をする、ということはキリスト教が批判されてもおかしくない理由になる。ヒルティは「神に碇を降ろした信仰が本当の道徳力」となっているか、どうかを問いている。

 つまり、信仰とは人生は滅茶苦茶なものになってしまうかもしれないが、あなたにとって最良のものが与えられる、ということに同意するか否かなのである。平和で便利になった、この時代では病気や障害となって、それは表れてくるであろう。神が求めたもうものは心の貧しい人であり、才知豊な教養人ではない。もはや神にしか縋るもののない哀れで愚かな人間、それが神の最も求める人間なのである。

 神を信じ、如何なる試練や患難の中にあっても、その信仰を失わないことが肝要である。しかし、人類の叡智によって、様々な文明の利器を得るに至った人類が、子供のような純粋な信仰心を保つことが、いかに難しいことであろうか!

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は日本人にとって、いささか分かりにくい信仰の話になりました。僕個人的な意見を言えば、信仰によって得られるものよりも失うものの方が多いと思っています。それでも、何故、神を信じるのか。それは、もう、僕には神しか縋るものが残っていないためでしょう。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕は能動的な努力はあまり好きではありませんが、真理を求めて、読書だけは、ずっと続けています。なにかしらの力、技術を持つことは非常に危険なことですが、幸いにも神は知識を追い求めること自体には、なんの制限もしませんでした。このブログの活動も細々としたものですが、自分が人生の中で、答えを見出した時に、それを発信できる場として所有しておきたいと思っています。しかし、今はその時期ではありません。それはいつか来ると思っています。その時には、もっと確信を持って、人生における幸福とは何ぞや、ということを述べたいと思っています。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。