僕が本当に首を傾げてしまうことなのですが、それは、あれほど慈愛と寛容を備えた神が、死後に永遠の刑罰である地獄を作ったことです。聖書の中には地獄を彷彿とさせる描写がいくつかあります。それは貧しいラザロと金持ちの例えであったり、直接のキリストの言葉である、魂を殺すことの出来る神を恐れなさい、という言葉の中にも地獄を連想させるものがあります。

 牧師様の意見を伺うと、この世の出来事は、死後の世界を前提としないと帳尻が合わないというのです。それは理解出来ることです。その人の罪と比例しない苦しみが、この世にはあって、何故、あの人はここまで苦しまなければならないのか、また、ある人は余りにも苦しみが無さすぎるのではないかと首を傾げることが多いからです。

 僕の考えでは、この世においての不幸は神からの赦免状なのです。本当は来世で受けなければならなかった苦しみを、この世で受け、さらには天国に行く切符にすらなるのです。ヒルティの意見によれば、厳密な意味で言えば、この世には偽善者と利己主義者しかいないと言っています。これは、まだ彼が若い頃(とは言っても58歳ですが)の意見なので、僕自身として、これを真理とは受け取りたくはありません。

 と言うのは、神が最も嫌うのが、この偽善だからです。それどころか公然と悪を行う者の方が偽善者よりも好んでいる、とヒルティは言います。しかし、とは言ったものの、天国に相応しいとか、あるいは地獄に相応しいとまで言える善人と悪人が、そうそういるわけではありません。自分の罪と向き合ったものには自分こそが地獄に相応しいと判断することはありえることでしょうが(あらゆる人間が罪なしでは生きれないからです。そもそも自分とは別の命を奪わなければ生きていけないという構造そのものに罪が宿っているとも言えます)、このような悔い改めた魂を地獄に落とすということも、不可解なことです。

 僕自身があらゆる試練の中で、自殺を思いとどまったのは地獄に対する恐怖からでした。ダンテの神曲の中で自殺者の地獄を見てみたくて読んだ程です。そこでは自分で捨てた肉体を取り戻すことが出来ず人面樹となって苦しみ続ける人々が描かれていました。(ずいぶん昔のことなので、うろ覚えですが)地獄でも天国でもない煉獄という世界をダンテは描きましたが、聖書の中では煉獄は存在しません。僕自身は天国に固執しているわけではなく、完全な無を意味する暗闇の中でも、もはや苦しみが存在しないなら、そのような虚無でも構わないと思っているほどです。

 僕の最愛の人でもあり近親者である存在は、その罪のため、楽には死ねないのだろう、と思っていましたが、その後に恐ろしい不幸に襲われることになり(僕自身もひどくショックを受け、三日三晩寝込んだ程です)、ひどい後遺症が残ると宣告されてしまいました。これは僕自身にとっても、ひどい苦しみであり(ただ自分だけが苦しむだけだったならば、どれほど良かったと思う程です)神が、その人を許した証なのだろうと思いました。(しかし、そのことについて僕は神を呪いました。しかし、神はこのような最悪の出来事の中から最良のものを作り出されるという確信がなかったならば、僕は信仰心とおさらばしなければならなかったでしょう)

 しかし、このように、この世で処罰されなかった魂はどこに行くのでしょうか。僕自身でも分からないことです。無信仰者に対する神の忍耐と寛容は、人間が想像することすら出来ないほど大きいものです。それが死後、となると、完全に救いない地獄に落されるというのは、僕の中で納得のいくことではありませんでした。煉獄というものが実際に存在したならば、その意見も少しは変わったでしょうが、永遠に苦しみ続けなければならない地獄というものを、僕は肯定したくはありません。

 僕はこの世で地獄を味わったので、死後の地獄を侮るということは絶対にしません。死後は無でも良いですが、地獄は絶対に嫌です。地獄に堕ちるくらいなら、この世で五体不満足となって十字架の磔刑を受ける方がましです。なぜなら、その苦しみには終わりがあるからです。終わることのない苦しみ、それは苦しみというものを少しは理解した僕を震え上がらせるに値するものでした。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は近親者の不幸で、ひどく打ちのめされた状態で書きました。その人の代わりになりたいと願ったのは、これが初めてでした。他人の苦しみがそのまま自分自身の苦しみになったのです。いや、これが自分だけの苦しみであったら、どれほど良かったことでしょう!

 愛する、愛する、愛する皆様へ、今度ばかりは、これほど僕も信仰を振り捨ててみたくなったことはありません。それほど、僕は打ちのめされました。今後のことを考えると目の前が真っ暗になりました。今度ばかりは神に対する感謝も尽き欠け、神に対する畏怖の念で一杯になりました。この先に希望があることを願ってやみません。ここまで付き合って頂き、ありがとうございました。受難に耐える皆様の上に、神の御加護かあらんことを、ひたすら願っております。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。