人が目指さなくてならない目標とは何でしょうか。僕の知人が言っていました。それは「誰にでも挨拶し、礼儀正しくあること、そうすれば、何か必要になった時、声をかけてもらえる」というものでした。つまりは人間性を磨くということなのですが、それを実行するためには何が必要でしょうか。例えば、努力をして将棋が上手くなった、とか、何かしら運動競技で高い成績を残した、としましょう。しかし、このような努力は人間性に何か貢献するでしょうか。ヒルティは著作の中で、こう述べています。「成功するということが、その人に対する罰なのだ」(1)と。また、こうも引用しています。「何か持っているということが、その人の表情に不敬虔なものを与える」(2)と。
また、こうも言っています。「成功は人の短所を伸ばし、失敗は人の長所を伸ばす」(3)と。つまり、能動的な努力によっては人間性を向上に貢献しないばかりか、悪化させる場合すらありうると言うのです。これは、いささか妙に聞こえるかもしれませんが、僕自身はこう思っています。「本当の努力は受動的なものである」。(努力は能動的なものですから言葉遣いとしては間違っています)つまり、人間性に貢献するものは運命からの試練だと思っているのです。
人間を本当に進歩させるもの、それは苦しみに他なりません。ヒルティは言います。「善人の苦しみを是認するためにいいうる最も簡単で正しい言葉は、善人が苦しみによってさらにすぐれた者となる、ということである」(4)と。またヴィクトール・E・フランクルもこう言います。「こうした不幸は「高貴」な不幸とよばれていました。けれども、そのような不幸に耐えて苦悩することそのことで、人間は高貴にされるのです。最高価値の領域へさえ高められるのです」(5)と。(フランクルを、いい機会だと思って読んでみました)
こうして考えてみると、苦しみというものは最高の神からの贈り物だと捉えることが出来ます。本当に人の心を打ち、人間の道徳性を伸ばし、説得力を持つ言葉が言えるのは、このような苦しみの恩恵を味わった者のみが言えることです。(数え挙げればきりがありませんがカール・ヒルティ、トマス・ア・ケンピス、十字架の聖ヨハネ、アビラの聖テレジア、ヴィクトール・E・フランクルといった大著作を残した人は一人残らず、大きな苦しみを味わっています)このような苦しみの有用性は聖書の中でも、幾たびも載せられています。
聖書において示される道徳は極めて高いもので常人に実行不可能のように思えます。(例えば、敵を愛せよ、や、右の頬を打たれたなら左の頬をも差し出しなさい、だとか)キリストが十字架の磔刑に遭った時、まず始めに思ったことは、自分を十字架に付けるものたちを許してください、というものでした。これなど道徳の極みであり、キリストに対する理解というものを限りなく難しいものにしているのです。しかし、このキリストが持っていた道徳に近づくことは可能です。キリスト教がキリストに対する倣びとしている所以です。
実行不可能だと思われている道徳を自分のものにする、ということが人生の甲斐ある目的の一つであることに違いはないでしょう。しかし、それを如何に達成するかとなると意見がばらけるのです。その道徳を極めて高い角度で獲得することは、あまりにも多くの苦しみを受けなければならない、とするのが僕の哲学です。世の中には申し分ないほどに善人である人は多いですが、人間は本来、怒りの子であり、この怒りというものを根本から改善し全く怒気を持たないという所まで教育されている人は極めて稀であり、善人に対して、苦しみの試練を神がその人たちに差し控えているのは、この世の中で最も不可解なことです。その善人達は苦しみの炉で錬られていれば、より大きな幸福を獲得出来るのに、その機会を逸しているのです。
しかし、それは理由のないことではないのかもしれません。そのような大きな苦しみはとても耐えづらく、本人にとっては全くありがたくないものなのです。僕は本の知識で苦しみが如何に人生において役に立つか、ということを散々教えられましたが、大きな苦しみを与えられた時、その苦しみに感謝したことは極稀れでした。振り返って考えた時に、そのような苦しみはなくてはならないものだったと思うのですが、それは全て後になってから感じることの出来るものでした。
善行をした時に報いを受けるのは当然のことですが、それに対して苦しみが送られるようになった時は、人生において大きな転換期を迎えた時なのだと思います。僕はブログの中で苦しみの重要性を重ね重ね説いてきました。しかし、苦しみの真っ最中というものは、そうした有益の思想を持ってしても、少しも慰められることはありません。人は強制的に鞭打たれる運命に導かれなければ、苦しみの重要な意味を掴み損ねてしまうのです。しかし、逆にこうも言えるでしょう。大きな苦しみを味わった者、その者だけが(強調して言いますが)本当の幸福に到達出来る、と。(そう、幸福とは人間が獲得できる人生の収穫物なのです)
最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は自分の逆境に立たされた時に、自分を鼓舞した思想を紹介しました。僕自身も、自分の運命の中に、余りにも夥しい苦しみがなかったのなら、苦しみの重要性など分からなかったでしょう。
愛する、愛する、愛する皆様へ、僕自身はごくごく平凡に、ほどほどのもので人生を生きていたいと思っていました。十字架の重みに耐えかねていたのです。しかし、昔のことを考えてみたら、現代の優れた文明がなかった時代は、生きるということ自体が本当に難しかったのでしょう。それは現代にとっても(生き辛さという点では)変わりないのかもしれませんが、僕の苦しみというものも、そう誇張したものではないのかもしれません。しかし、今でも、こう思います。平凡でも弱くても恰好悪くてもいい、それでも、普通の幸福を味わったままでいたかった、と。最後に、人生の終わりを迎えた時に、この意見が変わっていればいいと願います。それでは、皆さん、御機嫌よう、またお会いしましょう。お元気で。
(1)(2)(3) ヒルティの幸福論の中にあったと思いますが正確な個所を思い出せません。死後70年以上経っているので自由に引用しています。
(4) ヒルティ 大和邦太郎・草間平作訳 「幸福論 第三部」
(5) ヴィクトール・E・フランクル 山田邦夫・松田美佳訳 「それでも人生にイエスと言う」