人間の助けが全く無駄に終わり、神に向かって意識がいくようになると自体が好転し始まるような気がします。悩みは尽きません。しかし、人間の助けがあったら、いつまでも、それに捉われ続け、意識は一向に神に向かいません。僕の知識は豊富な読書体験からくるものであることが多いのですが、これはあくまで想像ですが、このような試練は、ある程度、神への信仰が進んだ人に与えられるように思うのです。それまで培ってきた神への信頼がなくては、この試練を乗り越えられません。

 状況が全く良くならず、あらゆる慰めも徒労に終わり、絶望の中にいる時に神へと意識が向かうと、心は安らぎます。神に向かって一心不乱に「お助けください!」と願う時に、確かに道が開かれるのであります。それは一種の通過点であり、本当の幸福は、ここから始まるように思えるのです。あらゆる患難、苦難、苦しみが自分にとって相応しく、それを寄越してくる神に対して、全く不平なく受け入れる時に、確かに人生は一歩ずつ前進するのでしょう。

 また、世界を眺めた時に目に入ってくる不幸に対して、自分もまた苦しみにあえぐ魂であることは一種の光栄でありましょう。そうでなくては日々、没落していく同胞を目の前にして、自分は安穏とした生活を続けることは心の貴高い人にとっては苦痛でしょう。

 神を強く意識することは、このように切実に助けを求める魂にしか出来ないことです。信仰の初歩にある人にとっても耐えがたいことでしょう。僕の体は様々な薬の副作用でずたぼろのぼろ雑巾のようになっています。夜眠ることも、ままならず、朝は強烈な苦しみが襲い掛かってきて、休まる日は一日としてありません。それを医師に訴えても、聞き入れてもらえず、ますます薬が増え、さらに副作用で苦しめられるという悪循環にはまっております。完全に廃人の状態に陥っており、「何故、どうして」と問う日々の中で神に向かって泣き叫ぶ日々が続いております。

 神に向かって切実に懇願しております。その中で書物を紐解くと僕のように苦しめられながらも、最終的には、この苦しみを作ってくれたことに対する感謝の証言がたくさん見受けられます。聖書の詩篇の中でも嘆きの中にありながら、そこから助け出されることで神に対する賛美で締めくくる証言がたくさんあります。

 僕自身は長く続く重い試練の中で一種の諦念の中にいます。祈っても祈っても、祈りは聞き届けてもらえず、さらなる不幸と苦しみが送られてくる人生に対して諦め、その苦しみの中でも感謝できることを探そうとしたのです。結局は無駄であり、それが神の御心であるならば、それを受け入れる。それを何回も繰り返しました。襲い来る現実を受け入れることには、いつも時間がかかり、一つ受け入れると、また一つ、受け入れがたい現実が迫ってきます。

 その繰り返しの中で僕の信仰は強化されていきました。僕の欠点や軽佻浮薄さ、人生に対する不真面目な態度なども一挙に改善されていきました。低俗なものに対する嫌悪感、単なる享楽に対する退屈が生まれ、本当の人生の宝に対する審美眼が育まれていきました。自分のことを最も劣った人間だと考え、まったくの役立たずであり、他人を高く評価する習慣を養いました。

 また、神への絶対の信頼を育み、僕が絶対に耐えられない決定的な事柄からは常に守ってくださるという確信を得ました。身に襲い掛かってくるものは神の許可があって、それゆえに耐えられるものであるものであるということも分かりました。人はどのような状態に陥っても生きることが出来、様々な苦しみを通して、どんな苦しみに対しても同情することが出来ることが可能なのだということを学びました。

 この様々な試練を通して、病に侵されながらも愛に溢れる痩身の美青年が作られました。彼は全く役に立たず、心の貧しい人でありますが、病気によって容姿を破壊され、外見が卑小な人の事も理解出来、また、薬の副作用によって肥え太ったこともあり、そのような人の事も理解出来ます。このような神の教育を理解出来、神によって、人間の芸術作品が作られることも理解出来ます。この神による教育こそがキリスト教の真骨頂であり、人に品性を教えるのも、この宗教です。

 このような愚かな自己紹介は本来なら余計なものなのかもしれません。しかし、試練の中で育まれる道徳性、研ぎ澄まされる品性、独特な人間としての器の大きさは、この宗教ならではのものです。これは全く心砕かれた魂の特徴であり、このような人格を作り出すものは、この世に存在する確かな力でしょう。この魂は、この世の低俗なものから解放され、より高い倫理的な世界観を築くことでありましょう。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回の記事にはお見苦しい点が何カ所かあると思いますが、どうか寛大な気持ちで受け入れてくれることを願います。愛する、愛する、愛する皆様へ、僕には、なんの力もありませんが、それゆえに感謝することを知っています。愛することの尊さ、遜ることの重要性、感謝することの心の満足を知っており、僕はそれを、この世のどんな財宝であっても、それと代えたいとは思いません。皆様方は、僕よりも人生の先輩であり、神の目からしても尊いと思います。僕は本当に小さい者です。しかし、それでも良いと思うのです。苦しみはなくなることはなく、それゆえに神にさらに近づくことが可能になると僕は思います。それでは、またお会いしましょう。どうか、お元気で。

 

 追伸 僕は祈りが届かないので祈るということをあまりしないのですが、最近は、その重要性が理解出来るようになってきました。キリストの例え話の中にあったように、うるさくてかなわんから叶えてやろうという不埒な裁判官のように、何度も繰り返し繰り返し、切実にお願いすれば、神は確かに応答はしてくれると思うのです。それには、待つということも大事になるでしょうが確かに神は叶えてくれるのです。神は善い方であり、いたずらに我々を苦しませるのではないのでしょう。