ヨブの大試練の後、大きな報いがありました。これは聖書の中でも賛否両論があって結局の所、応報思想になってしまうのではないか、ヨブは神と出会えたことで満足するべきではなかったか、などなど様々な意見があります。しかし、そう書いてあるから仕方がない、その祝福も感謝して受け取ろうという態度が妥当ではないかと思います。

 僕も人生の半ばにおいて報いはまったく与えられないという状況です。しかし、神とまみえたヨブが持っていた信仰、謙遜、様々な道徳力などは与えられたと思うのです。このまま外的な報いが与えられないということは考えられますが、僕はそれでも良いのではないか、人生が終わった時に、神から「お疲れ様、ご苦労様でした」というお褒めの言葉が頂ければ、それで満足なのではないかと思うのです。

 なぜならば、内的な報いは存分に頂けたと思うからです。僕は恵まれない環境にいます。様々な制限の中で生きています。それでも神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(1)と言ってくれているように思えるのです。それでいいと僕は思うのです。神が何かをするために僕を苦しみの炉で錬っているのかもしれません。そうでないかもしれません。このようなブログを書くことも神の御心に適うことなのかもしれません。

 僕は神について考えることが幸福であり、このようなブログを書いているのですが、それが誰かの目に留まり、信仰を育てることが出来るかもしれません。また、既に信仰を持っている人の信仰を深めるかもしれません。誰かが、僕のような人生がいいなと思ってくれる人がいるかもしれません。

 僕は思います。神がいない人生がいかに虚しいものかと。神について思弁することが、いかに楽しいものかと。このような不幸の中にあったとしても太陽の曙光のように光り輝く神への愛が僕を支えてくれています。神経衰弱に陥りそうな時、いつも支えてくれるのは神への愛でした。

 人生についても考えます。それが神の目からして尊いものであるかと。もがき、あがいたことは決して無駄ではないと、神は言ってくれると思います。今は辛抱、忍耐の時だと言い聞かせています。正直、もう駄目だと思うことがたくさんあります。でも、この人生の結末には、何か答えが用意されている、そう思うのです。だから、安直に自殺の道を選ぼうとは思いません。

 僕の人生には様々な試練がありましたが、今になって、このような重い試練が下されるとは思っていませんでした。それでも、今まで試練に耐え抜いてきたという一心で、なんとか凌いでいます。ここまできたのに自殺という道を選ぶのは、あまりにも、もったいない(このような言い方が許されるのであれば)ことだと思うのです。

 僕は神の祝福はあると思っています。いえ、もう頂いているかもしれません。このような執筆活動に携わせて頂き、皆様のような暖かい読者を得ている時点で、もう幸福なのかもしれません。しかし、神はもっと大きな恵みをもたらそうと待っていらっしゃる、そう思うのです。

 僕の人生は人から見たら、恵まれぬ運命なのかもしれません。しかし、神の目からすると、これほど尊いものもないと思うのです。この人生から救い出してくれることを願っていましたが、このような人生を全うし、苦しみと不幸でしかなかった人生を神から労ってもらう、それもありなのではないかと思いました。

 肝心なことは生きることです。命は安直に投げ出すものではありません。幸い、僕は人には恵まれ、僕が亡くなれば悲しんでくれる人が大勢います。神からの答えを僕は知りたいのです。何故、僕はこのようになってまで苦しまねばならなかったかを。ヨブは、肝心の答えを与えられませんでしたが、神は意志はヨブのことまでも考えているということが明らかにされ、ヨブは悔い改めました。

 僕の人生を神が活用され神の器として機能することを願っています。しかし、この世を苦しんで生きた一個の魂としてこの世を去ることも悪くないと思います。その折々に感じることを発信する場を持っておりますし、読者もいます。このような人生も神はお喜びになるのではないか、僕はそう思います。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は暗い話になってしまいました。僕自身は神は常に人間の幸福を考えてくれていると考えていますが、今回は厭世主義的な主張になってしましました。皆さんの運命はそうであってほしくないと思います。しかし、不幸と苦しみで呻いている一個の魂の主張も、エレミアの哀歌のように、必要なのではないかと思いました。その魂が神を見出し、そこでのみ憩いを見出すというのも面白い人生なのではないでしょうか。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、人生を生きるということは全く容易ではなく、僕よりも人生の先輩である皆様はそのことをよくご存じだと思います。人生は与えられるものよりも奪われるものの方が多いに違いありません。それでも、神の中に憩いを見出すことは出来るのです。僕は厭世主義的思想に囚われてしまいましたが、皆さんにはそうであってほしくありません。人生は楽しみではなくて、より多くの喜びを見出してほしいと願っています。皆さんの人生の中で厭世主義は一過性のものであり永続するものではないのだということを証明してほしいと思います。それでは、またお会いしましょう。

 

(1)聖書 新改訳