我々の運命には不可解なものや理不尽なもので溢れています。この世で受ける様々な試練は、来るべき来世への準備だと言えるでしょう。来世のことを考えて初めて帳尻合わせが出来るのです。では、この世では不幸に暮らし、まったく報われることなく来世への希望だけ持って生きるべきでしょうか。僕はそれには否、と答えます。確かに十字架は存在します。それは墓に入るまで続くことでしょう。しかし、それでも、この世を幸せに暮らすことが出来ないということではありません。
思惟を神に向けることから、幸福は始まります。この神から差し出される運命に対して是と答えるか否と答えるかで人生は決まります。神に感謝して、この受難の杯を受けるか拒むかは人の自由です。しかし、確実に言えることは、この受難の杯を飲み干す度に神の存在が、その人にとって大きなものとなり、神について思弁することが大きな喜びになるということです。神が与えてくれるものは仕幸と至福であり、神について考える大きな喜びです。聖書に書かれてあるように、主は避け所であり、神の所に戻らなければ安息は得られないのです。
自分の運命について満足するということは至難であり、それは無神論者においても同様でしょう。無神論者は比較的幸福に恵まれ、人生を穏やかに暮らしますが満足ということは得られないと思うのです。本当の意味で運命と和解するものは信仰者だと思います。様々な試練の中で、それを与える神の御心を知り、より大きな幸福を与えようとする意志を見出す時に、自分の運命とは、こうでなければならなかったのだと悟る時、運命との和解がなされます。
それは大きな仕事です。様々な試練が起こり、あらゆる慰めが取り去られる時に、それは強く感じるでしょう。しかし、それでも自分の運命を肯定することが出来るのは、試練の度に練り上げられる自分の道徳力でしょう。これ以外の道はなかったと思う時、事態は好転し始めると思うのです。
しかし、この過程には、待つ、ということが必要になってくると思います。そして、人を見捨てても、神は決して見捨てないということが確信になっていなければなりません。そうでなければ襲い来る不幸の前に、人はうちひしがれ自殺を選びかねません。あのヨブが持っていた忍耐力を持って試練を乗り越えなければなりません。
人生は試練が終わり、また試練が始まり、試練の連続です。その試練を乗り越えていく度に、神の器として相応しいものとされていくのです。その度に生きる希望を失い、絶望に突き落とされるのですが、それが、いつしか来世への希望と将来の幸せへの期待へと変わっていきます。
神がある人に対して、なんでもするという決断をする時、人間の大きな進歩がなされます。その人は嘆き、悲しみますが、それと同時に未来に対する希望が与えられるのです。しかし、それでもうまくいかないということはあり得ます。それだけ、神の期待が大きいということでしょう。その時こそ、忍耐の時です。全身全霊をかけて神を信頼し、あらゆる不幸や苦しみに対して武装する時です。それが乗り越えられた時、運命との和解がなされるでしょう。
最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回、僕はまるで好転しない状況の中で、絶望の中にいました。好転するどころか悪化し、もう生きる勇気を失いかけています。それでも、神に対して思弁をしている時は心が安らぐということに気付いた時、筆をとることにしました。愛する、愛する、愛する皆様へ、大同小異こそあれ、皆さんも僕と似たような経験を持っていると思います。人生がうまくいかない時、悲しみの時に、さらに病気で追い詰められたりすることもあるでしょう。しかし、それがいつしか糧になっていると気付くときがあるはずです。それでは、またお会いしましょう。どうか、お元気で。
僕のブログを読破された方へ、改めて感謝したいと思います。ありがとうございます。僕のキリスト教理解とは違うかもしれませんが、それでも読んでくれたということは、何か感じることがあったのでしょう。僕もあなたのブログを楽しみにしています。このような取り上げ方をしてしまい、驚かれると思いますが、何か言わずにはおれなかったのです。この世には様々な悲しみがありますが、慰めも存在しています。どのような形であっても、こうしてお知り合いになれたことを嬉しく思います。