僕はいつも幸福のありかを探しているような気がします。その時に思い浮かぶのは、いつも神のことでした。何をしている時も、僕の前には神がおりました。この神への探究を神御自身が求めていらっしゃるような気がしてならないのです。そこで、僕が気付くのは、神の考えることは分からないということです。僕が神のことを理解する手掛かりとして求めたのは苦しみでした。苦しみによって神が神たるゆえんが分かるような気がしていたのです。しかし、僕は神のことが理解出来ませんでした。しかし、このような探求が幸福をもたらすことは分かりました。

 幸福のありか、それは神への探究でした。神御自身が、このように自分のことに興味を持ってくれていることを喜んでいるような気がしてならないのです。僕自身は信仰は己の弱さを実感した人の神への依存心だと考えています。僕自身が考えた言葉なのですが、このような言葉があります。自身を支えて立つ両の足の力強さによって神を忘れる。神は己の弱さを悟り、遜って悔い改めた心を喜んでいらっしゃる、そのように思うのです。

 神への信仰心とは如何なるものでしょうか。恐れでしょうか。感謝でしょうか。それも大事だと思うのですが、僕は依存心だと思うのです。神なしでは自分の存在を支えられない、そのような弱さではないでしょうか。そのような弱さを自覚する人は神を忘れることはありません。

 己の苦しみを理解する存在、それは神しかいません。これも僕の言葉ですが、こんな言葉があります。その人の神への希求心が、その人の味わった不幸である。己の十字架を肯定するためには、神という保証人を必要とするのです。でなければ、あまりの苦しみの深さは人間には理解出来ません。大同小異、苦しみはあるでしょうが神を頼る人の不幸は、もはや人では想像することも出来ない程、深いのです。

 永遠に続くかと思われる苦しみに慰めを与えられるのは、唯一、神のみです。神の存在を確信する人は、もはや理性でもって神を理解しません。理性で理解できるものなら、信じるという言葉も不要でしょう。神という絶対者が自分の運命に口を挟んでくる(このような言葉が許されるのであれば)という経験は、信仰者ならば誰もが持っていることでしょう。それは大抵、自分にとって都合の悪いことであり、その試練がなければ、度し難い自分の欠点を克服することは出来ないように思われるのです。

 神への探究、それは終わりのないものであり、また、神がどれほどの自分のことを愛してくださっているかの探究でもあります。そこにも幸福のありかがあるような気がしてならないのです。生きていること自体が楽しいという境地は、そう易々とはなれるものではなく、多くの試練の結果として心の内に芽生えるものです。神がそのような幸福に導いてくれている予感があります。

 そのような人はあらゆる人の支えが取り去れて、もはや神しか頼るものがないという状況に追い込まれます。それは単純に恵みであることなのですが、これほど辛いことも、この世にはありません。この世を嘆き、苦しみ、あがき、もがく。いつしか、その嘆きが天の調べとなるのだと思います。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は極度に追い詰められ、神への信頼も無くなりかけていました。この試練は、いつまででしょうか、と試練に怯える心は呻きます。絶望に陥ってしまって生きる希望も失いかけている中、それでも僕には神が傍らにおられ、その苦しみを理解してくださっていると感じています。僕は人生を諦めかけているのかもしれません。しかし、その諦めた人生も神は尊いものと認めてくれると思います。愛する、愛する、愛する皆様へ、そのような絶望を味わった方もいるでしょう。その中でもあがき苦しみ、幸せを勝ち取っている方もいるでしょう。また、僕のように諦めてしまった方もいるかもしれません。それでも、例え話で出てきたあの飢えて死んだラザロのように、そのような人生も尊いものとして、神は認めてくれると思います。それでも、僕は皆さんが幸せであることを願います。僕と話す、牧師様はよく言います。神は善い方である。パンを求めているのに石をやる親がいますか、ましてや、それが神であるなら、なおさらです、と。皆さんにとって、神が善い方であることを祈って。神は必ず報いてくれるでしょう。それでは、またお会いしましょう。皆様の愛に必ずや神が報いてくれるでしょう。僕にとって記事を重ねる度に皆さんが尊い存在になっていくのを感じます。どうか、お元気で。