僕は普段、哲学書や宗教書を読むのですが、一般文芸も好きです。本屋さんにふらっと寄って話題の新作を何冊か読みました。本屋大賞受賞の「流浪の月」、余命10年で有名になった小坂流加さんの「生きてさえいれば」を読みました。現在進行形で「そして、バトンは渡された」を読んでいます。月日が経てば物の好みも変わりますね。学生の頃はバトルロワイヤルやクリムゾンの迷宮といったゼロサムゲーム(一つの枠を奪い合う和がゼロになるゲーム理論)が好きでしたが、穏やかな日常を描くものも良いですね。昔はこうやって語彙力を増やしていったなぁと感慨深いものがありました。重松清の「きみのともだち」も傑作だったなとか東野圭吾「容疑者Xの献身」で涙を流したことを思い出しました。

 最近は多読を控え、同じ書物を何回も読んだり、翻訳者が違うものを読んでいました。僕の愛読書はなんといってもカール・ヒルティの「幸福論」、「眠られぬ夜のために」にですね。ヒルティは弁護士、軍人、哲学教授、後に政治家となった著作者です。「幸福論」は三つ翻訳があり、「眠られぬ夜のために」は二つあります。翻訳者も変われば趣も変わり変わった楽しみ方が出来ます。草間平作・大和邦太郎訳の古風で固めの翻訳や秋山英夫訳の力強い訳文は魅力的ですね。もう一つの愛読書はトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」ですね。これも三つ翻訳があります。僕は講談社学術文庫を愛用しています。トマス・ア・ケンピスは修道院の修道僧です。後、もう一つはと言われると十字架の聖ヨハネの「暗夜」と言いたいところなのですが、ここは一旦キリスト教を離れてショーペンハウアの「幸福について-人生論-」を挙げたいですね。ショーペンハウアーは仏教徒的思想を持った厭世主義です。これも二つ訳があります。

 アランの「幸福論」やマルクス・アウレリウス「自省録」、セネカの「怒りについて他二編」など挙げていけばきりがないのですが、三大を挙げればヒルティ、トマス・ア・ケンピス、ショーペンハウアーになるでしょうか。僕は評価の高いカントやダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」は理解できませんでした。一読はしましたが何が良いのかさっぱりわからなかったのです。いつかわかるときがくるのでしょうか。

 これら読書の利益はやはり倫理的教養でしょうか。自身の倫理観に強い影響力を持った作品を重要視しています。しかし、これらの哲学者は大衆受けしません。なぜならば、読む本人も著作者と同様な精神的素質を求められるからです。だから、哲学者たちは晩年にやっと認められ、肖像画にはなる頃には白髪の老人になっています。僕は特にヒルティの外貌が好きですね。本当に厳格なる愛を持った人格者という趣があります。僕もこんな老人になってみたいと思います。内村鑑三も晩年には本当に深みを備えた好々爺になりましたね。彼はいい歳の取り方をしましたね。ショーペンハウアーは若い頃は美青年でしたが、晩年には苦悩を顔に刻まれ、惑星のような瞳をした老賢者といった趣です。

 しかし、なんといっても読書といえば聖書ですね。これを外しては何も語れません。実際に我々に力を与えてくれる神との約束(契約といったほうがいいのかもしれませんが)は、この本によって与えられます。その中でも福音書の中のキリストの言葉は何によっても代えがたい価値を持っています。キリスト教文学者の主張はこの本を前提にして語られたものです。しかし、聖書だけを読んでいればよいのか、と問われれば僕は迷ってしまいますね。然りとも言えますし否とも言えます。しかも聖書の中のキリストの言葉だけを読んでいるだけでも良いのかなと思う時もあります。

 僕自身はヒルティの見解とは異なるのですが、読書に対して、そうたいして重きを置いてはいません。読んでいた方が良いとは思いますが必須であるとは思いません。無学の者であっても心優しい人(それは女性の中に多い)であることのほうが、よっほど重要だと思います。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。愛する、愛する、愛する皆様がよりよい人生が送れることを願っています。僕自身は非常な苦境に立たされ、断崖において一本の綱につかまる人のように、か細い神への信頼でやっと堪えれている現状です。皆さんの励ましがどれだけ僕を励ましてくれているかは言葉では語れません。皆さんの優しい心には人には語れぬような経験があってのことだと思います。僕も、今この試練の時があったからこそ、青年を卑俗なものに囚われず、より高尚な人生の目的に向かって進めるように励ませる人になりたいと思います。それでは、またお会いしましょう。悲しんでいる人たち、踏みつけられてじっと我慢している人たちが幸いだといったキリストの言葉を噛み締めながら。