神が我々に求めるものは自発性です。放蕩息子の例えであったように自ら悔い改めて神に向かう心を求め給うのです。神が求め給うのは、この自由意志であり、我々が神に捧げることが出来るのも、この自由意志のみです。この人が容易に捨てたがらない自発性は、長く続く苦しい試練によって捨て去ることが出来ます。そこで人は己の無力を知り、何か自分とは別の確固とした力の支えを必要とします。人生に必要なのは深遠な哲学でもなく高邁な教義でもなく、人を救う確かな力なのです。この力は全ての人類を幸福にする力を持っており、自分の人生だけでなく、全ての人類の幸福を願うのならば、是非とも、この力に協力を仰がねばなりません。
その際、神の器になるために自らの幸福を捨てなければならないこともありますが、それでも最終的には救われるでしょう。「大工たち役に立たぬと捨てた石、それが隅の土台石になった」(1)。恐らく価値のある人生を送る人なら、一度は捨てられる経験が必要なのでしょう。信仰は賜物であり、それを成長させるのは不幸です。
僕個人的な話をするならば、僕の信仰の始めは書籍による説得でした。この世にはより良い人生があり、神を信じることで、それは贈られるというものでしたが、何の信仰も持たない僕にとって興味深い話でした。それから聖書を読み、教会に通うことにしました。教会に通うようになるまでに大きな試練がありましたが、僕の信仰はまだ初歩の段階であり、神が見守ってくださり、祝福を与えられる存在なのだという認識でした。それから人生を振り返ってみた時に、数多くの神の恵みがあり、それに気付かないで生活をしていたことに驚愕しました。
しかし、そこから神は思い切ったことをしました。与える物はわずかなものしか与えず、不幸と苦しみを与えるようになったのです。それまでの僕は自惚れていました。自分のことを質実剛健であり、どんな運命でも耐えられるストア(克服)主義者であり、熟慮するという意味で賢明であり、精悍でありながら容姿端麗でありました。しかし、そんな覚悟も、重苦しい試練の運命の前に膝を屈しました。僕は、それを、それまでの自分の周りに対する愛、日常に対する愛、運命に対する愛に神が報いを与えてくれたのだと解しました。
追い詰められた心は「神よ、お助けください!」という神にすがる貧しい人のそれに変わりました。信仰の自発性も、ここから強固なものになっていきました。神を固く信じる他に生きることが出来なくなってしまったのです。僕は悩みを知りました。苦しみを知りました。弱さを知りました。僕に残されたのは周りの人々に対する愛だけでした。その愛ゆえに、僕は神から見捨てられたのではなく選ばれたのという意識に繋がりました。そこで僕は自立心を捨て、神に頼ることにしたのでした。今では、もはや神しか頼るもののない哀れな罪びとが一人、残されただけでした。
この圧倒的な破壊と破滅を前にして、ただ立ち尽くすだけでありました。しかし、周りの人々は常に僕のことを覚え、祈ってくれていました。自発的な信仰心は重苦しい運命の大試練を前にして、己を弱さを知り、神にすがることで成長するものなのです。神が常に慈悲を持ち、恩恵ばかりを下さるという場合もあるでしょう。しかし、それは最高のものとは言えず厳格なる父親としての愛を知る必要があるのです。神は愛する者たちの幸福ばかりを願っていてくれます。そのためには親が子供を叱るように厳しく接することも、時にはあるということです。もはや、全てが駄目になってしまい、頼るものが神しかいないという状況に追い込まれた人は、実は恵まれた人なのです。そのような人の信仰心は常に新鮮であり強固です。
最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。皆さんも様々な困難の中にいて、大丈夫なのだろうかと心配になることもありますが、そんな自分が窮地の中にいながら、人を励せる人はすごいと思います。愛する、愛する、愛する皆様へ、その人の上に神が最善のことを計ってくださることを祈って。過去記事まで目を通してくれる人もいらっしゃって、全ての記事だと思うのですが、それにいいねをくださって、僕の方が恐縮してしまっています。ありがとうございます。キリスト教にすごい詳しい方もいらっしゃって、ヨセフの話が心に染みわたりました。獄の中にいても神に対する信頼を忘れなかった彼を見習いたいですね。僕もヨセフは好きでした。人生の辛い時、神への信頼が揺らぎ、あらゆる慰めが徒労に終わってしまい、全てが絶望に変わる時、彼のような人がいたことが大きな支えになるでしょう。それでは皆さん、またお会いしましょう。あ、これは蛇足かもしれませんが、最近、試練が間近に迫ってきた時に、神にしては珍しく「そこまでしなくてもよいよ」と言ってくださいました。その時は、その言葉に甘えましたが、それと同時に成長する機会も奪われてしまったのかもしれません。これは僕に対する愛だったのか、それとも僕自身がその程度の人間だったから灼熱の煉獄の炎を回避してくれたのかは神にしか、わかりません。少なくともヒルティは、自分の試練が軽くしてもよいという権限を与えられた時に、一度も、それを行使したことはなかったそうです。
(1)塚本虎二訳 新約聖書 福音書