以前に書いたエッセイです。
神よ、あなたに語り掛けよう。あなたの恵みは体の芯から染みわたります。あなたの愛が私の心を満たし、嫌われ、孤立した状態であっても、なお幸福を感じます。あなたが私の味方であり、尽きない思想の泉でした。私は自分で考えているようで、本当はあなたから教えてもらっているのでした。
すべてが美しい。帰り道に眺めた夕暮れがあまりに美しく、写真に収めました。その時に寄った店で食べた鮭定食の旨さが五臓六腑に染みわたります。ただ歩いているだけなのに、私はなぜこんなにも幸せなのでしょうか。こんなに幸せでいいのでしょうか。
私は勉強をしていました。努力をしていました。なのに、なぜこんなに心躍るのでしょうか。普通の人は汗水と苦痛の中で努力しているというのに、私はあなたの中で満たされながら、自己向上という甘美な酒を味わいながら、鼻歌の一つでも歌いだしそうな有様です。
一日一日が自分の糧になることが感じられます。一か月後は今より幸せであり、さらに一か月後はそれよりも幸せなのでした。あなたへの感謝は尽きません。自分の手柄だと自惚れることはありましたが、私はあなたのことを懸命に探していました。最初は私は理屈であなたを理解しようとしました。それは後に間違いだったと悟るのですが、私は私なりにあなたを探していました。
私は、矛を向けられることはありましたが、それによって倒れることはありませんでした。苦痛を覚えることはありましたが、あなたが用意された慰めによって、私は満たされたのでした。矛を向けるのは、ただ通り過ぎるだけの人たちでした。親しく交わる人たちからは親愛をもらいました。
思想が泉のように溢れてきました。あなたは私に絶えず語り掛け、私はそれを筆に表しました。それが私の何よりの喜びでした。それは楽しみでした。こんなに楽しいことを経験していてもいいのでしょうか。
世界は喜びでした。朝起きることは希望でした。幸福が苦痛を圧倒していました。世界はあまりにも美しく、興味深く、あらゆる喜びの源泉でした。あなたは私に、こう語り掛けました。さぁ、どんな恵みが欲しい?私はこう答えました。いいえ、私はもう既に頂きました。私は幸せです。
間もなく、あなたは私を地獄へと突き落としました。
僕にとって、この地獄が人生の転機でした。これこそが本当の神の恵みでした。あのヨブが味わった不幸です。本当に神を知るためには大なる苦痛が必要になるのです。本当の謙遜を知るためには不幸と苦しみが必要です。僕は以前は単なる幸福追求者でしたが、この不幸のために本当の神の僕となったのです。人間が本当の神の道具としての器になるためには、空っぽの器にならなければいけません。不幸や苦しみによって自我が縮小し、やがて全て無くなってしまい、全て神のために生きる器となるのです。
もしかしたら、以前のままの幸福追求者のままでも良かったのかもしれませんが、それでは本当の人間のまことを知ることは出来なかったでしょう。神のために、あらゆることを耐え忍ぶということが人生の目的に適っているのでしょう。また良く神に仕える人も、ありきたりな幸福追求者ではなくて悲しみの人です。
少し長い引用ですが、ヒルティは言います。「一言でいえば人間が深くなること、そしてまた幾多の人々においてわれわれにすぐに気づかれる点で、しかも余人には、いくら「高げたをはい」てもまねのできない、あの独特な人間の大きさというものは、不幸をりっぱに耐え通した場合にだけできてくるのである「患難をも喜ぶ」(ロマ書五章三節)という使徒パウロのことばは、彼のことばの幾多のものと同様、不幸のうちにはどのような力が、どのように深く内面的な幸福が隠れているかを、みずから体験しなかった人には、そのほんとうの意味は絶対にわかりようがない」(1)。
人生を苦しみ、生まれた日を呪い、喜んで死んでしまいたいという経験をした人は、あらゆる人を慰めることが出来るのです。患難や苦難の中で丸裸にされ、すべての持ち物を捨ててまで、なおかつ生きるということは、壮絶の一言であり、神の望みたもうことなのです。それでも、人は生きなくてはならないのであり、生きるということは、それだけで立派で大切な仕事をしているのです。だから、決して自殺はしてはならないのです。
神から背負わされた重荷を我々は担わなければならないのであり、そのような苦しみを与えられることは名誉です。まったくもって生きることは容易ではありません。どんな人にとってもそうです。やがて死を迎えるという定めを背負った存在である人間は悲しみなしでは生きれないのです。しかし、神を信じる人にとっては死ですらも歓迎するでしょう。それは新たな生活への入り口に過ぎないからです。
最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今、現在僕はとても困難の中にいます。その中で皆さんの励ましのおかげで、なんとか頑張ることが出来ています。皆さんのブログを読むことが楽しみになってきました。素朴で謙虚な人もいれば、悲しみの中にいるのに、そんなことはおくびにも出さずに元気をくれる人もいます。キリスト教にすごい博識の人もいて、この人はどこでこんな勉強をしたのかという驚いてしまう人もいます。思索と考察もいれば、見る人をほっこりさせてくれるような人もいます。感謝感謝です。それでは、またお会いしましょう。皆さんの上に神の祝福があらんことを願って。お元気で!
(1)ヒルティ 秋山英夫訳 幸福論