大昔に書いた論文を載せたいと思います。何分若いですので文章が固いですが大目に見てやってください。だ、である調です。論文の後に感想が書いてあるので固すぎて読めないよ、という方は飛ばして読んでください。

 

 では、何故偏見が無くならないかと言う点から話を始めたいと思う。それは、何もしなくても、自分が正しいと言えるからだと思う。議論をすれば常に勝ち、自分よりも無条件で下の人間を作ることができ、その上、オタクと呼ばれる人達を迫害することで仲間を作ることが出来るからである。以上の三点で、何の努力もなしに、政治に例えていうなら、このような外交上のカードが得られるのである。例え、それが偏見だと看破されて、理屈で反論出来なくなって誹謗中傷に走ったとしても、普通の人々は、その偏見の有用性のために捨てることが出来ない。それは、さながら神と富の二心の主になれないと言われながらも富を捨てられなかった大昔の富豪のように。
 もし、この偏見が無くせるとしたら、その偏見という腫瘍によってもたらされているものを正しく認識してもらうことが必要ではないだろうか。境遇一つとって考えてみても、敵を作り団結する普通の人々と、虐げられて団結するオタク達とでは、同じ仲間を作る上でも精神の内的進歩は前者よりも後者の方が優に勝るどころか前者は後退すらするだろう。それによって得られる仲間も前者はうわべだけに限ることが多いことに比べて後者は互いに弱さを分かち合うために強固である。したがって、偏見に侵されているものは、その人を蔑む習慣により全身に毒が周り数々の腫瘍が出来る。それに比べ蔑まれる側の人間は、絶えず精神の腫瘍に批判が浴びせられるので、健康になっていくのである。

 

 現在はスマートフォンの普及でオタクという言葉は時代遅れになってしまいましたね。人間は常に差別の対象を求める存在です。昔はオタク、それよりも昔は黒人差別、現在はニートですか。人間とは愚かな生き物ですね。あれだけ差別はいけないと言っているのに、あれやこれや理由をつけて差別をするのです。本人は差別をしているという自覚すらないのかもしれません。

 

 いつもいいねをくれる人に感謝です。中には過去の記事まで遡っていいねをくれる人がいます。本当に驚きです。ありがとうございます。その優しさに試練の中でうちひしがれている心は慰められます。僕もその人のブログを楽しんで読ませてもらっています。こんな取り上げ方をして驚かれるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。それだけ励まされたので、ついつい記事にしてしまいました。素朴で謙虚さが伝わって心が優しくなれる素敵なブログだと思います。

 信仰の大先輩である方もいらっしゃって、言うことになるほどな~と思ったり、やっぱり自分って極端だよなと思ったりします。人格の完成ということが果たしてできるものなのかどうか自分でも疑問です。人生の大先輩方は完成はないよ、という見方が多いですが、僕はあるんじゃないかなと思います。でも、その時は天の国に行く時なんでしょうね。人格の完成が人生の目的だとすれば、死そのものが人生の目的になる、そう思う時もあります。

 苦難の中にいながら常に感謝の心を忘れない人もいて、すごいな~と思います。僕はなにかとすぐに神に不満不平を言いますから。それでも神はずっと寄り添ってくれて慰めてくれます。

 キリスト教にすごい詳しい方もいらっしゃって、いつも勉強になります。ありがとうございます。

 僕はいつも自分が未熟で物を書くのは時期尚早なんじゃないかと思うのですが、皆さんのおかげでなんとか続けています。それでは、またお会いしましょう。皆さんの上に神の祝福があらんことを願って。