君は愛されるため生まれた

 君の生涯は愛で満ちている

 

 君の存在が 私には

 どれほど大きな喜びでしょう(1)

 

 ワーシップの讃美歌より。

 僕は讃美歌はあまり知ってはいないのですけど、どの歌詞にも心を動かされます。小さな祈りという讃美歌も好きです。

 神にとって我々の存在は、どれほど大きな喜びでしょうか。僕は自分の周りの人々が大好きです。こんな僕ですら愛する人々が愛おしく大切で、常に仕合せを祈っているのに、神だったら、その愛はどれほど大きなものでしょうか。神は自分を信じない存在には苦しみではなく幸せを送ります。神にとって自分に無関心な存在も、とても大切で愛おしいのでしょう。無神論者でありながら善人であるという人は多いです。神は自分のこと信じない人にとっても偉大な父親であるのです。僕も自分の付き合う相手が信者であろうがなかろうが、たいして関心を持ちません。それどころか絶えず神の存在を賛美する人がちょっとだけ苦手です。人生に対する真面目さは大きな苦難によって得られるものですから、幸せな無神論者は少しだけ軽佻浮薄な面も持っています。しかし、僕にとって、それもそれほど悪いものだとは思いません。神も同じように思っていると思います。

 神は自分を慕ってくる存在には苦しみを送ります。謙遜さを学んでほしいからです。心の砕けた遜った魂を神はどれだけの喜びで見つめているでしょうか。僕は多少傲慢で軽佻浮薄な人でも、大好きな人がいますが、謙遜さを学んだ遜った人ともなれば神はどれだけ愛するか検討もつきません。不幸や苦しみの中で懸命に生きる人を神は大きな喜びで見つめ、瞳を守るように大切にしているのでしょう。神が愛しているのは偉大な人ではなく、ごくささやかな人達でしょう。心の砕かれた貧しい人は稀です。生まれながらの人間は傲慢であり、謙遜さは生来の性質とは真逆のもので大きな苦難の後でやっと身につく性質です。

 神は無神論者ですら、その大きな愛で常に守っているのに、この心の砕かれた貧しい人ともなれば、その愛は人間には計り知れません。そのような人には、神は愛と慈しみの神から厳格な父親としての神になります。ありとあらゆる苦しみで教育し、その人が人格的に完成するまで懲らしめの鞭で鍛えます。このような愛は人間には理解できないでしょう。その人は嘆き苦しみますが、最も神を必要とするのも、そのような人達なのです。その苦しみによって、その人にとって神はなくてはならないものになり、神をことを忘れることがないのです。

 

 最後に、ここまで読んでくれた人に感謝したいと思います。ありがとうございます。僕自身は信仰の有無はたいした問題ではありません。だから、僕は人に神を信じるようには勧めません。あくまで自主的に来てくれるのも待ちます。それが永遠に来ないものだったとしても、僕にとっては、それもたいした問題ではありません。幸せに生きることが人生の目的だとは思いませんが、幸せに生きること自体は信仰がなくても出来ることだと思います。しかし、理想的な人格者を生み出すということが人類の課題だとすれば話は違います。その場合には信仰はなくてはならないものになると思いますが、今ここで、そのことを語ろうとは思いません。それでは、またお会いしましょう。でも、最後に少しだけ付け加えると、このブログを読んでくれる人がクリスチャンだったら、僕はとても嬉しいです。僕のキリスト教理解とは違うところがあったとしても、いいねをくれる人には感謝です。僕は自分でも思うのですが少し極端です。間違っているとは思いませんが万人受けするものだとも思いません。

 

(1)君は愛されるため生まれた 歌詞 Uta-Net 抜粋