僕はよく牧師さまとお話しするのですが、聖書の解釈について考えさせられる事があります。「わたしの言葉があなた達に留まっておれば、なんでも欲しいものを願いなさい。かならずかなえられる」(1)では、どんなわがままでも叶えられるのか。これは当然の疑問だと思います。しかし、この聖句には前提条件があります。「わたしの言葉があなた達に留まっておれば」です。つまり、キリストと繋がっているのであれば、その願いも自分本位のものではなく利他的な願いになる、ということです。これを牧師様に話したら、合っているが教科書的な考えだと指摘を受けました。でも、これはすごい聖句ですよね。なんでも、叶えられるのです。僕は哲学も好きなのですが、哲学は人を救う力を持っていません。順境の人に役立つ考え方で不幸の人を助けないのですね。ところが、これが宗教となると不幸から救い出す、この世に現存する確かな力があります。やはり我々はこの世で幸福を作り出す確かな力を必要とするのでしょう。

 続けます。善いことをして善い事があるのは当たり前です。同様に悪いことをして悪いことがあることも当然です。しかし、聖書には「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです」(2)と書かれています。不思議ではありませんか。善いことをしているのに悪いことが起きる。それは神からの純粋な贈り物なのです。不幸の中で成長することが出来るからです。人間には精神的な成長段階というものがあるようなのです。その道徳観念を完成されること、これぞ、まさしく人生の目的と言えるものではありませんか。

 人生は不遇であるかもしれない。しかし、この世という訓練の場で、愛と感謝と誠実を学べるとしたら、生きてみるのも一興だとは思いませんか。この世で万全の準備をして、あの世へと旅立つのです。それは希望と呼ばれるものだと思います。

 

(1)塚本虎二訳 新約聖書 福音書

(2)聖書 新改訳