苦しみは人間を浄化し、品性を練り、高尚な心情に赴かせる効能がある。しかし、全ての苦しみが、このような効能を持つわけではなく、苦しみによって、気難しくなったり、頑固になったり、他人も自分のように苦しむべきだ、などという非情さを持つことがあり得る。苦しみが本当に効能を発揮するのは、神より祝福された、善行に対する報酬としての苦しみである。このような苦しみは、本人が最も苦痛を感ずる事柄に、もたらされるもので、それによって自殺の誘惑にすら駆られるものである。しかも、このような苦しみの際、神からの助けも期待出来ない。なぜなら、苦しむ事、そのものが神の目的だからである。

 聖書では、ヨブ記において、このような苦しみが描写されている。善によって苦しみが与えられるのは主にペテロ書に中に書かれている。ヨブは患難によって、どうなったか、それは、自分は灰であり塵であり、その中で悔いるという、正しく謙遜の境地に導かれたのである。

 自分を賢いものとして見ず、他者を常に自分より優れるものだと見做し、敬意を持って愛し合うこと、これこそがキリストが言った、隣人愛であり、アビラの聖テレジアが何度も強調した謙遜の境地なのである。人間が謙遜になるのは、ヒルティによれば苦しみを受けることによるしかないという。苦しみを受けることは、あらゆる善行よりも優っている、とさえ言えるとも主張している。

 ここで人は、ある決断を迫られる。それは、人生において苦しみは避けられないものである。それを生産的にするか、非生産的にするか、というものである。神を愛する人にとっては、全ての事が益となる、という聖パウロの言葉が真実であるなら、苦しみを善用するためには神を信じる信仰がなければならないことになる。

 これに否と答え、自分は今のままでも幸福であり、神など必要ない、と言うのなら、それも良いだろう。それで幸せになれない、ということもなく、苦しみ自体も増すことにはならないであろう。しかし、それでは精神的な成長はあり得ず、幸福にとって最も大切な潤沢な人間関係も築けないであろう。

 苦しみによって、精神が純化されることで、あらゆることから興味関心が失せ、人間は非常に退屈する。ヒルティは、この退屈に抵抗するために働くことが最も幸福に貢献するものだと説いている。しかし、私は、幸福は、敬意を持って愛し愛される潤沢な人間関係によってのみ得られるものだと考えている。

 つまり、苦しみによって謙遜になり、全ての人に対して、その僕となり、常に、その主人に尽くし、自分のする善行は全て誇らず、人として当然のことをしたまでと心得、自分こそが人類の中で最も小さい人である、と主張することに、全てが存ずるのである。従って、苦しみこそが本当の幸福の源泉であり、その苦しみを生産的にするものがキリスト教の信仰なのである。

 幸福とは、自分を最も小さい人だと認識し、他人を己より優ったものと見做し、その他人に仕え、尽くすことである、と言える。他人と平和という果実を実らすのは、謙遜という己を低くする種なのである。謙遜、謙遜、謙遜である。謙遜こそが全ての徳の母なれば!

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は苦しみと、その果実である謙遜について語りました。僕は人生の中で何度も転びましたが、全ての転びが自分にとって益となりました。その痛みこそが自分の財産だと、そう思うのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、苦しみが極度に高まり、もう忍耐出来ないと思うこともあるでしょう。キリストご自身も十字架上で、そのような苦しみを味わいました。しかし、その苦しみなくば、全ての人に慰めを与える人にはなれなかったことでしょう。キリストに倣うとは、ただ祝福を受け取るだけではなく、その受苦の杯をも受け取ることであると、そう思います。では、今回は、この辺で筆を置きます。それでは皆さん、お元気で。またお会いしましょう。