現在の思想の風潮では、利他主義は一種の利己主義だと考えられている。何故ならば、利他的行為を行う動機も、そうした方が自分が嬉しく感じる、または自分が得をする(情けは人の為ならず)というものだからだ。しかし、本当に簡単に利己主義と利他主義を同一視しても良いのだろうか。
この二つの概念と非常に似通った概念がある。それは主観的視点と客観的視点である。この概念も、冒頭の二つの概念と同じように、客観的視点と言っても、その客観的視点も、その人の主観的視点で作られているのだから、結局の所、全ては主観なのだ、と考えることが可能である。
しかし、主観的な考えと客観的な考えは、その人の中で考察の答えが異なったものになる。つまり、同じ主観が作っているのに、答えが違うのだ。だから、それは同じ主観の中での考察なのだが、主観的な視点と客観的な視点は、明らかに一線を画すものなのだ、という結論を導くことが可能であると考えることが出来る、と考える。
それと同じように、利他主義も、利己主義の一種なのだけど、明らかに自己中心的なエゴイズムな理由を動機とするものとは一線を画すものなのではないか、という命題も同様に導き出すことは可能ではないか。全てを利己主義で考えると理屈が通るから、利他主義も利己主義だと安易に結論付けたいがために利己主義と利他主義の混同視が起こった。しかし、主観的な考えと客観的な考えと同じように、利己主義と利他主義はする行為も異なり、それ故に結果も違う。だから、それを安易に同一視することは、あくまで理論上のものであり、机上の空論なのではないか。だからこそ、他人の利益を優先する考え方には、他でもない利他主義という名前が与えられたのだ、と考えることは出来ないだろうか。西田幾多郎は他人にするための行いを自分のためだと思うと、途端に利他的な喜びも失ってしまう、という鋭い考察を行っている。以上が私の考える利己主義と利他主義に対する考察の前半である。
考察の後半は、利己主義と利他主義の解釈の解決編であるが、やや宗教的な解決方法なので、万人には受け入れられないものかもしれない。これを考慮に入れながら考察を進めることにする。
ヒルティは、利己心は人間が生まれながら持っている感情であるが、それは人生の目的に相反するものであり、最終的には、克服しなければいけないものだ、と主張している。私は、このような利己主義の克服は神に対する信仰しかないと思っている。神のために行動する、ということは、決して自分の利益ではないし、むしろ、自分にとって不都合の場合の方が多いのである。(例えば、明日に、いきなり無実の罪で捕らえられ、無期懲役を言い渡され、生涯、刑務所の中で過ごさなくてはならない、ということも全くないわけではないのだ。もしくは、ここまでひどくないにしろ、これに匹敵するほどの試練に見舞われることは十分に考えられる。何故、神が愛する人間に、このようなことをするのか、という動機は、ここでは述べない。それをすると、この論文が、どうしても冗長になってしまうし、この論文の趣旨にも合わないためである。)
しかし、普通、神のために行動する、という動機付けを行うことは難しいものである。それを可能にするのは、非常に厳しい試練によって、自分の無力を痛感し、自己中心的に生きてきたことを悔い改め、心が砕かれる必要がある、と考える。それは、自分に恩恵を与えてくれるがために神を信仰するのではなく、神が神であるが故に信仰する、というものだ。この信仰の根底には、もはや神にしか縋ることの出来ない、自分の弱さが存在している。自分の無力と神の信仰は不可分なものなのである。また、自分の罪を自覚して、その贖罪として神に奉仕するために生きる、ということも信仰の動機にするのは十分なものである。
人間が初めて幸福になるのは、神のために利他的行為(神の求めるものは利他的行為であることは明らかである。なぜなら神自身の行動の全てが利他的行為だからである)をする人間が共同体になった時のみ、それが達成できる。一人だけでは幸福にはなれないのである。神のために利他的行為をするという宗教的な活動に参与することが、利己主義を超越した本当の利他主義ではないか、これが本論の結論である。
人間の行為は全て利己的である、と断言した時には達成出来なかった幸福が、人間の行為が利他的になった時のみ達成できるというのは、人生における手痛い皮肉ではないか。この真理を、トルストイは、その著書『人生論』の中で極めて論理的に述べている。(この幸福になる、という結果も、あくまで神のためにした結果であって、この幸福そのものが目的なのではない)
最後に、いつも、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回の記事では、利己と利他の概念を同一視する風潮に一石を投じてみたい、と思い、執筆したものです。それが成功したかは分かりませんし、特に後半の宗教的な解決方法には疑問を持つ人もいるでしょう。(この宗教的な行いですらも利己的だと言われたら、僕は反論に困るでしょう)実際、この記事が論文にする価値があるものなのか、自分では判断出来ませんでした。その評価は読者の皆様に委ねようと思います。それでば、また、お会いしましょう。お元気で。
参考文献
西田幾多郎 『善の研究』
ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 『幸福論』
トルストイ 中村融矢訳 『人生論』