主君と臣下

 改めて、キリスト教とは、如何なる宗教なのか、と考えると、中々一筋縄ではいかない。世間によくあるような、ご利益宗教ではないし、中国の儒教のような道徳宗教とも違う。キリスト教は、自分を捨て、神に服従し、また神を信じる信仰を要求する。ヒルティは、神と人間の関係を、父と子というよりかは、完全に慈悲深い主君と忠実な臣下という例えの方が本質に近い、と言及している。キリスト教の目的は神を知ることであり、神に近づくことであることは疑いない。しかし、それは、あくまで臣下の立場であり、自分自身が主君、つまり神になることではない。キリスト教の目的は、いわゆる幸福になることにあるのではなく、「地の塩」、「世の光」となって、この世の腐敗を食い止めることにあるのである。

 キリスト教徒になる、ということは、自分の利害を超えて、人類に奉仕することである。その報酬は、真理に対する渇きが完全に満たされる、ということにある。自己中心的な考え方から神中心の考え方になり、自分の思いよりも神の思いの方が尊ばれるように願うことである。

 確かに、キリスト教徒になっても生活は楽にはならない。それに加えて試練も与えられるので敬虔な信者は、疾風怒濤の苦悩の人生を歩むことになる。しかし、この試練には意味があって、その一つに、(神の意図は複数あるので、一つにだけ絞るということは、基本的には、できない。これは聖書では、あなたが一つの策を練る時には、神は千の策を練っていると表現されている)何気ない日常そのものが貴重なものであり、健康や平和といったものに、より一層の感謝をすることにある。ただ、ご飯を食べること、仕事をすること、美しい自然に触れること、といったことだけで賛美になり、その人の行動そのものが神に対する賛美の表現になるのである。

 この絶え間ない感謝というものが、信者と、そうでない人とを分ける基準だと思われる。あらゆることに感謝するのが信者の特徴であり、完全な祈りとは、本来、感謝なのである。よく祈る人というのは、よく感謝する人なのである。このような人にとって、悩みも苦しみも全くない、という状態は極めて稀であり、その時に日常の有り難さから感謝な人になることは想像に難くない。

 だから、日常が退屈でつまらない、という人は信仰を持つのが一番の療法である。その人が、現在、自分にないものを数えるよりも、自分にあるものを数えるようになれば、感謝の種をいくつも見つけることが出来る。神に対しては感謝しても足りるということがなく、日常を愛するようになる。それを幸福と呼ぶのなら、そうとも言えるのだろう。

 しかし、このような状態に至るまでには、徹底的なまでに自分自身の無意味さを、味わわねばならず、自分の自由意志を全て神に委ねる、という段階になっていなければならない。これは数年間に及ぶ試練が必要不可欠であり、この試練を通らずにキリスト教徒になることは非常に危険であり、そのような人は、他の人にとっての、つまずきの石にもなりかねない。

 我々は神の道具であり、より良き管になるためには、自分というものを完全に否定し、自分の意志を、神の意志に沿うものとして捧げる準備が常にしていなければならない。その報酬として与えられるものは感謝の心である。冒頭の質問に答える形で、述べるなら、キリスト教とは全人類に対する奉仕であり、個人の利益でもなく道徳でもなく、神に対して服従すること(本来、信仰てとは神に対する服従を意味するものである)である、と定義付けすることは、あながち間違いではないだろう。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。自分の行動や思想によって、人々を、少しでも神に近づける、ということが信仰者の務めであるように思います。あらゆることに感謝し、自分の行動の全てを持って神を賛美する、言うは易く行うは難しですが、そうありたいと常々思うものであります。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、今回は、この辺で筆を置きたいと思います。それでは、またお会いしましょう。お元気で。

AD