結局の所、神を信じない場合、答えはわからないものなのである。どんな意見でも、反論しようと思えば、することは出来るし、また、真理は単純なのであるが、人間が物事を複雑にし、いわゆる、清濁併せ呑む価値観を作り出しているのである。だから、あなたの人生の目的は何ですか? と問われて、その問いに答えられる人は稀である。

 神が目にかけている人の人生とは、往々にして、上手くいかないもので、あまりにも若い内の成功は、非常に危ういものだ。ヒルティは、若い頃の自己満足は、神の不興である、と言及している。また、悩みや憂いに苦しむことは、自己修練の途上であり、それが大きい内は、まだ外部に向けて活動する段階ではないのだ、とも言える。しかし、人間がある程度、成長すると、自分の悩みが少なくなる代わりに、他人の悩みに対する心配の方が多くなる。こうなると、祈りも届くようになり、自分のことばかり祈っていた時には、叶えられなかったことが実現するようになり、それが神の存在の確信へと繋がるものだ。

 結局の所、自分の幸不幸なるものは些事であり、どちらでも良いのだ。不幸になると、嫌でも真面目にならざるえないから、いくらか不幸であった方が良いくらいである。しかし、如何なる場合にも、神に感謝するということは、難事であると言わざるえない。なぜなら、神は不幸や試練を通して、ある人を成長させようとするからだ。神の民は、よく、つぶやく(不平を言う)と言われるが、それは尤もな話で、逆に賛美ばかりしている人は完成に近づいた人か、もしくは試練が足りないためなのである。

 だから、神の僕の基本的な態度は、神の送ってくる出来事は本意ではないが、神のすることは常に最善である、と認めることである。そうなると、一切は神であり、神に近づくことは常に良い事であり、神から離れることは常に悪いことである、と言える。しかし、ここまでくると、一歩間違うと狂信になりかねないのであるが、恐らく、それは正しいのである。この世のあらゆる事を蔑視して、天の国のことのみ考える、ということは、あまり現代的ではない。禁欲ということも、昔の時代は盛んに行われていたことだと思うが、神の民は常に何らかの試練で苦しんでいるために、自分から苦しみを求める必要はないと思われる。(それでも昔の聖人達は自分から苦しみを求めてはいたが)

 神は義と愛であると説明されることが多いが、この正義というものは、絶対の存在である神のみが行使出来る特権である。人間が振りかざす正義は、常に、その正当性を十分に確保することが出来ない。また、正義というものが恐ろしいのは「人間は自分を正しいと思うことによって争いが生まれる」からである。この場合、神の知恵こそが最善であり、人間の知恵は、いくら高尚であったとしても、神の目からすると、全て愚かだという観念を持つことが、争いを避け、また自分の増長を抑えるものになってくる。

 自分で考える力と、人の話を聞く耳のどちらが重要だろうか。私の場合を言えば、基本的に前者であるが、多くの人にとっては、人の話を聞く耳の方が大事だと思わせられる事が数限りなく多い。というのも、自分で考えた考察というものは、大抵は間違っているからだ。だから、古の賢者が考えてきたことや、聖書の中で表されている単純な真理を、そのまま、疑うことなく、受け取ることの方が、その人にとって有意義である事が多い。聖書では、幼子のような心を持つことの大切さを訴えている。

 しかし、人は自分流に物事を考えたがる。それは悪いことではないが、特に「真理は本の中にある。その真理に到達するまでの誤り方が、その人である」という場合は、尚更そうである。とは言っても、日本独自の清濁併せ呑む価値観は、物事を複雑怪奇にしてしまい、結局の所、価値観は人それぞれであり、答えも正解もない、と言い切ってしまうのである。神に基づかない考えは、常に曖昧であり、人間が人生の中で神を見出さない場合、永遠の探求者である。しかし、それで良いのだろうか。ヒルティは、この正解に到達しない考えを、オアシスで喉を潤すことよりも、永遠に渇き続けることの方がいいと言っているようなものだと意見している。

 結局の所、すべての答えが分からないというのは、ソクラテスの考えであったし、それとは反対に答えを出してきた人というのは、聖書に、そう書いてあるから、それは真理なのだ、という、ある意味、狂信的で盲信的な考えで、自分の考察の正当性を訴えてきたのである。それに納得出来ない人々を説得することは、とても難しいと言わざるえない。なぜなら、聖書に書いてある、というだけで十分な根拠になる、という考え方は、大昔のことであるし、また、人間は自分の器の分しか物事を理解出来ないからである。だから、人間とは、答えを求めてあがき続ける存在である、ということも言えるかもしれない。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回のテーマは神なき知恵の虚しさを説いたものになりましたが、かと言って、僕自身が何かしら答えを出すことが出来た、ということでもありません。僕の書く記事は、いつも時期尚早で、迷い葛藤しながら書いたものがほとんどです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、常に葛藤し続けることが永続的なものなのかは、僕の人生経験では判断出来ません。しかし、長く生きたが、人生に対する答えを見出すことが出来なかったという状態にはなりたくないのです。だから、僕は自分の努力による探求よりも、神が与えてくれる物事の中で、それを見つけたいと思っているのです。その答えは、神にしか出せないと思いますし、それ以外の人生に価値がないとまでは言いませんが、信仰によらない見解は常に真理であり続けることは難しい、と考えているだけなのです。それでは皆さん、またお会いしましょう。お元気で。