2014.5.5
忠臣蔵のもう一方の主人公、吉良義央の所領である吉良の地に行きました。
吉良家の領地だから地名も吉良。支配者(大名など)と所領名が一致しないことも多い中で、いまだに地名に残っているのはさすがに高家といったところでしょうか。
吉良家の菩提寺、華蔵寺です。
ここが吉良家の墓。
東京の泉岳寺に奉られる忠臣蔵の赤穂浪士に比べて、人目を憚るようにひっそりと奉られている、というのが一般的な評価ですが、小さな境内にひしめき合って奉られている赤穂浪士(ある意味東京の住宅事情を反映しているような…)よりも、山の緑に囲まれているこちらのほうが厳かな気がします。
ただ、線香の煙が絶えないという言葉どおり煙るほどの泉岳寺に比べれば、こちらに参拝に来る人はそれほどいないのでしょう。
吉良義央が一夜にして作ったという黄金堤にも来ました(本当は吉良義央が造ったものではないらしいですが)。
これが黄金堤です。
…って、ちっさ!
田んぼの一画ぐらいしかありません。
これなら当時の技術でも一晩で作ることも無理ではないでしょうというぐらいに小さいです。
なお、この地を赤馬で回ったという吉良義央ですが、実際には当時の旗本の通例どおり、自領に入ったことはほとんど無かったとか。
江戸時代の旗本は給料(石高)がそれほど高くない=自領面積も小さい、おまけに仕事は江戸常住が基本だったので、自領扱いになっているところの運営は現地の代官に任せて、実質は定額給料受け取り制になっている人がほとんどだったとか。
自領といっても、石高の数合わせのために一つの村を複数に分割してそれぞれ別の人の領地になっている状態のところもあったという話ですから(もちろん行政的には村長や代官が一つの共同体としてまとめて治めている)、この吉良領も、名目上の領主であって、当時の地元の人間にとっては遠く江戸に住んでいる納税先という意識しか無かったのかもしれません。
赤穂浪士事件・忠臣蔵。
義士として有名な事件ですが、実際には江戸の人々は「まだ赤穂浪士は仇討ちをしないのか、なぜしないのか、早くしないか」と急かす空気というか圧力があり、赤穂浪士もやらざるを得なかった(世間の空気に強要された)側面があったといわれています。とすると、吉良側は「なぜ死なないのか、早く死なないか」と強要されていたわけで、幕府も江戸市民も「『自主的に』赤穂浪士が吉良を殺すこと」を期待し、むしろ期待通りに動かないことに苛立っていたということになります。
これはもはや当時における匿名の暴力や強要であり、自分の意思だと思わされて仇討ちに駆り立てられた赤穂浪士も、仇討ちされることを望まれていた吉良も、匿名で無責任な誰かたちの犠牲者にしか思えません。すべては時の海の向こう側ですが。
それと、たぶん、そもそもの原因の松の廊下は、相当に浅野守と吉良上野介の「相性」が悪かった野ではないかと思います。昔組んだときはそうでもなかったけれど、今回でお互いに地の部分に触れることが多くなり、破綻に至ったと。2回目なので「慣れている」と思ったこと、昔と今とでは社会状況などもずいぶん変化していたことに無頓着だったことも不幸の原因でしょう。まあ、あくまで全部自分の想像ですが。
今GWは浜名湖から三河を回りましたが、肝心?の名古屋には行っていません。なので、次に旅行するときはもう一度愛知を回ってみようと思います。今度は主に西側を。





