黄金の簒奪者たち:その102
逆説的な言い方になるが、明治新政府を作ったおバカななサムライたちが浮気性でどこの国に対してもいい顔をしてしまう風見鶏外交をしてしまったことで、日本を直接支配しようと考えていたイギリスとも距離をとった外交を展開できた。要は直接統治による「植民地」にならなかったわけで、その意味で逆に現在まで「目に見えない間接統治」となったのである。アジアの国々とは異なり、外国人が日本人を人間扱いしない奴隷として使役してカネを搾取する体制にはならなかっただけで、カネだけを巻き上げる仕組みにされたということだ。
その理由は、前述したようにイギリス、フランス、アメリカという3つの大きな外国勢力が幕末から日本をめぐって綱引きをしていたためである。幕末の日本の状況を一番理解していたのは駐日イギリス公使ハリー・パークスであった。というのもパークスの後ろには”通訳”として動いていたアーネスト・サトウがいたからで、幕末から新政府になっても、薩長土肥のサムライたちは、何かといえばアーネスト・サトウに相談していたことが分かっている。明治維新に関する「陰謀論」では主役は常にトーマス・グラバーというのがお決まりだが、そうではないのである。
極端な言い方だが、明治新政府の方向性を決めるのはイギリスの通訳アーネスト・サトウ vs アメリカ人宣教師グイド・フルベッキの戦いだったと言っても過言ではない。なにせイギリスにとっては「いよいよ日本植民地化の好機」と思えた時に、突如、アメリカが台頭してきたのである。当時、西洋の知識や技術を学ぶため、多数の「お雇い外国人」を雇っていたが、その中で、新政府や明治天皇が最も信頼したのがアメリカ人宣教師グイド・フルベッキだったためである。
但し、フルベッキは多くを語らず表には登場しない。常に裏にいた人間である。実際、アーネスト・サトウはその日記の内容を書籍にしているが、フルベッキは何も書き残していない。だからこそ余計に”謎”の人物とされる。さらにフルベッキは宣教師であり先生である。その教え子たちこそが、かの「群像写真」に登場する面々で、どこまでが明治維新の志士たちだったのかすら分からないということが、フルベッキの正体をさらにベールに包むことになる。
◆フルベッキとは何者だったのか?
1864年(元治元年)、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は「洋学所」。後に「済美館」、「広運館」と名称変更)の英語講師への招聘があり、フルベッキは教師として幕府に雇用されている。また、この幕府の英学所「済美館」とともに、慶応3年(1867年)11月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになったが、佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所(後の「致遠館)」が設立された。
この佐賀藩が設置した「致遠館」で教鞭を取り、彼に師事して集まった学生達の姿は上野彦馬が撮影した「フルベッキ群像写真」として継承され、現在も長崎歴史文化博物館で展示公開されている。また、フルベッキは英語、政治、経済などについても講義をしており、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造の活字印刷術にも貢献している。一方の幕府が作った済美館の教え子には何礼之(がのりゆき)、平井希昌がおり、また大山巌も学生の一人であったといわれている。大久保利通や伊藤博文も教えを受けたされ、何礼之はその後私塾を開き、前島密、陸奥宗光、高峰譲吉、安保清康、山口尚芳らを輩出している。

グイド・フルベッキ、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ダン・B・シモンズ
慶応3年(1867年)から4年(1868年)にかけては、こんどは薩摩藩や土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈重信らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着。明治元年(1868年)には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んでいる。これが後の「岩倉使節団」に大きな影響を与えることとなる。致遠館での校長、教頭の関係や学生時代の子弟関係から、大隈重信はフルベッキを師と仰ぎ、大隈が創設した早稲田大学でもフルベッキを建学の基礎的感化を与えた人物として讃えている。
フルベッキは長崎時代に仏教の僧侶へもキリスト教を伝えているが、中でもフルベッキの日本語教師であった肥後藩一向宗の僧侶、清水宮内(一道)は、フルベッキから聖書をもらってキリスト教の教えを受け、1868年(明治元年)夏にフルベッキから受洗している。これは驚愕の話だ。仏教の僧侶をキリスト教徒に改宗させたのである。どれだけフルベッキは教え上手だったのかという話で、「教育者フルベッキ」の存在は幕府方にとっても維新側にとっても「西洋学問」の第一人者だったということだ。
1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かったフルベッキは、江戸では法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事を任される。そして東京大学の前身に当たる「開成学校」の教頭を務めながら(高橋是清や小村寿太郎が入学)、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した。つまり、日本の教育の礎はフルベッキが作ったのである!!

その意味では「秘密結社明治維新」を作ったのはフルベッキと言っても過言ではない。なにせ、明治維新を作った薩長土肥の連中は大なり小なりみなフルベッキに学んだいるからで、フルベッキが英語を教えていなければ、薩長同盟の志士たちが海外に留学など行けるはずがないのだ。さらにフルベッキ邸には、後の文部大臣・森有礼によって教師をしていた高橋是清が住んでいて、フルベッキの世話をしている。全てはフルベッキにつながっているのである。だが、それはイコール「アメリカ」ではない。この部分については後述するが、フルベッキはもともとオランダからアメリカに移民している人だからだ。
フルベッキは大学南校在職中の1870年10月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めている。大学南校在職中の1871年(明治4年)10月5日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わっている。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて化学の教授をさせており、並行して1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで元老院に職を奉じた。しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、東京一致神学校や華族学校(学習院)の講師を務めた。
学習院は華族の子息しか入れない学校だ。つまり、フルベッキの教えは皇族方にまで及んでいたということだ。決して単なる”お雇い外国人”ではない。なにせ1878年7月には一時アメリカに帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日しているのだ。そして、1886年(明治19年)明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務め、1888年には明治学院理事長になっている。そして、自分の娘には「ジャポニカ」という名前をつけており、彼女は立教女学校(現・立教女学院)、立教学校(現・立教大学)で教師を務めている。極端な言い方だが、明治を作ったのはフルベッキなのである。

「フルベッキ群像写真」でフルベッキの息子の下にいるのが大室寅之祐こと、後の明治天皇である。未だに喧々諤々の論争はあるものの、山口県熊毛郡田布施にいた大室寅之祐のお守り役だったのが伊藤博文であり、長州の忍者であった伊藤博文が岩倉具視の手引きで孝明天皇親子を殺害し、睦仁親王の代わりに南朝の末裔であった大室寅之祐を「明治天皇」として即位させ、皇族方のいる京都ではなく江戸に連れてきてしまったというクーデターである。その秘密を知っていたのが「フルベッキ群像写真」に映っている薩長のメンバーだったのである。
この秘密は口外しないことが基本とされるも、中には酒に酔って秘密をつい話してしまう者もいた。さらに、地元の田布施では、当時はみなが知る話でもあったとされる。だからと言って、このメンバーが秘密結社を作ったという話ではない。「秘密結社明治維新」には複数の意味があり、その一つが「南朝の末裔・大室寅之祐が明治天皇になったという秘密を共有していた」という意味だが、秘密結社たる所以は他にもある。それを説明する前に、まずは鹿島曻氏による説から話していこう。
鹿島曻氏(1926 年 - 2001 年 4 月 24 日)は、弁護士であり在野の古代史研究家でもあった方だ。鹿島曻氏が1997年に出版した 『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』 で初めて世に知られる話になった。この本の紹介文には次のように記されている。
「本書のなかで著者が展開する史観は三人の天皇、すなわち孝明天皇、その子睦仁、及び実は大室寅之祐の明治天皇は、 或いは明治維新を推進した岩倉具視や木戸、伊藤、山縣、大久保たちに暗殺され、或は裏切られた悲しい存在であったという事実である。まず孝明天皇は長州藩の忍者部隊によって暗殺され、その子睦仁も即位後直ちに毒殺された。そして、 睦仁の身代わりになった明治天皇は実は南朝の末孫という長 州力士隊の大室寅之祐であり、孝明天皇の子ではなかったというのである」
明治天皇の出自及び王統系譜に関しては、早くより疑問が一部の研究者にとって指摘されてきていたが、そこに鹿島昇氏が「裏切られた三人の天皇 ─ 明治維新の謎」で精緻に論証したことで衝撃 を与えることになった。鹿島氏は、同書に於いて、「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視と伊藤博文ら長州志士等によって暗殺された。長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にスリ替えた」との説を唱えた。
つまり、明治天皇として即位したのは、それまでの北朝系ではなく、南朝系の末裔にして長州(毛利家)が秘匿してきた大室家の寅之祐であるということだ。倒幕派は、「長州に住んでいた南朝の末裔と称されていた大室寅之祐を擁立し、北朝系に代えて南朝系の大室寅之祐を睦仁親王の名で以て身代わり即位させ、幕末政変で勝利するや東京に都を移し、終生本物の明治天皇として振舞わせ た」ということである。「睦仁親王」と後に「明治天皇」として知られる人物は別人であり、「皇家クーデター」が起っていたということになる。よって、明治維新とは「明治天皇すり替えによる王朝交替だった」ことになる。
1987年(昭和62年)10月、鹿島氏は日本神道・歴史研究の権威である吾郷清彦氏の紹介で、 山口県柳井市田布施町麻郷(おごう)に在住する大室近祐(おおむろちかすけ、平成8年没)氏を訪れている。この時、大室近祐氏はすでに80歳を越えていたが、「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、 明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、はっきりと語った。大室氏は「大室寅之祐(大室氏の大叔父)が 睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった」という維新史を語り続けていた人物で、 地元でも 「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていたという。
山口県熊毛郡の田布施
大室氏は古代史家の古田武彦氏に接近したところ「私の専門外」と相手にされなかったという。鹿島氏も最初の訪問の時はさすがに半信半疑であったが、その後10回にも及ぶ訪問を重ね、「皇道と麻郷(おごう)」をはじめとする大量の文書を見せられたことによって、次第に大室氏の語る内容は事実と確信するようになっていく。以来二人は意気投合、たびたび出会うようになった。大室氏曰く、鹿島氏のことを「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていた。
鹿島氏はこれらの研究を通じて外国の学者たちとも交流を深めているが、何時までも国内で認められないことを残念がっていた。更に、「アカデミズムの偽史カ-テン」を開ける為、明治維新の時に「天皇すり替え」が行われたことを発表、「万世一系」の虚構を証明する作業に取り掛かった。その一番手として、1990年4月に「日本侵略興亡史」を刊行。その序文には、同書で公然と部落差別問題の原点から説き起こし解明するとともに、その正しい解決方法にまで言及している。
「被差別部落」の観点から皇室問題を語ることは長らくタブーであったため、アカデミズムの研究者たちは言及を避けていた。なにせ、昔は下手に「被差別部落」のことを書くと、すぐに部落解放同盟など被差別団体がやってきて、吊し上げにされたからだ。しかし、明治維新の裏にはこの部落差別問題も関わっていたのである。地方の下級武士となった人間には部落の出身者たちがいたのである。この辺は深く語らないが、藤原氏となった秦氏によって封じ込められた物部氏たちの怒りのパワーが爆発した瞬間でもあった。だからこそ、岩倉具視や大久保利通は京都の公家たち(藤原氏)を政権の中枢から排除したのである。
岩倉具視は京都郊外の岩倉村の農村の納屋で育った下級貴族であったし、大久保利通も極貧であった。薩長の下級武士には部落出身者、そして在日朝鮮民族も混じっていた。なにせ長州にも薩摩にも「田布施」という朝鮮人が住む部落があったからで、若き明治天皇が部落に住んでいたなど皇国史観の時代には決して書くことは許されないものだったからである。だが、実はここにこそ薩長と在日朝鮮民族が今の日本を支配する闇の部分が隠されている。
鹿児島県日置郡にあった田布施
薩摩の「田布施」とは、鹿児島県日置郡にあった田布施村のことで、現在の南さつま市の北端にあたる。この田布施を含む阿多北方は鮫島氏が地頭として治めていた場所で、そのために小泉純一郎の父親・朴純也はまず「鮫島姓」を名乗り、横須賀の小泉家の養子となって小泉純也となっている。小泉純也は「根津財閥の大番頭だった鮫島宗一郎は従兄弟」と公言していたが、これは大嘘である。もし根津財閥の大番頭になった地元の名士・鮫島一族の出身ならば、小泉純也が学校を卒業してすぐに朝鮮銀行に職を求めた理由も分からず、さらにそこで”お茶汲み”をしていた理由も分からない。
小泉家が嘘つきなのは親子三代同じであるが、山口県、鹿児島県の田布施の共通点は「朝鮮人部落」で、共に在日の総理大臣を排出している点である。小泉(朴)純也は1942年の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した為、戦後、公職追放となっている。追放解除後は、旧民政党系のうち岸信介に近い政治家によって結成された新日本政治経済調査会に参加、同会はその後日本再建連盟に発展するも、まもなく再建連盟を離れて改進党に入党、1952年に義父・又次郎の後継者として神奈川県から改進党公認で衆議院議員に立候補、政界に返り咲いた。
その後鳩山一郎率いる日本民主党の結成に参加、1955年の保守合同によって自由民主党が誕生すると、旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属した。自民党では党総務、副幹事長などを歴任し、大麻の死後は岸派→藤山愛一郎派(愛正会)に所属した。そして1955年、第2次鳩山内閣の法務政務次官、1964年、第3次池田内閣改造内閣、および第1次佐藤内閣の防衛庁長官となる。問題は1964年12月4日、日本中を空爆したカーチス・ルメイの勲一等旭日大綬章叙勲の閣議決定に参加したことだ。
小泉家三代の教えは「アメリカに擦り寄る」ことである。純也は大和民族を一番多く殺害したルメイへ勲章を与え、純一郎は郵政民営化で250兆円もの郵便貯金をアメリカのファンドに渡し、進次郎はコメ不足をいいことにJAの完全民営化を狙ってJAバンクの預金140兆円を再びアメリカに渡そうと画策している。どこまでも反日のことしかしない親子だが、高市政権で進次郎は防衛大臣に就任している。その進次郎はアメリカの意向に従って、この11月に必ず反日の行動に出る。それはまさに国賊ともいえることをする。
東京大空襲や原爆投下に関与したルメイへの叙勲授与は未だに非難される。しかし、小泉(朴)純也は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査によれば、当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、サミュエル・モリソンによれば原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」とさも当たり前だと言わんばかりの説明をし、佐藤栄作首相もそれに同意している。両方の田布施出身の在日総理と防衛長官コンビは、アメリカにすり寄ったのである。
小泉(朴)純也は1950年代末、在日朝鮮人の帰還事業に中心的な役割を果たしている。自民党の国会議員でありながら「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任し、在日朝鮮人の北朝鮮送還のため積極的に活動した。国際政治経済情報誌「インサイドライン」編集長の歳川隆雄は小泉(朴)純也が在日朝鮮人の北朝鮮送還に積極的だった理由について「冷戦の真最中だった当時、自民党議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例だった」と述べており、さらに「純也が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたこともあった」と述べている。
一般的な陰謀論では、GHQが戦後日本の支配民族として朝鮮民族を選び、今も日本を支配させており、その筆頭が安倍(李)晋三や小泉純一郎など、自民党を支配する8割の在日議員と、池田大作ことソン・テチャク率いる創価学会が自民党に協力、公明党が与党として君臨してきたことは、もはやネット上では常識として語られている。筆者も過去200回は書いてきた。だが、皆さん2つの田布施と在日朝鮮民族についての謎には突っ込まない。「変な人」「差別主義者」だと思われたくないからだ。なので、筆者が代わりに書いておく。
薩長の下級武士たちは、朝鮮半島の「李氏朝鮮」を見習い、
これは長州も同様で、昔から半島系が多く住み付いていた両藩は、
<つづく>





