「怨霊と呪術」その30

 

 「月は死骸である」などと書くと嫌がられる。だが、「人は夜死んで、朝に生まれ変わるものだ」という言葉にもあるように、24時間を人の一生として考えると、人間は朝生まれ、昼に青年期を迎え、夕方には老年となり、夜には「死」を迎えることになる。人間はこれをひたすら繰り返す生き物である。よって「夜に出る月」とは「死」を意味していることになる。だが、一方で、「 月には、女性、マリア、神秘、ロマンチック、変化などのイメージや象徴的な意味があります」などということを言う人たちも多い。

 最近はGoogleで検索すると、AIが勝手な答えを並び立てる。実際にGoogleで「月・象徴」というワードをいれると、「AIの概要」という項目が一番先に表示され、以下のような勝手な回答が表示される。
 「新しい自分へ ー 月が形を変えることで、新しい自分への成長を意味します。」
 「金運アップ ー 月が満ちていく様子から、財産が増えていくという意味があります。」
 「人の道しるべ ー 月が闇を明るく照らすことから、人の道しるべを示すという意味があります。」
 「死と再生 ー 死と再生を繰り返すことから、人間の生命の象徴として捉えられます。」 
 「新たな始まり ー 新月は新たな始まりを象徴し、願い事を叶えるチャンスとも言われています。」

 

 はっきり言って余計なお世話だ。勝手に決めるなと言いたくなるが、何も考えない人は、Googleが導きたい答え鵜呑みにする。よって「教えて!goo」などと尋ねてはいけない。どんどん真実から遠ざかることになるからだ。

 

 

 『金烏玉兎集』が陰陽道の「秘伝書」とされた理由は、単に呪術や占術のことが記されているだけではなく、そこに終末預言が記されていたからである。筆者も牛頭天王の伝説は、あくまでも疫病、地震、津波といった国内で起きる出来事の預言としか考えていなかったが、これは惑星規模の終末預言なのである。問題は『金烏玉兎集』の元ネタである。これほどの預言を書き記したとあれば、それはもちろん「金烏」こと裏陰陽道「迦波羅」(カバラ)を操る呪術師たちの頭領「金鵄」のはずである。

 

 となると、『金烏玉兎集』の元ネタは確実に『八咫烏秘記』となる。なにせ『八咫烏秘記』は「天地創造」から隠された本当の人類史、大和の本当の姿までが記されている「ヤ・ゥマト」の『聖書』だからで、ヨハネがイエスに見せられた終末の世界がどうなるのかも大和の言葉で表現されている。が、『八咫烏秘記』の全体を読んだ、もしくは見せられたという人はほとんどいないはず。飛鳥昭雄氏であっても必要箇所のみを教えられる程度だと思われる

 

 

 全貌を見せられた可能性がある人物としては、『八咫烏秘記』を世に出すための手伝いをした竹内巨麿くらいだろうか。竹内巨麿が偽書とされることを前提に世に出した「竹内文書」の元ネタは『八咫烏秘記』であり、「竹内文書」の中に意図的に記された虚偽の部分を取り除けば、本来の「竹内文書」の姿が浮かび上がるからだ。そして、もう一人が『金烏玉兎集』を編纂としたとされる安倍晴明である。

 

 なにせ安倍晴明の伝説には「カラスと話ができた」とあるからだ。それは鳥のカラスと話ができたのではなく、「八咫烏」と同等の話ができたと解釈できる。つまり安倍晴明も「鴨族」ということであり、ならば『金烏玉兎集』こそが陰陽道の真髄のはずである。そして、そこには八咫烏が日本を覆った「迦波羅」(カバラ)の呪術の答えが必ずあるはずだ。

 

◆八咫烏と「熊野牛王神符」

 

 西洋においてカラスは不吉なものの象徴とされ、映画などでも不吉な予兆的なシーンにカラスが登場する。しかし、カラスは日本に於いては「神の遣い」である。前回記したギリシア神話のアポロンの使いとして、またはエジプトの太陽神「ラー」の使いとしても、カラスは「神々と人とをつなぐ」という重要な役割を担っていたとされている。古代の人々にとって、太陽の方角へ帰る烏は太陽の神の使者として神聖化され、崇められていたのである。

 神道の場合、動物はその特性を活かして、伏見稲荷の「狐」や日吉大社の「猿」など「神使」や「神獣」として様々な役割を果たしている。那智の
「牛玉宝印 那智瀧宝印」には「鏡」を取り囲む十二羽のカラスが描かれているが、これは「十二の月」を表している。さらにカラスの全数である七十二羽は「七十二候」を示している。七十二候とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつで、「季候」とは「四季七十二候」のことである。つまり、那智の「牛玉宝印」とは、太陽神である天照大神の神使としての八咫烏ではなく「神」そのものを示しているといえる。

 


 牛玉宝印「那智滝宝印」:表面(和歌山県立博物館蔵)

 

 「牛玉宝印」は、もともと魔除けのお札として、熊野三山などの霊場でつくられたもので、とても強い霊力を持っていると考えられた。そのため、神仏への誓いをあらわす「起請文」という文章を書く時には、牛玉宝印が刷り出された紙の裏を使うことがあった。そして、もし、その誓いを破れば、文章の中に記された神仏の罰を受ける(「ばち」が当たる)とされてきたものである。魔除けでもあり、願望を成就させる札でもあるが、呪いの札にもなるいうわけだ。このような牛玉宝印の使い方は、鎌倉時代ごろに始まり、江戸時代にも行われていた。文言は、本宮と新宮のものがいずれも「熊野山宝印」、那智が「那智瀧宝印」となっている。

 

 画像は那智山で江戸時代に作られた「牛玉宝印」である。カラスの形を組み合わせた文字「烏文字」で、「那智瀧宝印」と記している。その裏を用いて、享保14年(1729)の起請文が記されている。「牛玉」とは、牛の内臓にできた胆石や胃石のことで、高級な薬として用いられたことから、一切の病気を取り除く仏教の行事に取り入れられ、それによって魔除けの意味も持つようになったと考えられている。熊野三山の牛玉宝印は、鎌倉時代の頃から作られていたとされ、熊野権現の遣いである八咫烏の姿と玉(宝珠)を組み合わせて文字をあらわす独特の形になったのは、戦国時代の頃だという。


牛玉宝印「那智滝宝印」:裏面(和歌山県立博物館蔵)

 

 

 

 「誓約書」としての使い方だが、牛王符の裏面に起請文を書くと、誓約の内容を熊野権現に対して誓ったことになり、誓約を破ると熊野権現の使いである烏が一羽死に、約束を破った本人も血を吐いて地獄に落ちると信じられた。この起請文としての牛王符を「熊野誓紙」と言い、火起請では手に牛王宝印を広げ、その上から鉄火棒を持った。こうすることで、正しい者は熊野権現から灼熱に護られると信じられたという。命懸けの誓約ということだ。しかし、またなんで命懸けで神仏へ誓いをするのだろうか。そして、なんで約束を破るとカラスが死ぬのか。

 

 熊野本宮大社では、この符を「熊野牛王神符」(くまのごおうしんぷ)と呼んでいる。「牛王」なのである。俗に「オカラスさん」とも呼ばれる「熊野牛王神符(牛王宝印)」に描かれる烏文字の数は、各大社によって異なる。上の那智大社のものは72だが、本宮大社では八十八の烏が描かれており、あくまでも木版で手刷されたものしか熊野宝印と認めていない。本宮大社では、ここで執り行われる婚礼の誓詞の裏に御神符を貼布している。神に誓った結婚の誓いを破ると「死ぬぞ」ということだ。約束を破ると「殺す」というのは絶対神ヤハウェと同じだ。

 


熊野三山の牛王宝印


 熊野本宮大社では、「熊野牛王神符」の由来について、起源は明らかではないがとしつつ、以下の2つと説明している。

 ①神武東征の八咫烏の故事
 ②当社の主祭神、家津美御子大神(素盞鳴尊)と、天照大神との高天原における誓約


 なんと、高天原における誓約なのである!! スサノオ命=牛頭天王である。天岩戸を再び閉じようとしているのは、暗黒天体スサノオ=ラジャ・サンである。となると、「熊野牛王神符」はスサノオ命=牛頭天王に誓いを立てる意味となる!!  熊野本宮大社の解説では、以下のように記している。


 ①について、『古事記』には、次のような物語が記されています。
 神武天皇が熊野の村に着いた時、突如大きな熊が現れ、神武天皇とその軍勢はみな毒気にあてられてしまいます。そこへ、神々からお告げを受けた高倉下が馳せ参じ、ひと振りの天剣を神武天皇に献上しました。神武天皇がその太刀を受け取るやいなや、熊野の山の荒ぶる神は、ひとりでに斬り倒され、倒れていた軍勢も、みな正気に戻って起き上がりました。

 そして、高御産巣日神は神武天皇に「ここから奥は、荒ぶる神が非常に多いのです。今、天からあなたのもとへ八咫烏を遣わしましょう。そうすれば、八咫烏があなたを導いてくれます。」とおっしゃいました。こうして、神武天皇は八咫烏の後について大和(現在の奈良県)橿原へたどり着き、都を築かれました。

 本宮大社では、毎年1月7日の夕闇迫る時刻、古来より牛王神符刷り始めの神事として有名な八咫烏神事(県無形文化財)が斎行されています。

 ②について、『古事記』や『日本書紀』には、素盞鳴尊が天照大神と誓約(うけひ)をなされた時の物語が描かれています。その際、素盞鳴尊が自らの潔白を証明するため、天照大神の御身につけられた玉飾りを噛み、吹きだした霧からお生まれ になったのが、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)であると記されています。素盞鳴尊は、この故事により正邪を正す誓約の神として尊崇されるようになりました。
 そして、「牛王神符」 は素盞鳴尊の別名である「牛頭天王(ごずてんのう)」の御名の一部を受け誕生したと云われています。今からおよそ1300年前の天武帝白鳳11年、『東牟婁郡誌』に「熊野僧徒 牛王宝印奉る」と文献上初めて記され、源義経と藤原泰衡の誓約や、関ヶ原の戦いにおける家康と諸大名の誓紙、赤穂四十七士の連判状にも使われました。

 

 なんと、源義経、徳川家康、赤穂浪士まで誓いを立てているではないか。徳川家康は日本を統一した。赤穂浪士は浅野内匠頭の宿敵・吉良上野介の首を獲って見事に仇討ちに成功している。その意味では請願は成就したといえる。が、義経は表の歴史では一緒に誓いを立てた藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に殺されたことになっている。これはどういうことなのか。

 

藤原秀衡と源義経

 

 源義経は藤原泰衡の率いる軍勢によって討たれたことになっている。藤原泰衡は約百騎を従えて源義経の住む衣川館を急襲、義経を自害に追い込む。父・藤原秀衡(ひでひら)は平治の乱で討たれた源義朝(みなもとのよしとも)の九男・義経を平泉に迎え庇護する。秀衡は病に倒れ、息子達に源義経を守るよう言い残して他界。後継者となった藤原泰衡は、当初は源義経を守る姿勢を見せるが、裏切ったことになっている。

 

 秀衡の遺言には、「義経を奥州平泉の大将軍に擁立し、鎌倉からの攻撃に備えよ」ともあり、平安時代後期から鎌倉時代初期の記録「玉葉」(ぎょくよう)によると、藤原泰衡・藤原国衡(泰衡の異母兄)・源義経3人の結束を強めるためにに起請文を書かせたとされている。もし泰衡が裏切って義経を殺したのならば、泰衡は地獄に落ちているはずだが、そのような話はない。つまり、泰衡は約束を果たしたのである。そして、義経を守ったのである。

 

 義経の幼名は「牛若丸」である。牛若丸を育てたのは鞍馬に住む鞍馬天狗で、その正体は鴨族であり、i <>         八咫烏の首領「金鵄」である。「御伽草子」には、丁丑(ひのとうし)、丑の日、丑の刻に誕生したことから「牛若」と名付けられたとある。「牛」が3つも重なっている。まるで牛頭天王だ。なにせ牛頭天王の象は、「3つの炎」や「三面」に牛の頭が乗っているような象として作られるからだ。ならば、牛若丸には牛頭天王の暗号が隠されている。

 

 

 熊野本宮大社は「牛王神符は正邪を正す誓約の神・素盞鳴尊の別名である牛頭天王の御名の一部を受け誕生した」としている。誓いを破ると天罰を下して地獄に落とすのは牛頭天王=スサノオ命なのである。となると、「誓約をした」という意味には「蘇民将来」の末裔として古丹のようには滅ぼさないでほしいという願いも込められていたのではないだろうか。

 

 つまりこうだ。八咫烏=金烏に誓って願いをかける。が、約束破ると「カラスが一羽死ぬ」。つまり、人間であり呪術師である八咫烏が本人に変わって牛頭天王に願いを成就してもらえるようにする。もし約束を破ると、八咫烏が牛頭天王の怒りを買って滅ぼされる。誓いを破った本人を呪殺するのは八咫烏の手下の者。なにせ八咫烏も神官である。殺しはしてはならないからだ。

 

 そう、『金烏玉兎集』を編纂させたのは八咫烏なのである!! 

 

<つづく>