「怨霊と呪術」その22

 

  安倍晴明の正体を掴むには、まだまだ多くの謎が秘されている。聖徳太子や空海と同じように、安倍晴明にも様々な伝説が残されおり、どれも事実とは思えないようなものが多い。聖徳太子が古代日本をカッバーラ呪術で覆うことを指示した人物なら、その太子がベースを作った日本仏教を完成させるため、裏仏教の奥義たる「密教」を持ち込んだのが空海である。そして、その二人に劣らない人気をもつ陰陽道のスターにして鴨族だったのが安倍晴明なのである。そんな簡単には正体は見えてこないはずだ。

 

 とはいえ、本連載は呪術だけでなく「怨霊」にも手を伸ばさないといけないため、「安倍晴明」の数ある伝説の中から、非常に示唆に富む伝説だけを取り上げてみたい。

 

◆安倍晴明と「陰陽道の祖」吉備真備

 

 「吉備真備」(きびのまきび)とは、菅原道真と並ぶ奈良時代の学者であり政治家である。遣唐使、遣唐副使として二度にわたって入唐し、「日本の留学生で唐で名をなした者は吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」とまで称された人物である。その知識を政治文化に反映させたことで知られ、帰国後は朝廷で右大臣になるなど異例の出世を果たし、国政の多方面にその才能を生かした。

 元正朝の霊亀2年(716年)の第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。但し、真備の入唐当時の年齢と唐の学令(原則は14歳から19歳までとされていた)との兼ね合いから、太学や四門学などの正規の学校への入学は許されなかった可能性が高く、若い仲麻呂や僧侶である玄昉と異なり苦学を余儀なくされたとされている。

 


 

 『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、殺害を企てた唐人によって、真備は鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われたという。また、難解な預言詩『野馬台詩』(やばたいのし=ヤマトのうた)の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決したとある。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放したという。

 真備は19年もの長きに渡って唐に留め置かれた。これほど長期間に渡って唐に留まることになったのは、玄宗皇帝がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は袁晋卿(えんしんけい、後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰は呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。帰路では当時の日本で神獣とされていた
九尾の狐も同船していたという伝説もある。

 また、真備は
陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。この阿部仲麻呂の子孫というのが晴明のことなのだという。晴明は、一般に安倍(阿部)仲麻呂の一族の子孫とされ、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りして悟りを開いた。この時に文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。

 

吉備真備と「百人一首」の阿倍仲麻呂の歌

 

 真備は阿部仲麻呂というか阿部仲麻呂の霊に何度も救われている。上記の囲碁や預言詩の話だが、もとは時の皇帝である玄宗が、日本からの貢ぎ物が少ないことに腹を立て真備の処刑を命じたことに端を発している。但し、吉備真備が才知に優れた者であった場合は日本へ送還すべしと申し添え、これにより、真備は試されることとなる。


 玄宗は「吉備は梁の昭明太子が編纂した『文選』を知らないだろう。これを読ませて、音読できないときは殺せ」と命じる。その夜、またもや真備の元に仲麻呂が「鬼」として現れ、「明日は必ず『文選』を読まされる。この本はたやすく読めるものではない。天子は毎日読んでいるから、おまえはそれを聞け」と言う。真備は鬼に背負われ天子の元に赴き『文選』を読むのを密かに聞いた後、宿舎に戻り眠りについた。翌朝、天子は真備を召して『文選』を読ませるが、真備は淀むことなく流麗に読み終え、天子をはじめ公卿臣下全員が感心し、「日本は小国だが、このように才知にたけた者がいるのか」と褒め称えたという。

 

 しかし『文選』を簡単に読まれたことを悔しく思った天子は、「宝誌和尚の書いた日本の未来を予言した詩『野馬台之詩』を読むことはできまい。この詩は非常に難解で唐へ密かに伝えられたものの、自分も読むことができず、これまでに読むことができたのはただ一人のみ。これを吉備が読めなかったときは殺す」と言い渡す。その夜、鬼の仲麻呂が真備の元に現れ、明朝野馬台之詩を読むという試練が与えられるという話をしたが、今度は鬼もこれを打開する策を持たず、「日本の神仏に祈れ」と言い置いて消えてしまう。

 

 真備は驚き呆然としたが、「心を込めて祈れば仏の御利益もあるはずだ」と若い頃より信奉してきた大和長谷寺の観音に祈って寝ていると、枕元に老僧が現れ、「我は長谷寺の観音である。なんじの真摯な祈りに応え夢に現れている。安心して明日の試練に臨め。我は蜘蛛の姿に変じて『野馬台之詩』の文字の上に現れる。それから糸を出して文字の上巡るので、その糸に従って読め」とお告げを残す。目を覚ました真備は、歓喜の涙を流して観音の名を唱えたという。

 

吉備真備と玄宗皇帝

 

 安倍仲麻呂が鬼となったり、仏が蜘蛛になったりと、様々な伝説が残されている。無事日本に帰り着いた吉備真備は禁中に参内するが、そこでも天皇から惜しみない賛辞を与えられ、乞われて唐であった様々なことを語った。そして天皇から「『野馬台之詩』はわが日本の未来を記した書である。この予言書を読み伝えよ」と勅命を下され、真備はこれに従ったという。この「野馬台詩(野馬臺詩、耶馬台詩)」とは、日本の平安時代から室町時代に掛けて流行した予言詩であり、終末論の一種として、天皇は百代で終わるという「百王説」で有名である。

 

 鎌倉時代初期成立の慈円の『愚管抄』には、「人代トナリテ神武天皇ノ御後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル中ニ。保元ノ乱イデキテ後ノコトモ。又世継ガ物ガタリト申物ヲカキツギタル人ナシ。少少アルトカヤウケタマハレドモ。イマダエ見侍ラズ。」とあり、百王説が説得力を持っていたことがわかる。現在の天皇陛下は126代目である。よってこの予言は当たっていないじゃないかと思い込んでいる人が大半だが、そうではない。

 

 初代神武天皇は10代崇神天皇で16代応神天皇でもある。さらにいえば、第25代武烈天皇までは全て同じ天皇なのである。ガド族の天皇は1代のみ。そしてその後を引き継いだのは第26代のレビ族の継体天皇である。ここから100代が、現在の天皇陛下であり、レビ族のラストエンペラーなのである。よって、この「野馬台詩」とは、日本で作られた預言詩ということになるのである。

 

野馬台詩」

 

 『今昔物語集』では玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では陰陽書『刃辛内伝』をもたらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたとされ、この仲麻呂の子孫というのが晴明のことなのだというが、それは事実ではない。なにせ晴明の登場は年代が200年以上も後のことだからだ。が、真備が預言者であったのなら、話は変わってくる。真備は後に晴明が誕生することを知っていたのである。ポイントは「筑波山麓」である。実は晴明の生誕地とされる場所は複数あるのだが、そのうちの1つが現在の茨城県の猫島だからだ。

 

◆「安倍の童子」の「竜宮伝説」

 

 村上天皇の御代、安倍の家に安名(やすな)という者が農業で生計を立てていた。その安名のもとにある日若い美人がやってきて「夫婦になりたい」と申し出る。安名は喜んでこの申し出を受け、程なく二人の間には男の子ができた。この子はむやみと泣くこともなく、ふつうとは違った容貌をしていたので、安名は大いに喜んだ。女は昼夜を分かたず農作業を助け、休むことなく努めたので、他家の田が水害・干ばつ・風害・虫害に遭っても安名の田だけは豊作だった。それゆえ、安名の家は栄えた。子供は一人のみだったので大切にされ、先祖の氏から「安倍の童子」と名付けられたとする。童子が3歳になった夏、母は障子に一首の歌を書き付け行方不明となった。それが下の歌であるとされる。

 

 「恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 篠田の森の しのびしのびに」

 

 これは晴明の母の白狐「葛の葉」は詠んだとされているが、筆者は幼少の頃より「葛の葉」の歌として、母親に何百回と以下の歌を教え込まれた。

 

 「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

 

 

 最後の部分が異なっている。なぜなのか。この謎は追って解き明かしたい。妻が居なくなった安名はひどく悲しんで探し歩いたが、女の行方を知る者はいなかった。その夏は苗を隠すほどに雑草が生い茂ったのだが、安名の田では誰ともしれぬ20人ほどの声がして、夜通し田の手入れをしているようだった。このため、安名が手を借りなくても田は守ら、「これは篠田の狐がわが妻となり、姿を消した後も我が子かわいさにこのようなことしているのだ」と安名は考えた。

 

 さらに「昼に篠田の森に隠れるのはともかく、せめて夜には通ってきてくれないものだろうか」と思い、

 

 「せめて夜は かよいてみえよ 子をいかに ひるはしのだの もりにすむとも」

 

と詠んだが、女が現れることはなかった。女への情を募らせる安名は、日が暮れると童子を膝に乗せて、その髪をなでつつ、子を不憫に思って涙を流したという。よく考えれば、なんで母親が「白狐」なのかという単純な疑問が湧くが、この浄瑠璃の話は江戸時代のものである。あくまでもストーリーなのだが、実はここには晴明の出自と陰陽道の謎が隠されている。これについては、晴明の父、母の謎解きとともに後述する。

 

 さらに童子の晴明には、なんと「竜宮伝説」があるのだ。なんで安倍晴明が浦島太郎になってしまうのだろうか。これはあくまでも置き換えたものだというが、どうもそうではない。晴明の龍宮伝説とは以下のようなものである。

 

 

 安倍の童子が住吉大社に詣でた際、子供たちが集まって小さなへび(虵)を捕まえて殺そうとしているのに出会う。童子はへびを不憫に思い、これを買い取り、「人の多いところへ出るな」と諭し、草むらに放してやった。童子が安倍野へ帰ろうとすると、突然美しい女性が現れ、自分は竜宮の乙姫であり、先ほど殺されそうになったところを助けてもらった恩返しに竜宮へ招待すると言う。

童子はこの誘いを受けた。

 

 わずか1町(約1km)ほど歩くと大門に到着し、そこを入ると宮殿楼閣がそびえ立ち、庭には金銀の砂が敷かれ、垣には玳瑁(たいまい)が飾ってある。さらに奥へ進むと宮殿楼閣の四方に、それぞれ四季(春・夏・秋・冬)の景色が広がっている。宮殿楼閣は七宝で装飾され、荘厳で美しいことこの上ない。乙姫に誘われ、豪華な内装をしつらえた宮殿に上がると、高貴な装いの男女が待っていた。この貴人たちは童子を招き寄せ、「我が娘の命を助けてくれた御恩に報じます」と言うやいなや、美しい女性が2、30人、手に仙郷の珍味を捧げもってこれを並べ、宴席が設けられた。

 

 宴が終わると、竜王は金の箱を取り出し、「これは竜王の秘符である。天地日月人間世界のすべての事がわかるようになる。名を揚げ、人々を助けよ」と告げて童子に渡した。さらに七宝の箱から一青丸を取り出し、童子の目と耳に入れた。乙姫に伴われ童子が竜宮を辞去すると、1町も行かないうちに安倍野に出た。家に帰りついて、人の顔かたちを見ると、その人の過去・未来が心に浮かんでくる。さらに鳥や獣の鳴き声を聞くと、その意味が手に取るようにわかる。最初は訝しんだが、その原因が竜宮の薬にあることに思い当たった。童子は家に籠もって、父の安名が吉備真備公から譲られた『簠簋内伝』を取り出し3年の間学んだ。さらに竜宮の秘符の修得に励み、ついには悟りを開き、世の中のあらゆる事象で知らぬことはなくなったという。

 

 

 これは何を伝えているのだろうか。陰陽師なのに「悟り」を開いてしまうというのが変な話だし、そもそもなんで晴明が竜宮に呼ばれるのかがおかしい。つまり、この話の中には、安倍晴明が陰陽師になった秘密が隠されていると考えた方がいい。ポイントとなるのは、「竜王」と「金の箱」、そして「竜王の秘符」である。

 

 「竜宮」といえば「浦島太郎」だが、「お伽噺」とは全て丹後一宮「籠神社」で作られたものである。その籠神社の本当の奥宮は「隠岐」である。隠岐の「国分寺」では毎年4月21日の「弘法大師の命日」に「蓮華会舞」(れんげえまい)が行われるが、その中の1つが「竜王」なのである。この「竜王」に使われる面は、雅楽で踊られる「竜王」の面で、雅楽の曲目の一つ「蘭陵王」(らんりょうおう)で舞う時に使う面が「竜王」といわれ、「伊勢神宮」をはじめ全国の多くの神社で舞われる定番と言っていい舞楽面である

 

蓮華会舞の「竜王」

 

 問題はこの行事は、元々は6月15日に聖徳太子が建立した「四天王寺」で行われていた行事とされるからだ。晴明伝説には、四天王寺でカラス=八咫烏と話したという逸話があったが、鴨族である安倍晴明は、どこかのタイミングで隠岐に連れていかれた、もしくは籠神社で日本と隠岐の秘密を伝えられたのである。隠岐は「鬼ヶ島」であり「龍宮城」である。籠神社ではそれを亀に乗った「倭宿禰」の像で表している。浦島太郎とは、隠岐から丹後へとやってきた徐福集団の象徴「倭宿禰」なのであり、倭宿禰とはモーセの兄アロンの末裔のレビ族の象徴であり、「鴨族」のことでもあるからだ!

 

<つづく>