「怨霊と呪術」その15

 

◆「陰陽道」と「安倍晴明」の末裔 

 

 「陰陽道」と聞いて思い出すのは、稀代の陰陽師(おんみょうじ)として有名な「安倍晴明」(あべのせいめい)だろう。小説や漫画、映画の題材にもなっているスーパーヒーローで、平安京の守り神と言われた陰陽師である。

 

 

 一般的に「陰陽師」とは、日本の律令制の下で「中務省」(なかつかさしょう)の「陰陽寮」(おんみょうりょう)に属した官職の一つである。陰陽五行思想に基づいた陰陽道を駆使し、神意を占い人間が口に出して予言する占いの一種、占筮(せんぜい)及び地相などを担当する方技として配置された者のこと。陰陽師は「呪術師」のイメージが強いが、あくまでも国家公務員の官僚であった存在である。よって公務員になるための試験を突破しないと陰陽師にはなれなかったのである。

 

 まぁ現在でいえば神社本庁の職員といったところだろうか。だが、当時は呪術を行える者が全てを支配していたと思っていい。天皇が「いつ、どこで、何をする」といった事柄は、全て陰陽師による「吉凶」の占いによって決められたからで、更に朝廷を支配していた貴族たちも同様である。どこに家を立てる、いつ引っ越す、結婚するなど、朝廷のありとあらゆる事柄において陰陽師が関わったと言っても過言ではない。中世・近世になると民間でも「祈祷」「占術」「厄祓い」「怨霊退治」などを行なっていたとされている。これを神官の一種と捉える向きもあるが、そうではない。国家公務員ではない在野の陰陽師が増えたということである。

 

 

 「陰陽道」とは何かを調べると、Wikiに模範解答が書かれている。

 

 陰陽道(おんみょうどう、いんようどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語では無い。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行思想を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。陰陽道に携わる者を陰陽師と呼んでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために祓(はらえ)をする者全てが陰陽師と呼ばれるようになった。陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。

 

 平安時代中期~後期以降に陰陽道宗家となった家系としては、安倍氏とその嫡流の末裔・土御門家(つちみかどけ)および、賀茂氏とその嫡流の末裔・勘解由小路家(かでのこうじけ)があったが、勘解由小路家は戦国時代から江戸時代初期にかけて断絶し、賀茂氏庶流・幸徳井家は明治以降消息不明となった。現代においては、土御門家およびその庶家・倉橋家の子孫が健在するが、明治維新以降は陰陽道との関わりを絶たれ(後述)、現代に至っては全く陰陽道と無縁である。福井県大飯郡おおい町に現存する神道の教派・天社土御門神道は、歴史的に陰陽道および土御門家と関わりのある宗教団体ではあるものの、関係者は土御門家の末裔ではない。

 

「天社土御門神道本庁」

 

 これは一般的な言い伝えである。解説によると陰陽道はほとんど残っておらず、安倍晴明直系の末裔の土御門家の人々も、もはや晴明の末裔ではないという。陰陽道呪術を行っていた人々は消えてしまったのだろうか?否!彼らの末裔は現在も存在する。違う名前や違う形、はたまた存在するが存在していない形で、脈々とこの国の歴史の闇の中に潜んでいるのだ。

 

 安倍晴明の末裔は、長男が受け継いだ宗家が表の陰陽師として土御門氏を名乗って、現在も福井県の大飯に「天社土御門神道」(てんしゃつちみかどしんとう)を構えている。呼称については「土御門神道」で良いのだが、江戸時代に土御門家が「陰陽道宗家」として霊元天皇より賜った「天社宮」(てんしゃぐう)の宮号にある「天社」を冠して「天社土御門神道」とも呼ぶ。

 安倍晴明を祖とする陰陽道宗家・安倍氏土御門家が伝えてきた陰陽道を基幹としているが、中世には吉田神道の影響を受けている上に、江戸時代に神道家で儒家の山崎闇斎の提唱した
「垂加神道」の思想を取り込んで「神道化」を果たした「天社神道(安家神道ら土御門神道)」であるため、厳密に言えば陰陽道そのものではない。現在は神道系団体であり、また、現在の代表は土御門家の当主ではなく、土御門家の家政を司っていた家臣の家柄である藤田家が担っている。

 

「天社土御門神道」の神事

 

 陰陽道のうち、特に「天文道」を家学として継承していた安倍氏は、室町時代に時の当主である安倍有世が、室町幕府第三代将軍 足利義満によって従二位という破格の待遇を得て公卿となり、以後は「土御門家」と称して朝廷と幕府に仕えた。だが、西日本の広範囲な地域に広がった「応仁の乱」の勃発で朝廷および幕府の中心機関があった京都が戦地になると、陰陽師らは混乱を避けるために地方の守護大名を頼って地方に下ったり、自らの領地に疎開することとなる。

 土御門家は朝廷より賜っていた
「泰山府君祭永年祭料地」であった若狭国遠敷郡名田庄に疎開、若狭武田氏などを頼っている。応仁の乱および、乱に誘発されて地方でも散発的に戦乱が起き続けた結果、土御門家は有宣、有春、有脩の三代および久脩の四人が当地に居住した。土御門有宣と有春はついに帰京が叶わず名田庄で逝去している。一連の戦乱は土御門有脩の代に収束を迎え、息子である土御門久脩と共に帰京するが、焼け野原となった京都に往時の面影はなく、朝廷も廃れ焼失部も多く、陰陽寮は所蔵していた大量の道具や典籍を失い、陰陽寮設置以来伝えてきた「陰陽道」はこの時点で大部分を"失伝"してしまったのである。

 



 土御門家は、苦肉の策で当時の神道界を独占していた吉田家の唯一宗源神道
「吉田神道」が取り込んでいた陰陽道由来の思想や技術を再収集した他、陰陽道は既に密教にも浸透していた事から、密教の修法からも陰陽道由来とおぼしき部分を抜き出して再構築を図ったという。しかしながら、結局それだけでは陰陽道の"完全なる再興"は果たせず、吉田家に祭祀について問い合わせたり、祭儀につかう斎服を借りたいと申し出たが断られたという話が、当時の吉田家の日記に残っている。

 

 同日記には「久々に都で陰陽道祭儀が行われるので見物に行ったが、内容が(吉田神道と)同じだった」「陰陽道の霊場と聞いてやって来たが、草が生い茂り荒れ地に祭壇を設けていた」とも記され、「土御門は吉田より出る」とまで書かれてしまった。ここまで書かれると、いかに陰陽道が没落したかが良く分かり、後に陰陽道が土御門神道へと変化する"最初の転機"は、この吉田神道と関わった時と見る事も出来るが、それでもなお、陰陽寮の主要三部門「天文道·暦道·陰陽道」はあくまで土御門家(安倍氏)および勘解由小路家 (賀茂氏)の専権事項であった為に、あくまでも「陰陽道」は独自の職掌として認識され、祭祀もまた「陰陽道祭祀」として確立させ続けた。

 

 ちなみに「吉田神道」とは、室町時代京都吉田神社の神職・吉田兼倶(よしだかねとも)によって大成された神道の一流派である

。吉田兼倶は、卜部兼名の子であり、本姓は卜部氏である。吉田神道は、唯一神道、卜部神道、元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している。本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。簡単にいえば、吉田神道とは「原始ユダヤ教」である。日本にもたらされたユダヤ教は「道教」と称されていたため、陰陽道とは元々関わりがある。

 


吉田神社(京都市左京町)


 足利義昭が織田信長によって京都から追放されて室町幕府が崩壊すると、貴族(公卿)でもあった陰陽師達は新たに台頭した戦国大名たちの要望に応えていく事に活路を見い出した。土御門家は、当時最も大きな影響力を持っていた織田信長に接近、信長もまた土御門家に目をかけ、前右大臣である信長の推挙によって土御門家は「公家成」を果たしている。これまでは土御門家当主が個人で位階昇進を果たしていたが、信長による推挙によって、土御門家は明治に至るまでつづく正式な「公家」の一員となった。また信長の弟である織田信包の嫡子である織田信重の娘は久脩の子である土御門泰重の妻になっており、織田家と姻戚関係にもなっている。

 一方で陰陽道の宗家であった
賀茂朝臣氏嫡流の「勘解由小路家」(かでのこうじけ)は衰退を見せ始めていた。安土桃山時代初期は土御門家がなかなか疎開先の名田庄より帰京しない事から、代理的に陰陽頭に就いていたが、嫡流の勘解由小路在昌(賀茂在昌)はなんとキリスト教に感化されて洗礼を受け"マノエル·アキマサ"となるなど、一族の秩序に乱れが生じ始めていた。但し、数年後にキリスト教は棄教しており、陰陽頭にもなっている。ともあれ、こうした混乱の結果、賀茂氏嫡流である勘解由小路家は無嗣となって没落。ここに賀茂氏本流は途絶える事になった。よって陰陽頭の地位は勘解由小路家が無嗣になると、再び土御門家の元に戻った。

 

 こうした表の陰陽師としての晴明の末裔とは別に、安倍晴明の末裔で第27代の「水の家系」を受け継ぐ陰陽師である安倍成道(なりみち)氏は、晴明の秘密や陰陽師に伝わる秘伝を明かしている。晴明には裏側の陰陽師に回った息子がいたのである。それは、正妻の次男、安倍吉昌(あべのよしまさ)である。吉昌は平安京に残った。これ以外に、5人いた側室の子供たちに受け継がせた五つの家があり、吉昌がこの五家の宗家となり、現在も京都の宗家を囲むように京都郊外に五芒星を描く形で五家が結界を張っているという。 

 

 

 五家の陰陽師たちは、呼ばれれば東京に来て結界を張るというが、令和は天皇陛下が都にお戻りになる時。天皇陛下を守護する陰陽師は東京にいる。だが、晴明の末裔の裏陰陽師やさらにその裏を仕切る鴨氏、日本の本当の歴史が記された古文書を保管する冷泉家など、この国を裏側から仕切る陰陽師はみな京都にいるのである。

 

<つづく>