「怨霊と呪術」その11

 

 日本三大怨霊は「菅原道真」「崇徳天皇」「平将門」の3人であるが、そもそも平将門はなぜ怨霊になったのか。伝説だらけの「将門の首塚」や、討ち取られた将門の首が坂東まで飛んできたなど、有名な伝説は知られてはいるが、なぜ将門は朝廷に討ち取られ、怨霊になるほどの怨みを抱いたのだろうか。筆者もそこまで将門を理解しているわけではないため、一度、「怨霊」になるまでの基本的な流れを見ていきたい。「坂東武士図鑑」を引用させていただきながら書いていく。

 

◆平将門の前半生

 

 平将門は桓武天皇の子孫である。将門の父・良将は、京都で生まれ、将門の祖父である父の「高望王」(たまもちおう:平高望)が東国に下る際、共に下向したという。高望王は、桓武天皇の曾孫でああり、平氏の初代である。良将は、当時の慣例に従って、地元の有力豪族に婿として入り、「平氏」を名乗った。もちろん良将の子である将門も「平」姓を名乗った。将門は、京の貴族と東国の豪族の娘との間に生まれたため、京の文化と地方の習慣お双方を身につけて育ったと言われる。

 当時の東国には、平安京の貴族のトップとして君臨していた藤原氏の一族をはじめ、他の平氏の一族、清和天皇の賜姓皇族である源氏など様々な貴族たちが、国司などの官職や各種役職として派遣され、住み着いていたという。中央で権力を持った者たちの一族が、地方行政の上層部に天下るというのは、昔も今も変わらないということだ。が、こうした行為はやがて中央との大きな軋轢を生むこととなる。

 


「高望王」(平高望)

 将門は父の生まれた京都へ15歳で上洛したといわれる。この時代、地方の豪族が京の貴族のもとに子弟を送ることはよくあり、京で官職を得て箔をつけ、貴族とのつながりを作って地元での優位性を誇示するためだったという。また、開発した土地を有力貴族や寺院に寄進し、税の負担減免の優遇を受けるという思惑もあったとされる。将門は平安京の実力者であった藤原北家の「藤原忠平」の従者となった。

 藤原忠平は、菅原道真を追放したことでも有名な朝廷のトップに君臨していた左大臣・藤原時平の弟で、時平の死後は藤原氏のトップに立ち、醍醐天皇を支え、摂政・関白となった有力者である。将門は、平安京内外の犯罪を取り締まる
「検非違使」(けびいし)いなることを志願したもおの叶わず、官位は低いが天皇の護衛をする「滝口武者」(たきぐちのむしゃ)に採用される。滝口武者は、9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士のことで、滝口の武士ともいう。

 

「滝口武者」

 

 9世紀、天皇の住まいであった内裏の警護にあたっていたのは「近衛府」だったが、桓武天皇の皇子である平城天皇(上皇)と嵯峨天皇兄弟の対立による「薬子の変」を契機に、新たに設置された蔵人所が、9世紀末、宇多天皇の寛平年中から管轄するようになる。その蔵人所の元で、天皇の在所・清涼殿の殿上の間には官位四位・五位の殿上人が交代で宿直する。 一方、庭を警護する兵士は清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる「御溝水」(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶようになる。

 

  「滝口」の任命は、天皇即位のときに摂関家や公家らが家人(侍)の中から射芸に長じた者を推挙する形式で、平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となり、「滝口小二郎」と名乗っていたという。この時代は政治体制の基盤であった「律令制」が崩れ始めた時期で、朝廷内の要職は藤原氏が独占、地方の政治は国司の横暴が当たり前の時代になっていた。その結果、要職に就けない貴族は、その武力を元に武士になるしかなかった。本来、将門は桓武天皇の子孫であり、中央にいれば要職に就けたのだろうが、地方出身、それも東国であったため、その武力を持ってしても有力な役職には就けず、父・良将が死去すると、将門は夢を諦め領地に帰ることになった。

 

 こうした出来事の積み重ねが、やがて将門を憤怒させることになる。将門は領地に戻ると、死んだ父・良将の所領が叔父の平国香、平良兼、平良正に横領されていることを知る。さらに将門が妻に望んだ源護(みなもとのまもる)の3人の娘が、叔父・国香、良兼、良正に嫁いでいたことも発覚。そして、叔父の平良兼とも、良兼の娘を巡っての争ったといいう。今風にいえば、東京で仕事が得られず、故郷に帰ったら親類が勝手に敷地を奪い、嫁さん候補まで分捕っていたという話しだ。それは怒りがこみ上げるのもよくわかる。

 


平将門


 承平5年935年、将門は、叔父の国香と源護の息子・扶(たすく)ら3人と争い、彼らを討った。ここに至って将門と源護、平良正、平良兼との対立は戦へと発展する。承平5年935年10月、まず源護が良正とともに将門打倒を企てるが、大敗。承平6年936年7月、平良兼と平良正が平国香の嫡男・平貞盛を誘って将門に挑むも将門が勝利する。良兼、良正、貞盛は連合軍は、下野国府に逃げ込んだ。将門は下野国府を包囲するも、この時はこれ以上争わず引き上げたという。

 

 源護は、朝廷に将門の非を訴える。将門は、弁明のため再び上京するが検非違使に捕えられ尋問を受ける。だが、承平7年937年4月、朱雀天皇の元服による恩赦により、将門は放免となる。しかし、承平7年937年8月、平良兼、平貞盛、源護らによって将門の重要拠点の一つであった官営牧場「常羽御厩」(いくはのみまや)を焼かれてしまう。普通、ここまでくると怒りが爆発しそうだが、承平7年937年11月、将門の立場が朝廷により全面的に認められ、朝廷は、平良兼、平貞盛、源護らを逆に追討する官符(命令書)を出したのだ。しかし、追討の官符が出ても関東の国司は、将門には非協力的だった。こうした点も将門の怒りに火を付けることになる。


 将門は有利に戦うも、状況は進まず膠着。承平8年938年2月、立場が悪くなった平貞盛は京へ上り弁明しようと出立するが、朝廷に告訴されることを阻止したい将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となる。貞盛は、配下の多くが討たれるも身ひとつで逃亡。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、今度は将門に対する召喚状が出されてしまう。そして、承平8年938年6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介・藤原維幾(ふじわらのこれちか)に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るも、将門はこれに応じなかったという。この態度からも分かるように、将門は藤原氏による中央支配体制に強い憤りを覚える。

 

 

 一方、体勢が危うくなった貞盛は、陸奥国へ逃れようとするも将門側に追われ、それ以後東国を流浪することになり行方がわからなくなったとされている。その後良兼軍の勢力は衰え、天慶2年939年6月、良兼は病死。将門の連戦連勝ぶりと実力は関東で大きく広まり、名声を高めていく。この時、将門に注目していた一族がいた。坂東にいた物部氏たちである。秦氏によって富士王朝を崩壊させられ、東国に逃げてきた物部氏は、時が満つれば再び大和朝廷に反抗しようと考えていた。その時に登場したのが、大和朝廷に怒りを持っていた武者であり、桓武天皇の子孫であった由緒正しき男・平将門だったのである。

 

◆平将門 vs 大和朝廷

 天慶2年939年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守
「興世王」(おきよおう)と源経基(みなもとのつねもと:清和源氏の祖)が、足立郡における前の郡司「武蔵武芝」(むさしのたけしば)と紛争になる。将門は調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝を和解させようとしたが、武芝の兵が経基の陣営を包囲、驚いた源経基は逃げ出し京に戻ってしまう。そして、経基は、朝廷に将門、興世王、武芝の謀反を訴える。
 

 将門の元の主人である太政大臣・藤原忠平が事の真相を調べることになり、御教書(指示書)を下して使者を東国へ送った。天慶2年939年5月、将門はこれに驚くも、関東5カ国の国府の証明書を添えて朝廷に送る。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられることとなった。しかし、再び事件が起きる。武蔵権守の興世王は、正式な受領として朝廷より赴任してきた武蔵守・百済王貞連(くだらのこにきし さだつら)と対立、興世王は将門を頼るようになったのである。

 


NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」での将門と興世王

 天慶2年939年11月、藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、年貢の不払い問題等で常陸国司と対立、将門に助けを求める。常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求するも、将門は応じず戦いとなる。この時、将門の兵は1000、常陸国府軍は3000と劣勢だったものの、将門は常陸国府を襲い、朝廷が国司に与えた任命書
「印綬」(いんじゅ)を略奪する。これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味し、このことにより、将門は真に「朝敵」となったのである。

 さらに将門は天慶2年939年12月11日に下野国府、15日に上野国府を襲撃。国司の行政機能を標的とし、印鎰と帳簿4種を奪った。そして将門は関東一円を巡回、各国の国司は逃げ出したという。こ将門の動きに驚いたのが朝廷だった。なにせ将門は桓武天皇の末裔である。つまり秦氏であり、藤原氏の正体が秦氏だということを考えれば、将門は親類であり、本来は朝廷側の人間のはず。しかし、東国に生まれた将門は皇子たる血筋にも関わらず、朝廷側にいた親類筋に酷い仕打ちを受けていた。


 それまで、将門が関係する戦いを「東国の一地方の小競り合い」「領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと思っていた事が、実は自分たち朝廷に向かっているのだ、ということにようやく気付いたのである。当時の朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、将門は憤慨していたという。将門が助けた藤原玄明は、そんな状況に対して税金を払わず、朝廷が管理する米を民衆に分け与えていた人物だった。つまり、将門が闘っていたのは親族内の叔父ではなく、叔父の職務である国司とそれを任命した朝廷だった。

 



 この時、将門の周りには東国の物部氏・外物部氏・忌部氏たちが味方に付く。そして、物部氏の呪術師たちが将門を護ったことでさらに勢いを増し、将門は各国国司から次々と印綬を奪って追放していった。上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東八か国を占領、将門は朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付けていった。そして、自らを
「新皇」と名乗ったのである。

 これは、
東国に別の「天皇」が即位したことを示し、将門が占有した坂東八カ国が朝廷から独立したことをも意味する。そして、将門は関東の国司を勝手に任命した。ここに至って将門の謀反は、即刻朝廷に報告され、朝廷は将門討伐を決定。将門を調伏するために祈禱をしたが、将門には効果はなかったという。なぜか。それこそが物部氏の呪術師たちが将門を護ったということなのであり、現在の茨城県の「牛久沼」の周囲に多くの「カッパ」の像があることがそれを伝えている。そう、カッバーラの呪術師たちである。

 天慶3年940年1月、朝廷は将門討伐のため老貴族・藤原忠文を征東大将軍に任命。加えて、関東では各国の掾が任命され、将門追討が命じられる。そして朝廷は、「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」との通達を出した。以前から将門と対立していた平貞盛は、同じ坂東の有力武士団で姻戚関係でもある下野掾・藤原秀郷に応援を求めて出陣する。

 

平貞盛

 

 将門と貞盛の最終決戦は、天慶3年940年2月14日午後3時頃であったと伝わる。将門の軍は半農半兵であったため、農繁期のこの時期には兵が集まらず総数1000人以下だったという。一方の藤原秀郷軍は4000人が集まったという。初めは風上に立つ将門が優位に立った。「将門記」によると、戦況が進むにつれ、秀郷軍は3000人余りの兵が死傷したり逃げて、最後に残ったのは精鋭300人だったといわれる。武功に長けた将門軍は、少数でも相当強かったのだろう。

 だが、戦いが進み時間が経つと、風向きが変わり
将門軍は風下に立ってしまう。この時期季節の変わり目で、冬の寒い木枯らしと、春の強風春一番が勝敗を分けた、とも伝えられる。将門の最後は、「将門記」によると神仏の矢に当たって倒れたといわれ、「古事談」によると平貞盛の矢が当たって落馬した将門の首を秀郷が取ったと伝わる。「新皇」の宣言後、わずか50日であった。最後の決戦は、猿島の北山といわれ、そこには現在、「北山稲荷神社」がある。

 

「北山稲荷神社」

 

 しかし、伝承として伝えられた終焉の地としては、現在は坂東市となっている同じ猿島の「神田山」ともいわれている。東京の「神田明神」が、将門の「カラダ明神」であることを考えれば、終焉の地は神田山だったと考えられる。そこには、将門の三女である如蔵尼(にょぞうに)が庵を結んだ地で、如蔵尼が彫ったと伝わる「平将門木像」が御神体とされる「國王神社」があるのだ。ここの由緒によれば、父の最期の地に庵を建てたことが國王神社の創始であり、父の三十三回忌に当たって刻んだのが「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)だとしている。

 

 将門は「日本将軍平親王」(ひのもとしょうぐんたいらしんのう)と名乗り、「新皇」=新しい天皇と称し、東日本の皇帝に君臨することを宣言した。これは大和朝廷に対する宣戦布告であるが、秦氏の親王を神皇と祭り上げたのは物部氏たちである。彼らは将門を大和に対するもう一つの國「日本」の将軍であり天皇としたのである。これは将門が討ち取られたことで終わったわけではない。将門の怨霊は東国を守り、さらに将門の血を受ける者が、呪術の世界でこの国を守ることになるからだ。

 

<つづく>