「怨霊と呪術」その8

 

 いつの世にも「詐欺師」は存在する。インチキ陰陽師にインチキ占い師、偽の祈祷師。そしてコロナ禍によって、医者の8割が「嘘つき」「詐欺師」「殺人者」だということが明確になった。そもそも現代の医療とは薬品と医療機器のための人体実験装置であり、医者だけが儲かる仕組みになっている。

 

 「医」という字は「匚(隠すことを示す符号)+矢」を合わせ、矢を中に入れて隠すことを示す符号である。つまり、「矢」で殺すことを隠すということを伝えているのだ。旧字は「醫」は音を表す「殹」(エイ)と意味を表す「酉」が組み合わさって成り立った形声文字である。「殹」は「ほこで打つ音」を表し、「酉」は「酒つぼ」を意味している。医者がアルコールを使うのはこのためだ。


 

 「醫」の本来の漢字は「毉」(すくし)であり、字にも入っているように、巫女がお酒を使って病気を治すところが始まりではある。しかし、後に、病気には薬品が使われるようになり、毉ではなく醫の漢字が使われるようになったとされている。元は呪術だったが、それが医術となり、人が増えすぎないように医療と呼び替えていったということだ。

 

 しかし、令和の時代の医術は、再び呪術に戻ったとも言える。なぜなら、疫病封じのための「蘇民将来の神事」である「祇園祭」を無視し、牛頭天王=スサノオ尊に滅ぼされる”しるし”となる狂牛病プリオンタンパク質入りの毒液を、いかにも「人助け」かの如く喧伝して接種させ、1億人の大和民族を滅ぼそうとしているからである。まともな医者は1割もいない。残りは牛の頭をもつバール神に忠誠を誓った殺人者集団と化したからだ。

 

 

◆占いと祈祷と呪術
 

 「占術」は基本的に神霊が祈祷師に憑依し、神託としての予言や預言や啓示、託宣を垂れることをいい、これは、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などでも同様に観察される。ヘブライ語で預言を垂れる、という意味の「ヒッティーフ」は、元「(涎を)垂らす」の意であり、『サムエル記』では忘我状態で神の言葉を述べる聖者を指して使われるが、日本の神社神道も「巫」(かんなぎ)といわれる神主や巫女が、神の憑依体である「依り代」となって神の御言を述べる。

 

 

 同様に神託を伝える儀式として「亀甲占い」や「年始の神事」、その簡易としての「おみくじ」等の占いがある。柳田國男は、年始に行う花札や百人一首のようなカードゲームを、「占術の零落した物」とする。実は花札や麻雀は簡易版の運勢占いである。時の運があるかを調べるのに一番分かりやすいのがバクチなのである。

 

 ある意味で原始宗教、宗教または、それによって律せられる土着の習俗において、神霊を信じ、その神霊に祈る(祈祷)ことで神頼みをし、その啓示を人生の指針として身をゆだねるというのは、占いと変わらないともいえる。このように現在の宗教の多くは原始宗教からの「機会」を神の啓示とする呪術的要素を備え継承している。

 呪術の発祥の要因として、集団としての人々の暮らしの中で、諍いや一年をどう過ごすか、またはどうなるのかといった社会や個人の不満や不安があり、その緩衝としてシャーマンが存在するという考え方がある。たとえインチキな占い結果であっても、その人にとっての救いとなるような信じたい部分だけを信じれば、ある意味で不安が解消するからだ。

 

 

 日本では社寺が地域社会の中心であったように、現在のヨーロッパの集落のほとんどが、教会を中心とした街づくりになっており、これは呪術を行うシャーマンが集落の中心にあった名残と考えられる。これはアメリカやカナダなどのキリスト教国も同じで、コミュニティの中心には必ず教会があり、そこには神の取次人=エージェントとしての神父や牧師がおり、そこで話しを聞いてもらったり懺悔をすることで安堵が得られるという仕組みになっている。まぁ、あくまで表面上の話しだが。

 個人間や家族間の諍(いさか)いとして処罰や依頼によって「呪い」をかけたとしても実害はなく心理的な抑制効果でしかなく、また成人の通過儀礼などの呪術も子供から大人への決意を促す効果をもたらすものとなっている。このように呪術は、裁判制度や法がない時代や地域の人治としての権威であり脅威としての力であったと考えられる。また個人の不安や不幸を取り除く、静めることも集団社会には必要であり、そのままにすれば、妬みや嫉みなど、反社会行為に発展しかねない。実際には効果がなくとも、「祓い」を行い不安を取り除けば、相互扶助の関係の中で、不利益より益になると考えられる。

 

 日本では武家の時代となって以降、その主体は檀家制度の中で僧侶が担う場合が多かった。悪魔祓いも坊さんが担うというのは本来は変なのだが、神仏習合で神主と僧侶を兼ねる者たちが現れたこと、また、近年では地方の人口減少によって、神のことも仏のことも彼らが担う場合が多くなった。筆者の知り合いも跡継ぎ不足で神官や僧侶になったものがいる。当初は跡を継ぐ予定がなかったため、東大出なのに再び国学院大学に通ってにわか知識を詰め込んで神官なったため、極めて神道の勉強不足が否めない存在である。また、外資系企業に勤めていた人間が家の都合で僧侶になったりしたのだが、それでも地方に行くと有り難い存在として重宝されている。

 

 狩りや漁りや農耕の願いは「豊饒」である。その土地が豊かになって実りの多いことが、その社会集団の願いである。それに対し集団の社会不安とならないようにするための、指針の提示が必要になり、それがその集団においての祈祷による祈願・祈念になり、占いによる大概が1年の禍福の予想をしていたと思われる。このことはどの世界でも呪術の延長である年単位の中での時節や季節による行事の繰り返しから見て取れる。まぁ、これもあくまで表の話しだが。

 沖縄地方では、魔除けとまじないは盛んであり、「フーフダ」(符札、まじないを書いた木札や紙札を貼る)、ハブよけのまじない、悪霊がついた時のまじないなどが行われている。沖縄ではくしゃみをすると魂が出てしまうと考えられており、それを取り戻すためのまじないがある。また、
白くて固い物には魔除けの力があると信じられており、シャコガイ、スイジガイ、珊瑚や塩などを置いて魔を遠ざけようとする。
 

 香港では、現在も「打小人」(ダーシウヤン)と呼ばれる、紙で作った人型を靴で叩いて行う黒呪術を代行することによって、報酬を得ている人たちがいる。古くから中国人、華僑、華人を中心に信奉され、日本にも古くから伝わる陰陽五行思想としての「風水」においても、占い・呪術的な思考様式と精緻な理論的な思考様式とが混在している。有名なのは中国銀行と香港上海銀行ビルによる風水呪術合戦だろう。

 

 

 香港上海銀行ビルは様々な風水を取り入れている建物として有名で、グランドフロアは吹きぬけになっており、香港島の中で一番高い山で世界三大夜景にも選ばれている「ビクトリアピーク」からの龍脈をさえぎらないようにしている。エスカレーターは「龍の口」を表し、龍脈の良い気を取り込むように「8」の字に設置され、銀行の前には二頭の大きな獅子が置かれている。1985年、この香港上海銀行ビルが、中国銀行の隣に建設されたことにより、二つの銀行が「風水合戦」を起こしたのである。

 

 香港上海銀行ビル(右側)が完成したことで、香港上海銀行ビルに見下ろされる形となってしまった中国銀行は、1990年、新たに中国銀行タワー(左側)を完成させる。このガラス張りの中国銀行タワーは香港上海銀行ビルに向けて鋭角な三角形を向ける形=香港上海銀行へ呪詛の氣を送る形でデザインされた。その影響か中国銀行タワーが完成してまもなく、香港上海銀行の業績が悪化したという。これに焦った香港上海銀行はその対策として、悪い氣を打ち返すため、屋上に大砲に見立てたクレーンを中国銀行に向けて設置したのである。そして、実際、その翌年に業績が回復したという。この裏には偽ユダヤ人(ロスチャイルド)と華人たちの金融支配戦争がある。


 イスラム教では人間が超自然的な力を持つと主張したり信じることは「アラー」への冒涜であるとされており、サウジアラビアでは「勧善懲悪委員会魔法部」が取り締まり=「魔女狩り」を行っているという。それにしても凄い名称の取締局である(笑)。これらの呪術は、その地域の支配的な宗教、文化、思想と密接に結びついており、場合によっては「タブー」のような行為にも関連する。タブーを敢えて犯すことで災いを発生させられるという思想や、あるいはタブーによる祟りを呪い(まじない)の効果で無効化しようとする行為も挙げられる。

 

◆魔術と魔法

 

 「魔術」とは、現実世界にはまだ解明されていない法則があると信じて、その法則を利用して現実を変えるため、あるいは神託を得るために、特定の行動を行なうことである。但し、この「神託」なるもおがクセモノである。なぜならご神託を与える存在が、必ずしも「神」ではないからである。魔術は「白魔術」と「黒魔術」という二つに大分類されているが、この分類は便宜的なものであり、統一見解とはいえない。


 

 日本では古くから神道(神道と古神道)と共に陰陽道が取り入れられ、風水や祈祷によって現状の改変を計るという呪術は存在しており、国家公務員としての陰陽師の他に祈祷師や霊媒師などを生業とする専門家も存在するが、「魔術」という語が使用される場合は、特に西洋の古典魔術や儀式魔術などを指すことが一般的であり、風水などを指して呼称することは稀であり、日本では「呪術」となる。日本では「魔法」という言葉は、神秘的で超常的な力または行為の中でも、特に西洋由来のものを指す言葉としてよく使われる。これは魔法という語が明治以降に外国語の訳語として使われたことが大きい。ただし、江戸時代以前に「魔法」という言葉がなかったわけではない。18世紀の用字集『和漢音釈書言字考節用集』にも「魔障」、「魔軍」とともに「魔法」の語がみえるからだ。

 「魔法:マジック」という語には非常な魅力があり、魔法瓶やマジックインキ、マジックテープ、中にはマジックハンドといった商品名に使われることもある。また日本では「魔法」といえば、メルヘンやおとぎ話、あるいは子供向けを主とした「他愛のない不思議な力や方法」を指すときの言葉として使われることが多く、たとえフィクションであったとしても難しい理屈や深遠な原理が背景に存在するとされるものについては
「魔術」などと呼ぶことが多い。そう言った「魔法」のイメージは、アンデルセンやグリム童話などが日本に輸入された際に与えられた「魔法使い」たちの印象が根底にあると考えてよい。

 



 「MAGIC」という言葉は、ゾロアスター教の祭司を語源とした
「Magi:マギ」に由来する。一般的には現実の魔術の意味と同時に「手品」や「奇術」の意味でも用いられてきた。有名なのは「引田天功」と「Mr.マリック」だろう。「引田天功」の場合は2代目の引田天功お方がよりエンタメ色が強い奇術師、「Mr.マリック」は手品師である。まぁ「ハンドパワー」による「超魔術」とは言うが。この言葉の使い方が混同させる。魔術は不思議なものとして認知されている。奇術を行う際には、行われるものがタネも仕掛けもある奇術であるというよりも、不思議な魔術であると喧伝された。大仰な身振りと魔術という触れ込みで奇跡めいた見世物を披露されることが多くなり、世間で奇術が「魔術」と呼ばれることが定着した。

 

 「魔法:マジック」は、さらに、ディズニーを初めとする近代以降の絵本やアニメ作品のエンターテインメント性が与えた影響により、伝統的な魔術とは関係のない「魔法」や「魔法使い」たちの印象が重複し、定着した。日本でも「魔法使いサリー」などのアニメやマンガが人気を博した。但し、世間一般で云う印象で云うと、“魔女狩り”の悪影響があり、『魔法』は『悪い』イメージが東洋よりずっと強い。近代になり、一般的にオカルティックな奇跡の技という魔術の意味が縁遠くなったことも、魔術と奇術の混同の一因と見られる。奇術師が魔法使いと呼ばれるよりも、魔術師と呼ばれることが多いのはこのためである。
 

<つづく>