「大和と日本」の謎:その56
天海大僧正となる前の明智光秀は、信長の家臣となり、信長の野望を理解した。その野望を恐れたのは偽の天皇家・北朝の正親町天皇だった。仏教系八咫烏であった天海=光秀は、信長の野望を食い止めるべく秘密の暗殺計画を策定。その計画に乗ったのが正親町天皇であり、羽柴秀吉であった。秀吉は「関白・太政大臣」の地位と引き換えに信長を売り、見事天下人の称号を得る。そして、計画の成功をもって、「豊臣姓」まで賜った。
だが、根本的な謎が残る。天海は八咫烏である。忌部氏の信長が考えた正統なる南朝の世に戻すことをなぜやめさせたのか、だ。なにせ南北朝時代に突入する時、後醍醐天皇を守って吉野へと逃がしたのは八咫烏であり、本当の天皇家の血筋=國體を護持することこそが八咫烏の使命だからだ。では、天海は八咫烏の組織を裏切ったのだろうか。実は、ここにこそ「平安京=大和」と「江戸=日本」という二本の木の本質が隠されている。
◆「三種の神器」の争奪と天皇家の正当性
イスラエルの三種の神器は「モーセの十戒石版・マナの壷・アロンの杖」であり、その”依代”が日本の三種の神器「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣」である。日本の三種の神器を手にした後醍醐天皇は「契約の聖櫃アーク」を保持する資格を持っている。秦氏の天皇でレビ族だからだ。これに対して、北朝には三種の神器がなく、即位したとは言っても北朝初代・光厳、2代・光明天皇には正当性がなく、アークを手にする資格がない。天皇としての正当性を有するには、本物の三種の神器を手にする必要があり、それは北朝天皇家を作った足利尊氏も理解していたのである。
そこで室町幕府は奇策に出る。当時、アロンの杖が納められていた「権アーク」に目をつけたのだ。足利尊氏は熱田神宮にあった「権アーク」を奪い、幕府の管理下に置いた。そのうえで北朝天皇の即位を行ったのである。権アークは真アークの”形代”である。本物ではないが偽物でもない。形代を抑えてしまえば、「真アーク」を保持する資格はある。残るは本物の三種の神器を南朝から奪い取ることであった。
2つの「アーク」と2つの「三種の神器」
後醍醐天皇が崩御した後、南朝は足利尊氏に渡した三種の神器を奪い返す。1392年、3代将軍・足利義満が調停に乗り出して南北朝が合体。南朝4代の後亀山天皇は北朝6代・後小松天皇に三種の神器を譲渡する。もはや本物の三種の神器なのかどうか分からない。なにせ長年本物の三種の神器を作った天皇は見てないからだ。さらに。本物の三種の神器を触れるのはレビ族の大祭司のみ。つまり本物の天皇と鴨族だけ。よって、偽天皇だった北朝の天皇は触ることもなく、中身を確認するのも恐れたはずである。
二つの皇統が交代で皇位につく「両統迭立」(りょうとうてつりつ)が約束されていたが、後小松天皇は息子の称光天皇を即位させたことで、再び南朝が挙兵。1443年、御所にあった「勾玉」と「剣」を奪って比叡山に立て籠もるも幕府が鎮圧。「剣」は取り返すも、「勾玉」は南朝に持ち去られてしまう。今度は赤松家の遺臣が後南朝に接近、自天王と忠義王を殺害して勾玉を奪取するも、逃走中に地元民に奪われ、更に第三者の手に渡ってしまう。最終的に朝廷に戻ることとなったが、南北朝時代とは三種の神器の奪い合いだったということなのだ。
「両統迭立」
新しく天皇が即位する場合、三種の神器はもちろん、「大嘗祭」をする必要があり、それをせずして即位した天皇は半分しか正統性を持たない「半帝」と呼ばれた。南朝の後醍醐天皇と同様に、北朝の光厳天皇も大嘗祭を行っている。が、本来の秘儀としての「大嘗祭」を行ったのは後醍醐天皇が最後だった。それは”しるし”として残されている。
後醍醐天皇の手のひらには、イエス・キリストの聖釘を使って儀式を行った痕、穴が空いていたからだ。北朝の天皇にはこれがない。さらに大嘗祭で最も重要な「麁服」(あらたえ)は、北朝2代・光明天皇を最後に献上されていない。復活したのは123代・大正天皇からである。麁服を献上する三木家は忌部氏であり、同じ忌部の織田信長はこのことに気づいていたのである。前回書いたように、信長はこのことを知っていたからこそ正親町天皇を見下したのである。
四天王寺に残る後醍醐天皇の穴の空いた手印
南北朝を合体させた足利義満は臣下の身でありながら、天皇になろうとした。当時の後小松天皇は無力で、義満は退位を迫り、自らが「太上天皇」として即位しようとしていた。もしこれが成立していたら、全く天皇家の血筋じゃない足利家の者が天皇になってしまうという事態であった。幸い義満は即位の直前に急死してしまう。よってあくまでも死後の尊号として送られただけで済んだが、北朝天皇が、かくもないがしろにされた理由とは、その正当性にある。正統な血筋ではない、ということである。
足利義満は知っていたのだ。正当性がなくとも天皇になれるのだと。これは信長も同じで、北朝天皇は正統な血筋=レビ族の天皇家ではないことを認識していたのである。だからこそ、北朝を滅ぼした後、後醍醐天皇の末裔を毛利家から奪取して南朝を復興することで「天下布武」を成し遂げようと考えていたのである。この秘密を知ったのが信長に近づいた天海=明智光秀だった。そして正親町天皇と結託し、信長を暗殺することとした。準備が整ったところで羽柴秀吉を呼び出し、信長の首を船岡山に埋めるようもちかけた。秀吉は信長の忠臣を演じながら、陰謀の片棒を担いだのである。
足利義満と信長
一般的に秀吉は信長を恐れた忠臣とされている。ドラマや小説などでは、秀吉は信長に「サル」というあだ名で呼ばれている。実際、秀吉に会った朝鮮の使者は「サルにそっくり」と書いているし、肖像画もサル似だ。でも、じつは信長は「はげねずみ」というさらにひどいあだ名で秀吉を呼んでいた。それは信長が秀吉の妻・ねねに送った手紙に書いてある。
正確な身分もわからないほど貧しい農家の生まれとされた秀吉は、母親の再婚相手にいじめられ「絶対偉いサムライになってやる!」と13才で家を飛び出して、信長の家来となったとされている。何ももたずに生まれた秀吉は、他の家臣たちから「ただの人たらし」と思われようと、秀吉は信長の役に立とうと必死だったというのが表のイメージである。10日間で18個もの城を攻め落としたり、味方に裏切られて絶体絶命の信長を戦場から逃がしたりと大活躍した目的はただひとつ。偉くなるためである。
そして信長のかたき光秀を討ったことで、秀吉の発言力は急上昇。信長の葬儀も秀吉だけで取り仕切り、他の有力な家臣を入れさせなかった。そして、2才の信長の孫、三法師の面倒を見ることで織田家の実権を手にし、秀吉はのし上がったとされている。その後、全ての戦国大名を家臣にした秀吉は、遂に正親町天皇の次に偉い関白の位を与えられ、信長にもできなかった天下統一を成し遂げた。
単純な疑問として、たとえ天下統一を成し遂げたとしても、貧農の生まれだった侍が、なぜ「関白太政大臣」になれたのか。侍の大将ならば、征夷大将軍のはずだ。これについては諸説ある。1584年(天正12年)10月、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)は「正親町天皇」の退位後の住処となる「仙堂御所」(せんとうごしょ)の造営に取り掛かる。同月、秀吉は初めて「従五位下左近衛権少将」(じゅごいげさこのえごんしょうしょう)に任官されたことで、位階において豊臣家は織田家を超えたことになる。
さらに、1584年(天正12年)11月には「従三位権大納言」(じゅさんみごんだいなごん)に叙任され、公卿に名を連ねることとなった。このとき、秀吉は正親町天皇から「征夷大将軍」に任官することを提案されたが、これを辞退している。秀吉はなぜ、自ら将軍になることを避けたのか。もともと百姓の身分だった秀吉は将軍に就くことができなかったという説や、同時期に起こった「小牧・長久手の戦い」で徳川家康に武力で敗北していたことが関係しているという見方もある。だが、そうではない。
なぜ、秀吉は公卿に名を連ねる関白太政大臣になれたのか。それは、羽柴秀吉とは正親町天皇の御落胤だったからである!!
秀吉と「五七桐」の紋
関白太政大臣・豊臣家の家紋は「五七桐」。これは天皇家の家紋である。家康が「三つ葉葵」でその正体が「賀茂氏」であるを示唆しているように、秀吉も家紋で示したのである。たとえ正統なる血筋の天皇家ではなくとも、自分は天皇の子供なのだ、と。よって天下統一を果たした自分がなるべきは征夷大将軍ではなく、関白太政大臣なのだと。
しかし、その豊臣秀吉も結局は滅ぼされることとなる。呪殺である。誰が行ったのか。もうお分かりだろう。天海である。天海の目的は別のところにあったのだ。東国の復活である。そのために綿密な計略を作り、正親町天皇とその子・秀吉をも騙し、全てを自分の計画通りに運んだのである。
<つづく>