「大和と日本」の謎:その55

 

 江戸幕府を徳川家康に開かせ、江戸を呪術で鎮護させ、日光東照宮を作らせたのも天海である。そして、天海の前半生は違う名を名乗っていた。明智光秀である。つまり、仏教系八咫烏が忌部氏の陰陽師を退治したということになる。つまり、その裏にはカッバーラの呪術があり、預言に従っているという風に考えられないだろうか。すると、未だに謎とされる明智光秀による信長を謀殺した「本能寺の変」の意味が全く違うものとなる。

 

◆明智光秀と豊臣秀吉と正親町天皇の密約

 

 1582年6月、「本能寺の変」が起こる。丹後にいた明智光秀が「敵は本能寺にあり」と叫び、軍勢を京都に向かわせ、本能寺を包囲。一斉に攻撃を開始したとされている。隙をつかれた織田信長は敵の矢が当たり、薙刀を手に応戦するも、肩を鉄砲で撃たれてしまう。もはやこれまでと観念した信長は部屋に入って切腹。介錯は側近だった森蘭丸が行ったとされる。戦いは明智方の勝利となり、明智光秀は天下を手に入れる。が、それも長くは続かず、すぐに羽柴秀吉の反撃により敗走する。

 

「本能寺の変」

 

 明智光秀は農民に槍で突かれて死亡したという。光秀の天下は11日で崩壊。これをもって後の人々は「三日天下」と称する。だが、明智光秀の首は確認されていない。本当に死んだのだろうか。確固とした証拠がないため、光秀は落ち延びて「天海になった」という噂が立つ。天海が貫主を務めた日光輪王寺の近くには「明智平」なる地名があるのは、その証拠のひとつだといわれる。真相は不明とされるが、この噂は本当である。

 

 明智光秀、すなわち南光坊天海の目的とはいったい何だったのか。もちろん、天下を取ることではない。天海は、密教の僧侶で八咫烏。裏の陰陽師である。だが、天海は「権アーク」を管理していたのである。つまり、天海は室町幕府の呪術師だったということなのである。さらに、「権アーク」によって戦国の世を終わらせる必要があったのだ。室町幕府はもちろん、その後ろ盾である「正親町天皇」(おうぎまちてんおう)にとって織田信長は敵であった。なにせ信長は見下していた。よって天皇にとって信長は天皇の権威に楯突く人間で敵。敵ゆえに首が必要だったのだ。何より呪術に使うために。実は、ここにこそ恐ろしい歴史の真相がある。

 

正親町天皇と織田信長

 

 自害した信長は森蘭丸によって介錯され、その首は密かに本能寺の外へと持ち出された。本能寺は包囲されていたが、脱出に成功した人間がいる。黒人の弥助である。弥助を止められる人間はいなかった。なにせ異国の大きな黒人である。言葉も通じないフリをすれば逃げられる。そう、弥助は信長の首をもって本能寺を抜け出し、これが最終的に秀吉のもとに送られる。

 

 このとき、秀吉は事件の真相を把握したのである。この計画を練ったのは光秀であり、その後ろには正親町天皇がいるのだ、ということを。そして、おそらく光秀の計画は事前に秀吉知らされていたはずだ。なにせ毛利攻めに行った秀吉はすぐに主君が討たれた話しを聞き戻ってきたことになっているが、そうではないのである。全ては計画通りに進められたのである。そして、秀吉は主君であった信長の首を正親町天皇のもとへと運んだのである。全ては「密約」のためである。

 

 

 この時、正親町天皇は秀吉に囁いたはずだ。「お前を天下人にしてやる代わりに、すべてのことは秘密にせよ」と。「光秀は死んだことにし、信長の首を船岡山に埋葬しろ。そうすれば、望み通りにしてやる」と語ったのである。これを仕組んだのは、もちろん光秀、すなわち天海である。秀吉が策略に乗ったことは、彼が天下統一を成し遂げ、武士なのに「関白・太政大臣」の地位と豊臣姓を正親町天皇から賜っている歴史が証明している。そう、全ては仕組まれていたのである。

 

 信長の首は密かに船岡山に埋葬され、そこに小さな社が建てられた。秀吉は船岡山を聖別し、信長を祀る霊廟とした。明治期になり、船岡山には改めて信長を祀る「建勲神社」(たけいさおじんじゃ)が明治天皇によって建立され、今日に至っている。だが、なぜ、織田信長の首は船岡山に埋葬されたのか。理由は平安京呪術にある。

 

 「人形:ヒトガタ」である平安京にとって、船岡山は「首」である。ここに敵である信長の首を埋葬することで、内裏に住まう天皇の護りとしたのである。どこかで聞いた話しだ。そう、この手法は後に、同じ天海が江戸幕府を開く時に使っている。平将門の首をもって江戸城を霊的に守護したのである。

 

船岡山

 

 だが、ここにひとつ疑問が残る。なぜ、戦国時代になって、改めて平安京呪術を行わなければならなかったのかということだ。天皇を守護するなら、平安時代に完成していたはずである。信長の首をもって守護とした背景には、いったい何があるのか。

 

◆正親町天皇を認めなかった織田信長

 

 そもそも、なぜ正親町天皇は信長を敵としたのか。確かに当時、信長は天皇をないがしろにしていた形跡はある。よく言われる自分を神としたというやつだ。安土城の天主からは、全てを見渡せる。そこに天皇を呼び寄せて、眼下にある屋敷に宿泊させる計画があり、正親町天皇を激怒させているのも事実である。また、天下を取った暁には、正親町天皇を暗殺するつもりだったのではないかという説もある。少なくとも、信長には自分が正親町天皇の臣下であるという意識はなかった。だが、だからといって、天皇家をないがしろにしていたわけではない。

 

 信長は忌部氏である。「第六天魔王」と称して、比叡山をはじめとする寺院を焼き討ちにしたが、神道には理解があった。自らが神秘体験をした岐阜の手力雄神社(たじからおじんじゃ)には本物の神がおられるとして、必勝祈願をし、土地を寄進している。神道の元締めは天皇である以上、信長が敬意を払わなかったはずがない。問題は正親町天皇なのである。信長が認めていなかったのは正親町天皇である。もっというなら、室町幕府が成立して以降の天皇、すなわち北朝系天皇である。北朝系には正統性がない。そう信じていたのだ。

 

「第六天魔王」信長と安土城

 

 北朝天皇家には足利氏の血が混じっている。3代将軍義満以降の足利氏の血が混ざっているのだ。だから忌部氏は北朝天皇か江戸時代最後の孝明天皇まで、「大嘗祭」に麻織物の「麁服」(あらたえ)を献上していない。よって、北朝の天皇は全て「半帝」と呼ばれた。正式な天皇ではないということだ。同じ忌部氏の神官一族だった信長は理解していたのである。そして、偽の天皇家に頭を下げる必要なし、と。

 

 逆にいえば、南朝系こそ正当なる天皇家であるという信念があったのだ。天下を統一した暁には、南朝系を復活させる。これこそが信長の真意で、それこそが「天下布武」の意味だったのである。だからこそ、後醍醐天皇の末裔が匿われていた毛利家から、南朝の末裔を奪還すべく、秀吉に「毛利攻め」をさせたのである。

 

 だが、正親町天皇は、この信長の動きに気づいた。伝えたのは光秀=天海である。このままでは北朝系は信長に滅ぼされる。なんとか信長の野望を食い止めなければならない。そのために呪術を仕掛ける必要がある。白羽の矢が立ったのが、はぐれ烏だった天海=明智光秀だったのである。光秀は信長の臣下となり、密かに計画を実行に移した。これが本能寺の変だったのである。

 

 

 かくして手に入れた信長の首は秀吉の手によって船岡山に埋葬されることとなった。ここに北朝天皇家にとっての平安京呪術が完成する。敵の怨霊も手厚く祀れば最強の守護霊になるということである。つまり、本能寺の変の背景には、南北朝問題があったのだ。北朝系と南朝系、どちらが正当なのか。この問題は幕末から明治時代に蒸し返されることとなる。天海の平安京呪術によって安泰となった北朝系であるが、これで南朝系が消えたわけではない。後南朝の血統は密かに伏流水となり、やがて歴史の表に噴出する。それだけ南北朝問題は根が深い。これもまた、日本が二本であるからなのだ。すべてはカッバーラであり、言霊の呪術である。

 

 後醍醐天皇は「建武の新政」の崩壊を受けて比叡山に立て籠もったが、最後には和睦に応じて、「三種の神器」を足利尊氏に渡す。尊氏は京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立、室町幕府が開かれる。が、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開く。曰く、尊氏に渡した三種の神器は偽物で、本物の三種の神器は後醍醐天皇が保持し、天皇の正統性は南朝にあると宣言。ここに二つの天皇家が並立する南北朝時代が幕を開けた。

 

 

 この時、吉野に逃がすため後醍醐天皇のバックで動いていたのは八咫烏である。八咫烏は政治には直接関わらない掟があるが、天皇家が分裂するとなると、傍観してはいられない。闇夜にまぎれて、後醍醐天皇の玉體を吉野へと移したのだ。だが、なぜ吉野なのか。それは、一山超えると、八咫烏の本拠地・熊野があるかからだ。3つの熊野大社である本宮・速玉・那智の三山は神社自体が八咫烏の3本足を構成している。そして、熊野大社の別名は「裏伊勢」である。なぜなら伊勢もまた内宮・外宮・伊雑宮の三宮だからである。そして、裏神道は我らが握っていると言っているのだ。

 

<つづく>