「大和と日本」の謎:その54
陰陽道の呪術図形に「セーマン:五芒星」と「ドーマン:九字」がある。どちらも魔を封じる格子で、セーマンは陰陽五行説の五行相剋を示し、ドーマンは「九字切り」である。
◆晴明の「セーマン」と道満の「ドーマン」
「安倍晴明」と「蘆屋道満」(あしやどうまん)に由来する魔除けの呪詛と図柄が「セーマン」と「ドーマン」である。セーマンは五芒星で「晴明桔梗門」ともいう。京都の晴明神社をはじめ、各地の晴明神社にも掲げられている、いわゆる星型である。
セーマンとドーマン、晴明神社の五芒星
セーマンとドーマンに関しては、はっきりとした謂われは伝わっていないが、有名なのが三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の「海女」(あま)が身につける魔除けのマークである。海女たちが恐れる魔の代表的なものとしてはトモカヅキ、山椒ビラシ(身体をチクチクとさす生物とされる)、尻コボシ(肛門から生き肝を引き抜く魔性といわれる)、ボーシン(船幽霊)、引モーレン(海の亡者霊)、龍宮からのおむかえ、などがあるという。どれも怖そうだが、なんで「龍宮からのおむかえ」が「魔」の代表的なものなのだろうか。この場合の「龍宮」というのは「黄泉の国」という意味なのだろうか。
海女たちは磯手拭や襦袢などに、星形の印「セーマン」と格子状の印「ドーマン」を貝紫色で描くまたは黒糸で記し、海での安全を祈願する。磯ノミ、磯ジャツ(上着)、磯メガネなど、海女たちが身につける用具全般に記され、また、漁夫の褌(ふんどし)にも記されることもある。ちなみに海女が恐れる「トモカズキ」とは、海女と同じ格好をした亡霊のようなもので、潜っているとそばで同じように作業をし、それに気をとられていると命を落とすといわれている。しかし、その亡霊の磯着にはドーマン・セーマンの印はないので、見分けることができるとする。しかし、なぜ「星形」と「格子」の柄が魔除けになるのか?
星形は「一筆書き」で元の位置に戻り「始めも終わりもない」ことから魔物の入り込む余地がない魔除けとされている。地元の海女達の口伝に寄れば「無事に戻ってこれるように」との祈りを込めたともいわれている。一方の格子は「多くの目で魔物を見張る」といわれる。出入り口がわからないから魔が入りにくく、その間にトモカズキといわれる悪霊から逃げられると信じられている。
もちろんこの呼称は、セーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満からとったものであり、伊勢志摩の神島地方の海女は、この両方をあわせて「セーメー」と呼称しているという。「ドーマン」は縦に4本、横に5本の「九字を切る」護身法であり、魔除け、厄除けとして強い効果があるとされる。映画などで「臨兵闘者皆陳烈在前」(リン、ピョウ、トウ、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン)と印を唱える時に描かれる「九字紋」に由来する。
だが、この「セーマン:五芒星」「ドーマン:九字」はあくまでも表の呪符であり、これに対する裏の呪符は「裏セーマン:六芒星」「裏ドーマン:十字」である。
ドーマンは陽の「9」で九字を切るが、裏の迦波羅では陰の「10」で十字を切る。陰陽道とは裏神道である。が、それも表の顔であり、その裏にある別の顔が裏神道の呪術「迦波羅」(かばら)=「カッバーラ」であり、迦波羅の使い手を「漢波羅」(かんばら)と呼ぶ。この漢波羅の秘密組織が「八咫烏」である。これが陰陽道の奥義であり、真言密教の高野山では最高機密儀式において必ず十字を切る。この意味は、弘法大師・空海が日本に持ち帰った「密教」の正体とはカッバーラだったということである!!
漢波羅秘密組織「八咫烏」の一羽だった南光坊天海の「山王一実神道」の正体がカッバーラだったのと同じ。というか真言密教の本質はカッバーラなのであり、故にカッバーラの呪術師になるのにはただの僧侶ではなれないということである。つまり表の仏教である顕教は、今やほとんどが葬式仏教に成り下がってしまっているが、密教は違うのである。天海が空海と同じ意味を持つ名を自らつけ、東国に神仏習合の「日光東照宮」を作った意味は、神道だろうが仏教だろうが、全て同じカッバーラの呪術で覆ったということなのである。
安倍晴明が守った平安京において、天皇が政治を執り行う「大内裏」には9本の小路をもって「九字切り」したときにできる12個のマス目がある。これは何を表しているのかといえば、幕屋で神に仕える大祭司の「胸当て」であり、そこに埋め込まれた12の宝石のことである。これは『旧約聖書』の「出エジプト記」に以下のように記されている。
あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。 これは二つに折って四角にし、長さは一指当り、幅も一指当りとしなければならない。 またその中に宝石を四列にはめ込まなければならない。すなわち紅玉髄、貴かんらん石、水晶の列を第一列とし、 第二列は、ざくろ石、るり、赤縞めのう。 第三列は黄水晶、めのう、紫水晶。 第四列は黄碧玉、縞めのう、碧玉であって、これらを金の編細工の中にはめ込まなければならない。 その宝石はイスラエルの子らの名に従い、その名とひとしく十二とし、おのおの印の彫刻のように十二の部族のためにその名を刻まなければならない。 (「出エジプト記」第28章15-21節)
「12」というのはイスラエル12支族のことで、聖別され12支族から外されたレビ族の大祭司が身につける「胸当て」(エボデ)に12支族をそれぞれ象徴する宝石が埋め込まれているのである。天皇の住まいは大内裏の中でも中央から北東よりの「内裏」にある。大内裏を「胸当て」(エボデ)とみなすと、内裏のある場所はレビ族の宝石が入る位置にある。つまり、天皇はレビ族出身と伝えているのである。平安京には全てに徹底した呪術が施されているのである。
大祭司が身につける「胸当て」(エボデ)
内裏と大内裏
平安京は「極東エルサレム」として隠されてきた。聖地エルサレムの中心地にあったソロモン神殿はメシアの宮殿である。油を注がれたイスラエルの王(メシア)が住み、儀式を行った場所である。それは平安京も同様で、天皇の住まいであると同時に神殿なのである。平安京全体が呪術的都市として設計されたのである。
日本におけるレビ人であり、物部氏及び海部氏の配下にいた祭祀一族「忌部氏」は知っていた。彼らは特別な天皇祭祀から通常の神道祭祀に至るまで、必要な用具を全て作っていたからである。これに対してモーセ系大祭司を担ぎ上げてきたのが中臣氏であり、天皇家の外戚である藤原氏である。藤原鎌足に始まる「藤原氏」とは、名前を変え政治の世界を表で取り仕切ることとなった秦氏である。但し、「藤原」姓は不比等直系の末裔以外には使えないとされ、それ以外の藤原氏は全て住んだ場所、通りの名、職業にちなんだ姓をつけた。だが、要は秦氏なのである。
◆織田信長の正体と「契約の聖櫃アーク」
戦国武将の中で、最も強力な力を持っていたのは織田信長である。武将としての知略もさることながら、織田信長には明確な全国統一の明確なビジョンがあった。それが「天下布武」である。もちろん、この時代の天下統一というのは平安京を中心とした関西圏であり、西日本のことである。平安京を制し、西日本を全て傘下に収めることこそが信長げ目指した「天下布武」であった。
一方、平安京を呪術的に支配した裏陰陽師「八咫烏」は、その組織のテーゼとして表の政治には直接的に関与はしないものの、個人の行動までは制御できなかった。よって、ときに組織から抜け出し、独自の使命感で勝手な行動をする烏も出てくる。中国や西欧からやってきた人間が日本で何かを仕掛けようとすれば、当然、義憤にかられて動き出す。ある意味、戦国時代に裏で暗躍していたのは八咫烏だったと言っても過言ではない。
因縁という意味では、最も大きな存在だったのは織田信長である。信長は平氏であると自称しているが、真っ赤なウソである。信長のルーツは福井県であり、「織田劔神社」の神職の一族だった。もちろん神道祭祀一族の忌部氏である。織田信長は、まぎれもなく忌部氏であり、祭司レビ人だった。言い換えれば、織田信長は「陰陽師」だったのである。実際、信長は戦には必ず「裏セーマン:六芒星」を背負った陰陽師が常に横にいたのである。
安倍晴明の末裔の第27代・水の陰陽師である安倍成道氏もそのことを指摘している。戦国時代前の陰陽師は食べれなかった。応仁の乱の戦禍によって、家を失い、平安京から出ていかざるをえなくなった者もいたという。だが、戦国時代を飾る各地の有力な大名たちは、それぞれ陰陽師を雇い、戦況を占わせ、戦術にも登用したのである。武田信玄は諏訪系の「歩き巫女」を忍びの者(女スパイ)として活用したとされ、徳川家康は伊賀系の忍者組織を使った。
伊賀、甲賀、風魔の忍者たちは全て秦氏の諜報組織「志能備・志能便」(しのび)である。彼らを情報収集に使っていたのは、陰陽師だったと安倍成道氏は語っている。一方の諜報組織「八咫烏」は「烏天狗」たちを各地の情報を集めさせ、その情報は全て平安京の大烏と金鵄のもとにもたらされたという。江戸時代にはそれを「虚無僧」が担うが、この時代はまだ八咫烏の天狗たちが各地の大名の動きなどの情報を収集していたのである。逆から考えれば、戦国時代とは、各地の大名が雇った陰陽師たちによる呪術合戦でもあったのである。
「長篠の戦い」における信長の陰陽師
実家ともいうべき織田劔神社の「劔」(つるぎは)暗号である。北陸には「劔岳」がある。明治時代、日本における最後の一等三角形を置くべく、前人未到の劔岳に登頂に挑戦し、見事、山頂に到達した陸地測量官の柴崎芳太郎は、そこで恐るべきものを目にした。だれも登ったことがないはずの山頂に一本の剣と錫杖(しゃくじょう)があったのだ。驚くべきことに、その剣は表面こそわずかに錆びていたが、まったく腐食していなかったのである。誰が置いたのか、今もって分かっていないが、錫杖を使っていたというのなら「山伏」である。
山岳宗教には山伏が絡んでいる。「役君小角」(えんのきみおづぬ)を祖とする山岳仏教は、「修験道」ともいわれ、日本の古代呪術的山岳信仰が仏教に内在する波羅門的、道教的な思想を密教の名において受け入れ、しかも在家仏教として発展して来たもので、山岳地帯を中心道場としてきわめて実践的な活動に重点がおかれている。修験の法衣は頭に頭巾ときん、身に篠懸すずかけ、括袴、結袈裟ゆいげさを佩び、尻に引敷ひっしきをあて、白手甲、脚絆をつけ、草鞋をはき、念珠、護摩刀、檜扇、蒲葵扇ほきせん、走索そうさく、螺緒らお、法螺貝ほらがい、錫杖、金剛杖、笈おい、班蓋(円形の檜笠)等を持つ。
この修験道の開祖「役君小角」は「役行者」(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれるが、「役氏」(えんうじ)、「役君」(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流「賀茂氏」から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君とも呼ばれている。賀茂氏ということである。修験道とはいいながら、根本は同じなのである。なにせ修験道は日本の風土に合わせて発展させた原始ユダヤ教だからである。
劔=ツルギという意味で、福井には「鶴来」(つるぎ)という地名がある。鶴来には「金劔宮」(きんけんぐう)があり、ここは白山七社のひとつである。鶴来という地名は金劔宮に由来するというが、ツルギ=剣は三種の神器のひとつ草薙剣であり、元は四国の「剣山」である。剣山がある阿波は、まぎれもなく忌部氏の拠点である。今も大嘗祭に使われる「麁服」(あらたえ)を作ることを担う三木氏は阿波忌部氏である。
日ユ同祖論に関連する伝説のひとつに「剣山ソロモン秘宝伝説」がある。剣山に「契約の聖櫃アーク」が眠っているという説で、ツルギは「鶴亀:ツルキ」で、童謡「カゴメ唄」の暗号を解いた結果、剣山の山頂にある鶴岩と亀岩の下に隠されているというものである。1936年、実際に掘り進めた結果、人工的なアーチがある洞窟に到達、鏡岩を発見した。また1950年には洞窟から100体のミイラも発見されたが、国際問題になることを危惧した当局によって発掘は中止され、入口も埋め戻されてしまったという。
まぁ、結局、ここを掘り返したのは1945年に1ヶ月も山頂を封鎖したアメリカ軍である。そこには女性のミイラがあったとされる。それも入れ墨をした女性のミイラである。そして、「契約の聖櫃アーク」はそもそもここにはない。ここが「剣山」と名づけられたのは、四国で大和朝廷に反逆した一族を「契約の聖櫃アーク」と「草薙剣」を使った呪文で制圧したからであり、そのことを忘れるなという意味で「剣山」という名称に変えさせられたのである。もちろん四国の主は忌部氏であった。
剣山の山頂発掘に関する記事
しかし、忌部氏である織田信長も「契約の聖櫃アーク」と無関係ではない。戦国時代、蓋と箱が本物である「真アーク」は伊勢内宮の地下殿に祀られる一方、蓋と箱が形代である「権アーク」は室町幕府、すなわち足利氏の手にあったという。たとえ形代であったとしても、「権アーク」には本物の「三種の神器」が納められていたのである。つまり、神武天皇と長髄彦による箱合わせが行われるまえまでは、本物のアークだったのである。つまり、「権アーク」があったからこそ、足利尊氏は室町幕府を開くことができたということなのである!
そして、足利氏の本願は下野(しもつけ)である。「下野国一社八幡宮」は、誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、姫大神の三柱を祭神として祀っているが、ここの社伝によると、天喜4年(1056年)、八幡太郎の名で有名な「源義家」が、陸奥の豪族、安倍頼時父子を討伐(「前九年の役」)するため、付近の大将陣に宿営、戦勝を祈願するためここに小祠を創建、山城の国(京都)の男山八幡宮を勧請したという。八幡太郎源義家・義国父子の手厚い信仰により源姓足利氏代々の氏神として保護されてきたとされ、ここは古くは「足利荘八幡宮」と呼ばれ、下野国内第一の八幡宮として、下野国一社八幡宮、一国一社八幡宮とも称したという。
足利氏は室町幕府を開いた一族だが、元は下野出身の武将だったのである。下野国 (しもつけのくに)とは現在の栃木県である。江戸時代、日光の輪王寺に晩年の天海がやってきて、貫主になったのは偶然ではないのだ。室町幕府が管理していた「権アーク」を祀っていたのは、何を隠そう天海だったのである!!
日光東照宮は天海が作らせたものである。もし、天海が「権アーク」を封印したのなら、それは日光東照宮以外には考えられない。天海は八咫烏の一羽であり、組織を抜け出して、政治に関与するようになった仏教系八咫烏だったのだ。しかも、天海には、もうひとつの顔があった。天海は非常に長寿だったがゆえ、その出生に関しては様々な疑惑がある。会津の蘆名氏であるとされたり、11代将軍・足利義澄のご落胤だという説もある。だが、天海の前半生は違う名を名乗っていた。それは明智光秀である!
<つづく>