「大和と日本」の謎:その47

 

 熱田神宮に祀られている三種の神器の一つ「草薙剣」の正体とは、大預言者モーセの兄であった「アロン」が持っていたアロンの杖」である。「アロンの杖」は『旧約聖書』の「出エジプト記」に登場するモーセが絶対神ヤハウェから授かり、兄アロンが使っていたとされる不思議な杖のこと。簡単にいえば「魔法の杖」のことである。
 

 「出エジプト記」では、「アロンの杖」はエジプトで「9つの災い」を起した。イスラエル人たちを解放させるためにエジプトに起きた「十の災い」のうちの9つを起こした杖で、王ファラオの前では蛇に姿を変え、触れた水を血に変え魚を死に至らしめ、蛙の大群を出現させ、ブヨやアブを大量発生させ、疫病を流行らせ、雹を降らせ、イナゴの大群を発生させた。これらはモーセたちイスラエル人と対立したエジプトの王に対する絶対神ヤハウェが起こした災いとして成された奇跡である。つまり、絶対神ヤハウェが宿って奇跡を起こす杖ということができる。

 

 また、エジプト脱出の時には、モーセが杖を掲げると紅海が割れて道を開き、追ってきたエジプトの軍隊を海に飲み込んだとされ、水のない砂漠で岩を叩くと水が溢れ出てきたという様々な奇跡を起こした魔法の杖である。

 

 

 伊勢神宮では「式年遷宮」の「遷御の儀」(せんぎょ)に先立ち、神職が「カケコー、カケコー、カケコー」と3度、鶏の鳴きまねをする。これは天の岩戸に籠もった天照大神を太陽に見立て、夜明けを告げる「常世長鳴鳥」(とこよのながなきどり)が3度鳴いたという伝承にもとづいている。このことから伊勢神宮では「鶏」(ニワトリ)が、境内に「神鶏」(しんけい)として放し飼いにされている。この「常世長鳴鳥」の話は「古事記」に登場する神話で、天照大神が天の岩戸に隠れになり,世界がことごとく「闇」になったとき,八百万(やおよろず)の神々が「常世長鳴鳥」鳴かせ,「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)に舞を舞わせて,天照大神を岩戸の中から呼び出す話として伝えていおり、「鶏」とはまさに「太陽」を呼び出すものの「象徴」として立ち現れている。

 

 「古事記」は天皇家の歴史書として描かれているもので、そこに出てくる話はあくまでも「神話」ではあるが、2つの意味が込められている。1つ目は実際に過去に起きた出来事で、もうひとつは「預言」である。1つ目の「鶏が登場して3度鳴く」という話とはいったい何かといえば、それは「新約聖書」にある「ペトロの鶏」の逸話である。

 

 ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 (マタイによる福音書26章)

 

 伊勢神宮で飼っている「鶏」とは、この聖書の故事に由来しているのだ。天照大神の宮である「伊勢内宮」は「イエス・キリストの宮」だからである。よって、「草薙剣=アロンの杖」は近いうちに伊勢へと移され「心御柱」(しんのみはしら)となるが、その場所は伊勢本宮となる「伊雑宮」(いざわのみや)である。なぜならここは物部系の社であり、物部系の要の社の一つだからだ。その時、内宮、外宮とともに「三柱」の「心御柱」が並び立つ本来の姿に蘇ることになる。この時を告げる象徴として伝えられるのが、「カケコー、カケコー、カケコー」と3度「鶏」が鳴く真似をすることなのである。

 

◆忌部氏の祖神と金鵄

 

 徳島県の吉野川市には「鴨島町牛島」なる地域がある。「鴨氏(賀茂氏)」が支配した「牛の島」という凄い名前の場所である。ここには「牛島八幡神社(麻宮)」があり、「麻の宮」の名の通り、忌部氏の神社である。祭神は天日鷲命・応神天皇・息長足姫命・姫大神で、地名の「牛島」の由来は『麻植郡回在記』に「往古、阿波忌部の麻を作り布を織る職人が住む川中島であったところから、苧師島(おしのしま)と呼ばれ、その後裔が居住したところから、大人島(うしのしま)と呼ぶようになった」とある。本来は、苧(麻)宮=「おみや」であったが、それが転訛して「大宮」と称するようになった忌部族ゆかりの「麻宮」だとしている。

 

「牛島八幡神社」(麻宮)

 

 江戸期~明治22年(1889年)までは牛之島村、明治22年(1889年)~昭和29年(1954年)まで牛之島・上浦・麻植塚の3ヶ村が合併して牛島村となった。鎌倉時代に「牛島」は一時期「東麻植」と呼ばれたと伝わる。『忌部神社正蹟考』には、「牛島は、苧師(おし)ノ島であり、神代に麻をはじめ、種々の物を作り初めた神をはじめ、其の子孫の人が住んでいる村なので、大人の島と美称し起こった名である。」とある。このように「牛島」は、阿波忌部の麻の技術集団が居住していたことにちなむ古地名であった。周辺には、「牛島八幡神社」、別称「麻宮(おみや)」、小原(麻原)、麻塚(おづか)神社、市瀬(いちぜ)など阿波忌部ゆかりの神社や地名が点在する。

 

 「大人」とは、一人の人で現人神を表している。だが、「おみや」が「苧宮=麻宮」だとは全く知らなかった。さらにそれが「大宮」となったというのならば、大宮という地名は全てイエス・キリストを表していることとなる。もちろんこの名を付けたのは賀茂氏だろうが、さすが神道奥義を握る忌部氏の中の忌部氏である。だが、問題はそれだけで終わらない。なぜなら阿波忌部氏の祖神である「天日鷲命」には別名があるからだ。


 「天日鷲命」の別名とは、初代・神武天皇の東征を助けた「金鵄」なのである。八咫烏の首領であり、裏天皇を構成する3人の「金烏」(きんう)でもあり、地上に降臨した天照大御神=イエス・キリストの象徴でもあるからだ。天日鷲命の子は大麻比古命、天白羽鳥命(長白羽命)、天羽雷雄命(武羽槌命)となる。忌部の祖神・太玉命と同神という。『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)である。

 

金の鳥に乗る天日鷲命

 

 ということは、だ。金鵄は八咫烏の首領だから、人間としては下鴨神社に祀られる「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)で、別名には「鴨建角身命」、そして「八咫烏鴨武角身命」(やたからすかもたけつのみのみこと)という正体をそのまま示す神名すらある。これは、賀茂県主氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは「生玉兄日子命」(いくたまえひこのみこと)のこととされるともある。これぞ神話の世界で、名前や姿をすぐ変える。よって神話と史実を混同しがちだ。

 

 つまり、「天日鷲命=太玉命=天太玉命=賀茂建角身命=鴨建角身命=八咫烏鴨武角身命=八咫烏=金鵄」で、みな同族の忌部氏=賀茂氏=鴨氏ということなのである。太玉命の御魂は、阿波忌部の進出により日本各地に運ばれ祀られたという。良質の麻を殖産するが故に、天日鷲命は日本の弓矢の創始神として崇められた。また、麻・榖を扱ったが故に天日鷲命は製紙の祖神として祀られた。忌部は麻だけでなく絹織物にもたけていた。結城市小森には養蚕と絹織を伝播させた伝承が残されている。麻と絹との混交織物が倭文(しずり)織であり、それは天羽雷雄命として記録されている。

 

 忌部氏がなぜ、東国などへ積極的に進出したのかについて、阿波忌部では、以下のように説明している。

 ①フロンティア精神
  日本各地に進出し産業を伝播させた。特に黒潮で房総半島に渡り麻や榖を植え開拓したが故に
安房国、上総国、下総国の名が付けられた。「総」は麻の古語
 ②産業興しの精神
  日本各地に進出し産業生活技術を伝播させた。良質の麻・榖の技術は衣・食・住・漁協・建築技術を革新したが故に、日本の産業創始の神として崇められた。
 ③共存共栄の精神
  千葉県館山市「安房神社」の忌部塚には、房総半島に渡来すると開拓に力を尽くし、農漁業・建築技術をもたらし、先住民族とともに力を合わせて房総の地を切り開かれたとする。
 ④平和の精神
  千葉県館山市「安房神社」の忌部塚には、先住民族とともに力を合わせて房総の地を切り開かれたとする。7月10日には今でも報恩崇祖の捧げる忌部塚祭りが執り行われている。
 ⑤相互扶助・共助の精神
  
茨城県結城市小森の「大桑神社」には、阿波忌部なる者がこの地を通り、大桑の木が茂り、その部落の人の欲するまま蚕を与え、養蚕の仕方を教えたとある。

 

 阿波忌部の一部は天富命(あめのとみのみこと)に率いられ東国(関東)に入植し麻・榖を植えた。榖が実った地は結城郡(茨城県結城市)、麻が良く実った地は総国(上総・下総)、安房忌部の居る所は安房郡(安房国:現在の千葉県)となり、太玉命を祀る安房社を建てたとある。つまり、忌部氏は現在の千葉県から茨城県にやってきたのである。そして、彼らは群馬県や栃木県など関東全域に広がっていったのである。

 

 そこには必ず賀茂氏の陰陽師もいたはずである。もちろん物部氏系の呪術師たちである。単に麻や榖を植えにきたわけではない。阿波忌部の祖に海部氏が同行していたことを考えれば、賀茂氏・鴨族の人間もまた来ていたと考えられるからだ。なぜなら南房総市には「賀茂神社」があり、 鴨川があるからだ。だが、それだけでは終わらない。

 

 前述したように、水戸市には「加茂神社」、「別雷皇太神」(ベツライコウタイジン)、常陸太田市には「別雷神社」(ワケイカヅチジンジャ)、同名の「別雷神社」(ワケライジンジャ)、「雷神社」(ライジンジャ)、鹿嶋市には「加茂神社」、取手市にも「加茂神社」があり、さらに桜川市の加茂部には「鴨大神御子神主玉神社」(かもおおかみみこかみぬしたまじんじゃ)なる式内社まであるのだ。地名にも社名にも「かも」が入り、これら全ての神社の総本社は京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)なのである。そして、つくば市内には、関東三雷神のひとつ「金村別雷神社」(かなむら わけいかづちじんじゃ)が鎮座しているのである。

 

 さらにこれまで全く知らなかったのだが、つくば市には「八坂神社」があり、なんとそこでは「祇園祭」をやっていたのだ!

 

上郷の八坂神社本殿

 

 「祇園祭」は京都以外でも行われている。博多祇園山笠(福岡県)、会津田島祇園祭(福島県)、鎌倉大町祇園祭(神奈川県)、深見祇園祭(長野県)、山口祗園祭(山口県)、戸畑祇園大山笠(福岡県)。これ以外にも富山県内の氷見(ひみ)にも祇園祭があるし、同じ北陸では石川県と福井県にもある。それこそ全国を見れば、かなりの数の祇園祭が存在するわけだが、まさかつくば市に「八坂神社」があって、「祇園祭」をやっていたとは。

 

 もちろん京都の祇園祭には比することはできない小規模なものだが、問題は規模の大小ではなく、祇園祭が行われてきたという事実と、八坂神社のある地名なのだ。なんと「上郷」(かみごう)なのである。之はないものの、伊雑宮が鎮座する磯部町上之郷と同じ場所で、「蘇民将来」の預言に従った祇園祭をやっているのである。もちろん祭神は「素盞嗚尊」である。しかし、ここの創建は不詳である。ここが「上郷」を称したのは文禄年中(1593年 - 1596年)の検地により筑波郡台豊田上郷村になったとある。

 

 ここからは筆者の想像でしかないが、この上郷とはもともとは「神郷」だったのではないだろうか。なにせここに関わる一族は「神人部氏」である。古来、地名にはそこに住んでいた一族の名が使われることが多い。ならば神人部が住んだ神郷(かみのさと)であってもおかしくはない。なにせ伊勢本宮となる伊雑宮は物部氏の社だからだ。そして、祇園祭が行う「蘇民将来」の疫病封じの神事とは、京都の八坂神社や伊雑宮のある伊勢・志摩地方では年中行事で、厄除け祈願として、茅の輪くぐりや「蘇民将来」と記された護符の頒布、注連飾りなどの祭祀が盛んに行われている。筆者の家の近くでも、伊勢・志摩地方出身の方の家の玄関口には一年中「蘇民将来」と記された護符をつけた注連縄が張られている。単なるお祭りではないのである。

 

  

 八坂神社も物部氏の社である。なぜなら「蘇民将来」の「牛頭天王」(ごずてんのう)とは「素盞嗚尊」だからで、古神道ということである。豊田上郷村と伊雑宮が鎮座する磯部町上之郷が同元だとするならば、「豊田」の姓は秦氏ではなく物部一族のものとなるはずである。だが、そのルーツにこれだけ秦氏系を入れている理由は、ズバリ、原始キリスト教に改宗した物部氏ということにほかならない。

 

 それを示すためには、京都の八坂神社と祇園祭の解き明かしが必須となる。なぜなら、祇園祭と伊雑宮の神事は表裏一体の関係だからだ。これを理解している人は少ない。そもそも「蘇民将来」の祭りとは、豊かな村人達「古丹」(こたん)の処に降りた貧しい身形(みなり)の「牛頭天皇」(ごずてんのう)を、村人達が総出で追い出したが、貧しい家の「蘇民」だけは「牛頭天皇」を手厚くもてなした伝説からきている。
 

 翌朝、「牛頭天皇」は自らを「須佐之男命」(スサノオノミコト)と明かし、「やがて村を襲う凄まじき疫病でも、お前たちだけは命を長らえる」と「茅ノ輪」を与えて去り、その預言通り、やがて猛烈な疫病が村を襲った際、「古丹」は老若男女全てが疫病で悶絶死したのだが、「蘇民」の村の者だけは全員無事で難を逃れる暗示的預言である。この預言は、大和民族の先祖が記した『聖書』に由来すると思われ、そもそもヘブライ語で「ヤ・ゥマト」は「ヤハウェの民=神の民」の意味で、日本人の「神道」や風俗習慣は『旧約聖書』、『新約聖書』に多くを由来しているのだが、ほとんどの日本人は意とも簡単にスルーしている。

 

 「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。 ……(中略)……真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」(『旧約聖書』「出エジプト記」第12章21~30節)


エジプト中の初子を撃った殺戮の天使

 

 大預言者モーセは、頭から二本の光の角を放射した為、「牛」に例えられ、「牛頭天皇」の名とも一致する。雷神とされる「須佐之男命」の荒々しさもモーセと一致する。ミケランジェロの「モーセ像」にある「牛の角」は、紀元前2世紀に『旧約聖書』がギリシア語に翻訳された際、ヘブライ語の「カーラン」を「光り輝いた」と訳したのだが、「カーラン」には「光を放つ」と「角のある」意味がある為、モーセの律法による生贄の「燔祭」(はんさい)に欠かせない「牛」をモーセの象徴とした。

 一般的には知られていない話しだが、関東では「蘇民将来」を「山」に見立て、
傲慢不遜な古丹の山を「富士山」とし、謙虚な蘇民の山を「筑波山」とするため、「富士山」はやがて巨大中噴火で跡形もなく崩壊することになるが、「筑波山」は火山ではないので残るという預言になっている。もちろん、茨城は「茨の木=荊の木」でイエス・キリストの十字架の磔刑を示す地名になっており、もともとは太陽神ヤハウェが立つ意味の「日立」を「常陸」としたが、それを原始キリスト教に改宗させた意味を込めて「茨城(荊の木)」に変えさせたのである。


 「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」(『旧約聖書』「出エジプト記」第34章29節)

 

モーセ像にある「牛の角」=「カーラン」

 

 実は「蘇民将来」は茨城県とも関係がある。それは「平将門」(たいらのまさかど)である。茨城を語る上で、平将門の話しを避けて通るわけにはいかない。

 

<つづく>