「大和と日本」の謎:その45

 

 日本はそれぞれ独神の「造化三神」「原初三神」の絶対三神を正史に記し、国の根幹に据えている。そんな国は世界広しといえど日本だけである。これはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の世界から見ると邪教とされる。だが、この三神の絶対真理はオリオン座の三つ星のほか、冬の大三角形を形作るオリオン座の「ペテルギウス」とおおいぬ座の「シリウス」とこいぬ座の「プロキオン」によって象徴されている。

 

「鼓星」と時を告げる「鼓」

 

 そして、日本ではオリオン座のことを古来より「鼓星」(つづみぼし)と呼んできた。西洋ではギリシャ神話にでてくる狩人「オリオン」として知られているが、中国では白虎、インドでは鹿、とも見られている。日本においては、外側の4つの明るい星が中ほどの3つ星を取り囲んでいる様子から「鼓星」と呼んだ。星のそれぞれは、左上の赤く光る星ベテルギウスを「平家星」、右下の青白く輝くリゲルを「源氏星」と呼び、平家の「赤旗」と、源氏の「白旗」に見立てとされている。豊田氏の祖とされる政幹は「荒人神=現人神」「号赤白将軍」と注記されていた。豊田氏を追っていたら、源平と紅白が登場してきた。それも忌部氏の伝承からだ。

 

オリオン座=「鼓星」と和楽器の「鼓」

 

 ここまではいいのだが、そもそもなんで「鼓星」と呼ぶのか、である。これは前出の画像を見ても分かるように、星を結んだ形が「雅楽」(ががく)に用いられる「鼓」(つづみ)に見立てられることで「鼓星」という呼び方をされていきたという。鼓は、日本特有の和楽器である。漢字文化圏特有の伝統的な楽器のひとつで、もっとも狭義には小鼓を指す。砂時計型、または木製、ドラム缶型の胴の両面に革を張ってこれを緒で強く張る。緒は、能楽の世界では「調緒」(しらべお)または「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節しながら、一方もしくは両方の革を手または桴で打って演奏する。その形態によって小鼓、大鼓、太鼓、羯鼓などがある。

 

 鼓の握りを調整する場所は、ちょうど3つにならんだ星のあたりである。ここは、ギリシャ神話に由来するオリオンの胴回りにあたり、そのまわりを囲む4つの星は、オリオンの手足の一部。上部にある赤い星がペテルギウスで、その対極にある青白い星をリゲルといい、それぞれの色から見立て、源氏星と平家星とも呼ばれている。だとすると、3つの星を「源平の合戦」で考えれば、富士川というところだろうか。だが、この星があるのは天界なのである。

 

 神道では「鼓」は「夜星にて時を知らす意味なり」という。この言葉には深い意味がある。日本のことわざには「鼓を鳴らして攻む」(つづみをならしてせむ)というものがあるが、これは「大きな声で相手の非や罪を言い立てて攻撃すること。太鼓を打ち鳴らしながら敵陣に攻め込む」との意から言われるものだ。敵陣に攻め込む「時」を告げるものが鼓である。一方、能を見る方はお分かりになるだろうが、芝居のテンポを自在に変えることをできるのも鼓である。

 


『能舞之図(下)』より「能 天鼓」

 能の演目に
「天鼓」(てんこ)というものがある。あらすじは以下のようなものである。

 中国・後漢の時代、王伯・王母という夫婦に授かった子ども「天鼓」は、不思議な生い立ちでした。この子は、王母が、天から鼓が降って胎内に宿るという夢を見て授かりました。するとその後、本当に、妙なる音色をたてる鼓が天から降ってきました。天鼓は、この鼓とともに育ちます。その鼓の発する音は、大変に素晴らしく、人々を感動させ、悦びを導くものでした。そのうわさが皇帝の耳に入り、鼓を召しだすようにとの勅令がくだされます。ところが、天鼓はこれに応じずに鼓を持って隠れてしまいます。しかし、あえなく捕らえられ、呂水に沈められてしまいました。

 

 鼓は、宮殿に運ばれてさまざまの楽師が試みに打ちますが、主の天鼓を失ったためか、全く音を発しません。誰が打っても鳴らないため、皇帝は、天鼓の父・王伯に鼓を打たせよと、勅使を送って召しだします。王伯は、鼓が鳴らなければ自分も殺されるのを覚悟で宮殿に上がり、わが子への思いを胸に鼓を打ちます。すると、この世のものとは思われない音色が鳴り響きました。感動した皇帝は、王伯に褒美を与えて帰し、天鼓の冥福を祈るため、呂水のほとりで管弦講をおこなうことにしました。講の当日、皇帝が呂水に御幸すると、天鼓の霊が現れ、懐かしい鼓を打ち、管弦に合わせて、ひとしきり喜びの舞を舞います。楽しげに舞う天鼓は、ほのぼのと夜が明け、空も白む頃に現か夢ともつかないようにして、消えていくのでした。

 

 これは「聖母受胎」とマリアの体に入ったヤハウェの話しで、天鼓「鼓を持って隠れてしまい」「呂水に沈められてた」とあり、それで亡くなったと伝えている演目である。イエス・キリストの磔刑死の話しである。だが、「呂水」とは何を示しているのだろうか。演目の写真には、「鼓」が置かれているのは「榊」の上である。つまり、「榊=十字架」とすれば、「鼓=イエス・キリスト」となる。だが、「聖書」にはイエスの磔刑死の場面に「呂水」に当たる話しは登場しないはずだ。いったい何を示すのだろうか。

 

 演目の解説を調べて見ると、以下のように書かれたものを見つけた。

 

 「わが子である天鼓を失った王伯の、悲運の別れに対する情愛と嘆きを中心に描き、後半では一転して、天鼓という神秘的な存在の芸術に遊ぶ、自由闊達な精神を中心に描いています。前後で老人から子どもへ、シテが大きく入れ替わり、対比の妙があるところに、もう一つの天鼓である不思議な鼓をからませ、非常に魅惑的な芸術性の高い物語に仕上がっています。「天鼓」とは、七夕の牽牛の別称でもあり、出生の不思議さを思えば、天鼓は、天上人の化身なのかも知れません。呂水に現れた亡霊は、怨恨や恩愛といった、この世の情念からかけ離れた精霊のように描かれています」

 

 「この奇跡に帝も親子の情愛深さを感じ王伯には宝を与え、天鼓のために呂水の堤で追善の管絃講(音楽法要)を行います。すると水中から天鼓の霊が現れ、今は恨みも忘れ遺愛の鼓を打ち鳴らし、喜びの舞いを舞い遊びやがて夜明けと共に消え失せて行きます」(「宝生の能」平成12年11月号より)

 

 皇帝一行が呂水のほとりで音楽法要を手向けていると、天鼓の幽霊(後シテ)が現れた。天鼓は鼓を軽やかに打ち鳴らすと、自分に手向けられた音楽の興に乗じ、満天の星空の下で舞い戯れるのだった。(銕仙会 能楽事典)

 

 天鼓の幽霊とは「神霊ヤハウェ」である。イエス・キリストの幽霊ということだ。だが、満天の星空の下で舞い戯れるというのは何を示しているのか。さらに「夜明けと共に消え失せて行った」とは、明けの明星=金星のことだ。太陽が現れると明けの明星は消えるからだ。だが、「天鼓とは、七夕の牽牛の別称」でもあるという。明けの明星=金星=イエス・キリスト=天照大神だとすれば、天鼓とは、七夕の織姫となるはずだ。なぜ牽牛の別称となるのだろうか。

 

織姫と牽牛

 

 一つずつ考えてみよう。イエス・キリスト絶命の場面で「呂水」に相当するものがあるとすれば、絶命する際の「酸っぱいぶどう酒」、つまり「酢」のことである。

 

 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(「ヨハネによる福音書」第19章28−30節)

 

 拡大解釈をすれば、イエスが「成し遂げられた」と言ったことは、「今は恨みも忘れ遺愛の鼓を打ち鳴らし、喜びの舞いを舞い遊びやがて夜明けと共に消え失せた」という解説と符号はする。だが、どうも無理筋な感じは否めない。スッキリしないのである。そこで、「呂」という字を調べてみると、意味は「中国および日本の古代音楽で、一オクターブ十二音のうち、陰性を持つと考えられた六音」「雅楽でいう音階の一つ。洋楽音階名のソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソに、ほぼ当たる」とある。なんの話しを伝えているのか。「十二音のうち陰性を持つと考えられた六音」とは何か。

 

 「呂」という字は、音読み:「ロ」、常用漢字表外:「リョ」、訓読み:なし、とある。意味は①「せぼね(背骨)」、②「長い」、③「音楽の調子(リズム)で、ほぼ今の1オクターブを十二分したものを十二律といい、その中の陰音律(暗い感じのする音楽のリズム)を言う」、④「当て字(その字の意味に関係なく当てる漢字)」(例:風呂)となっている。この①と②の意味で、水を当てると、「呂水」は「背骨の水」「長い水」「陰性を持つと考えられた六音の水」となる。なんのことだかさっぱり分からない。

 

 「呂」は象形文字とある。「人の背骨が連なる」象形から「背骨」「長い」を意味する「呂」という漢字が成り立ったと書かれている。さらに「名前(音読み・訓読み以外の読み)」は「おと」「とも」「なが」「ふえ」だとある。もはやギブアップとなりそうだ。しかし、もし、これが預言を伝えるものと考えたらどうなるのだろうか。

 

 さらに神道で「鼓」は「夜の星で時を知らせる」というのであれば、それは世界が暗黒に包まれる「終わりの時」を告げることを意味しているのではないのだろうか。それが天空にあって、鼓を打つように時を刻むのだとするならば、「鼓」の形は中央がくびれたオリオンの姿を模しており、その中で唯一「時を刻む星」となれば、オリオン座の超新星爆発寸前とされる超巨大恒星ベテルギウスとなる!

 

 ベテルギウスは2019年末から2020年2月下旬あたりまで急激な減光を続け、一時は2等星に相当する明るさになるなど過去に類を見ないほどにまで暗くなり、大きな話題を呼んだ。ベテルギウスが減光しただけでなぜここまで騒がれるのかというと、ベテルギウスは超新星爆発という宇宙の中でも最大級のエネルギーを放つ現象を起こし、世紀の天体ショーを見せてくれるかもしれないと期待されている天体だからだ。

 


減光を続けるベテルギウス


 ベテルギウスのように質量が太陽の8倍以上重い大質量星は一生の最期に超新星爆発を起こし、ベテルギウスはそんな大質量星の中でも寿命が迫った赤色超巨星に分類される恒星なため、その動向に注目が集まっている。仮にベテルギウスが超新星爆発を起こした場合、ベテルギウスの明るさはなんと満月と同程度にまでなると考えられているのだ。そのベテルギウスを日本では「平家星」と呼び、オリオンを挟む対角で向き合うリゲルを「源氏星」と呼んでいるのだ。裏神道では「名」の由来はこれから先に起きることの預言の意味であり、預言無き解釈など大和民族には不要であるとする。となると、敢えて「平家星」と「源氏星」と呼ぶ理由は何を意味するのか。

 

 源平最後の合戦は「壇ノ浦の戦い」で、平家は天皇家の「三種の神器」を外に運び出し、瀬戸内海での海戦中にを海中に落としてしまう。「水に沈んだ」のである。しかし、草薙剣は浮いたまま浜に流れ着き、「熱田神宮」に鎮座したと伝えられている。つまり、「鼓星」の名が預言だとするなら、滅亡した平家の運命を持つベテルギウスが消滅し、その時、熱田神宮にある草薙剣が外に運び出されることとなる。なぜ、そう言えるのかといえば、それは「鼓」という字に「三種の神器」の意味が込められているからだ!

 

 

 「鼓」は「十」「豆」「支」に分解できる。「十」は縦木の陽と横木の陰の陰陽一対。つまり「八咫鏡」(やたのかがみ)となり、その正体は2枚からなる「十戒石板」を示している。そして「豆」は曲がった形の「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)で、豆を入れる壺の形の象形文字から、その正体は「マナの壷」となる。「支」は「枝を握る手」で、「草薙剣」となり、支の意味は「棒を持つ手」で岩を打ち、水を湧かせた「アロンの杖」ということになるからだ。

 

 伊勢神宮の内宮の地下殿にはご神体として「十戒石板」が祀られ、外宮には「籠神社」から神隠しにあったとされる「眞名之壺」=「マナの壺」がある。そして、「草薙剣」は熱田神宮の某所に厳重に保管されている。だが、「壇ノ浦の戦い」の時のように、草薙剣だけは移動するのである。だが、草薙剣はいったいどこに移動するのか。そのヒントが「鼓=オリオン」だと言っているのである。なにせギリシャ神話において、オリオンは力を誇示したことで神の怒りに触れ、サソリに刺されて死んでいる。源氏と平氏の終焉も、悲しいものとなった。だが、古い世が終わらなければ新しい世も来ないのである。

 

 その鍵を握るのが物部系の神社の熱田神宮なのである。熱田神宮のある地は「尾張」で尾張氏とは海部氏の一族である。その尾張の地には「豊田」という土地があったのである。伊勢神宮では「神鶏」が境内に歩いているが、名古屋の熱田神宮にも「神鶏」がいる。熱田神宮の創祀は、「草薙剣」がこの地に鎮座したこと始まる。祭神は「熱田大神」となっているが、それは、「草薙剣」を「御霊代」(みたましろ)とする「天照大神」のことである。

 

熱田神宮の「神鶏」

 

 皇帝は鼓を召しだすようにとの勅令を下すが、天鼓はこれに応じずに鼓を持って隠れてしまう。しかし、あえなく捕らえられ、呂水に沈められた、とあるが、この「皇帝」を世界皇帝と考えれば、それは「三種の神器」と「契約の聖櫃アーク」を伊勢神宮から奪おうとする世界皇帝ロックフェラーと米軍の意味となる。だが、水の中に沈むとは、強奪された宝物は伊勢湾に沈むことになる預言となる!

 

 だが、その次の展開につながらない。なにせ鼓は、宮殿に運ばれてさまざまの楽師が試みに打ちますが、主の天鼓を失ったためか、全く音を発しません。誰が打っても鳴らないため、皇帝は、天鼓の父・王伯に鼓を打たせよと、勅使を送って召しだします、というストーリーが符合しないからだ。これはいったい何を伝えているのだろうか。

 

<つづく>