「大和と日本」の謎:その43

 

  「豊田氏」の姓のルーツを調べていたら、少々頭が混乱してきた。答えが見つかったと思うと遠ざかり、遠ざかったと思うと近づいたりする。 大和国山辺郡豊田村を起源とする氏族とする説、 清和源氏説、 桓武平氏説、藤原氏説、中世以来の豪族・滋野氏とする説、清和天皇の子孫の信濃氏とする説、これらをもう一度検証してみる必要がありそうだ。まず、極端な話しだが、源氏も平氏も元をたどれば天皇家で、秦氏系である。そして藤原氏は秦氏の中の秦氏である。「滋野氏」は、信濃国小県郡を中心に勢力を拡大した武家として知られる。出自はこれも清和源氏(貞保流)だ。信濃氏も清和天皇の子孫とされているが、これは源氏ではない。だいたい清和天皇の子孫と称していることが怪しい。

 

 「信濃」の読みは「しなの、しんのう、しんの、しの」である。もし「しんのう」の字が「神農」だったら外物部氏である。神農を唯一の神と奉じているのは、現在のテキ屋の人たちで、彼らは外物部氏の末裔だからだ。だが、「信濃氏」は諏訪明神直系の末裔(現人神)で諏訪神社上社大祝家の諏訪氏、また神氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団、または氏族団であった。その神氏とは大神神社の三輪氏一族で、三輪氏の祖・大友主命や鴨君の祖・大賀茂都美命と兄弟である田々彦命を祖としており、要は賀茂氏ということである。  大和国山辺郡豊田村とは、現在の「天理市豊田町」で、物部氏の総社「石上神宮」(いそのかみじんぐう)が鎮座している物部氏の土地である。そして、前回問題としたのは「石辺公」と「磯部」であった。

 

◆豊田氏と阿波忌部氏の言い伝え

 

 「石辺公」とは磯部氏のことで、磯部氏とは磯部を管掌した氏族だが、豊田氏が領地として治めた茨城県・つくば市を含めて、なんと3箇所も「磯部」という地名があったのだ。そして、磯部氏とは籠神社の神官・海部氏の一族でもあり、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊勢本宮である「伊雑宮」がある地だ。「いそべ」も「いそのかみ」も「いそ」である。そこから推測すると物部氏だが、賀茂氏である。そして賀茂氏とは忌部氏だ。

 

 忌部氏のち斎部氏は、古代よりヤマト王権における宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族である。「天岩戸神話」において岩戸の前に「真賢木(榊)」を立て、こそに「八咫鏡」を掛け、岩屋の中からお隠れになった天照大御神を呼び出すことに尽力した「天太玉命」(あめのふとだまのみこと)を祖とする「中央忌部」流れと、「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)を祖とする流れ「阿波忌部」「天道根命」(あめのみちねのみこと)を祖とする流れの「紀伊忌部」「讃岐忌部」の三種が有名で、いずれも神別(天神)に分類される。

 

つるぎ町の天岩戸神社で奉納される「岩戸神楽」

 

 氏族名の「忌」(いむ)は「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、慎みをもって神事で穢れを取り去り、身を清めることをいう。古代日本には各地に部民(べみん)としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。中央氏族としての忌部氏は、「天太玉命」を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて「中臣氏」とともに古くから朝廷の祭祀を司った。

 

 「延喜式」にある祝詞には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 以外の諸の祭には、 中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の中臣祭文とは別格であったことが窺える。遠回しの表現だが、つまり、中臣氏より祝詞の呪術は格は上であると言っているのだ。しかしながら、奈良時代頃から勢力を増長した中臣氏に地位を押されぎみとなり、固有の職掌にも就けない事態が増加する。平安時代前期には、氏を忌部から「斎部」と改めたのち、斎部広成により忌部氏と物部氏の正統性を主張する『古語拾遺』(こごしゅうい)が著された。しかし勢いを大きく盛り返すことはなく、祭祀氏族の座は中臣氏・大中臣氏に占有され、それは現在も続いている。
 

斎部広成

 

  部民としての忌部には、朝廷に属する公務員である「品部」(ともべ /しなべ=公的な職業集団)と、忌部氏の私有民である「部曲」(かきべ)の2種類が存在していた。事績が少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める「出雲」、木を納める「紀伊」、木綿・麻を納める「阿波」、盾を納める「讃岐」などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られ、こうした地方氏族は随所に跡を残している。これは忌部氏がわけあって移動したこと、そして大和朝廷に反逆した忌部氏たちが地方に移住したこと両方の意味が込められている。もちろん、阿波忌部は践祚大嘗祭に麁服(麻織物)を貢進する役目があり現在でも続いているが、上記以外にも鍛冶に携わった忌部氏は筑紫と伊勢忌部(福岡・三重)、その他にも越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、隠岐島(島根)、安房(千葉)などにも忌部氏が居たことが分かっているからだ。

 

 阿波忌部は、天日鷲命を祖神とし、麻や榖(楮)の殖産に長けていた。古代において阿波忌部が特異とした麻や榖は生活産業文化の基盤であり、神道祭祀の基本となるものであった。なにせ神官たちの着物は全て忌部氏がつくった麻織物だったからであり、それは戦後のGHQによる大麻の生産制限、つまり「危険な麻薬」として作らせないようにしたことで神道潰しを図ったことを意味している。かろうじて最近は伊勢地域も含め大麻の栽培が復活してきているが、一般的には薬用の大麻とヘンプの麻との区別もついていない状況である。

 

 祖神である「天日鷲命」の初出は『日本書紀』にある「天石屋戸神話(天岩戸)」で、木綿(ゆう)作りをしたと記録されている。同書の天孫降臨神話では、「作木綿者」とある。『古語拾遺』には、天日鷲命の孫が阿波に来て榖・麻を植え大嘗祭に木綿や麻布などを貢進し、郡の名を「麻殖」(おえ)と名付けたとある。この「麻殖」とは、阿波忌部氏の末裔の「忌部神社」の大宮司家・麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。なお、この一族の本宗家が「三木氏」となったとされている。

 

「忌部神社」
 

 徳島市二軒屋の「忌部神社」の由緒には、徳島県民の祖神を祭り、 阿波国総鎮守の神社として、古代より朝廷からの崇敬厚く、官幣大社にも列せられ、四国一宮とも称されたとある。簡単に書いているが、これは大変なことを言っている。阿波国総鎮守はまだしも、四国一宮というなら、ここが四国の最も重要な社だと言っているのである。「忌部神社」のある場所は吉野川市山川町の「忌部山」で、主祭神は「天日鷲命」のに「麻殖神」(おえがみ)を祀っており、その別名は「忌部神」(いんべがみ)とも称されたとしているのである。もう忌部だらけなのである。

 

 さらに今回改めて「忌部氏」を調べていたら、恐ろしい話しを見つけてしまった。それは戦前の徳島県の県民歌の歌詞と、佐那河内中学校の校歌に歌われる歌詞の中に、阿波国の創生にまつわる話しが記されていたのである!


 「陽は匂ふ国 阿波の国 忌部海部 名にふる代より うけつぎて われらにいたる 南国の光をあびて とどろくうずしおと沸く血 見よこの脈管にたぎれり 勢へ 徳島県民 今日ぞ」

 「忌部海部の手と手をつなぎ 南北文化の力をあつめた 血脈伝統この地に受けて 真理を探り 平和を築き 名誉あがる 佐那河内村中学校」

 

 なんと、忌部氏は海部氏とともに阿波に渡来したのだと言っているではないか。これは日本の古代史をひっくり返すような話しを伝えているのである。海部氏(あまべし)とはもちろん丹後一之宮「籠神社」の宮司一族のことだが、天皇家が大和朝廷を成立させる以前のこの国の天皇家は「海部氏」である。その海部氏は、本来は「天部」であり、彼らもまた「天孫族」であった一族であり、さらに海部氏は「鴨族」でもある。

 

 神道祭祀一族の筆頭とも言える彼らが、忌部氏とともに阿波へやってきていたというのならば、だ。古代の四国とは忌部=海部の国だったということである。ここにこそ、古代の「四国」が「死国」とされる理由があるのだ。「忌む」は天照大御神=イエス・キリストの死を忌むこと。そして大嘗祭の根幹に関わる阿波忌部の「麻殖神」の別名が「忌部神」で、その麻殖の末裔が「三木」を名乗った理由はここにあるのである。

 

三木家住宅

 

 標高552mの「三木山」の頂上部にある阿波忌部直系の三木家の人々が代々住んでいる「三木家住宅」は、現在の美馬市木屋平字貢(みましこやだいらみつぐ)にあるのだが、この「貢」(みつぐ)の旧名は「三ッ木」なのである。「秦氏」の「秦」が「三本の木」を示すように、三木家もまた「三本の木」だと言っており、それは「貢」で、天皇家へ麻織物を「貢ぐ」ことで貢献する一族なのだと主張しているのである。
 

  阿波忌部氏の宗家・三木家では「大嘗祭には、古来の伝統が生かされ、木屋平村の三木家から運ばれた麻が、当社の織殿で、巫女装束の織姫によって織られ貢進が行われた」としている。「織姫?」なんで忌部氏と「織姫」が関係するのか?「織姫」(おりひめ)の意味は、高天原でスサノウの狼藉によってホト(女陰)に機織り道具を入れて死んでしまった「機織女」(はたおりめ)を象徴しているはずである。さらに「織姫」は、「織女」(しょくじょ)とも書くが、中国道教の七夕の伝説『牛郎織女』に登場する仙女であり、日本では七夕の「織姫と牽牛」の話しでもある。

 

 さらに「織姫」を調べると、北方玄武七宿の第二宿・牛宿の中の星官・織女こと三女星(織女星、婺女星、須女星)の一柱である、とある。織姫は「天梭」という宝物を持ち、天上にあって雲錦を織る仕事をしているのだと書いてある。そして、7月7日、姉妹たちと共に人間界の河の辺に来た、牽牛郎が水浴をする七人の天女を見かけ、紫色の羽衣を取った。後に互い一目惚れして、男の子と女の子が生まれる、と。

 

 この説明にある「天梭」の読み方が分からない。「テンピ」なのかと思って調べたら、中国語で「ティソ」だとあるだけだ。なんのことなのか?だが今度は「梭」だけで調べると「ひ」とあり、「杼(ひ)とは、織物を織るときに、経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと・ぬきいと)を通すのに使われる道具である。梭(おさ)とも。」とかかれている!! つまり、これは「機織女」がホト(女陰)に入れて死んでしまった機織り道具のことが「杼(ひ)」なのである!

 

 三木家の伝承において、阿波忌部氏が大嘗祭用の「麁服」(あらたえ)を織るため、精進潔斎した処女の巫女が麻を織るというのは、高天原で亡くなったのは機織女ではなく、天照大御神なのだということを伝えているのである!否。機織女こそが天照大御神なのだ。なぜなら、「杼」(ひ)という字は、「木+矛(ほこ)」である。「矛」(ほこ)とは、「長い柄(つか)の先に両刃を取り付けた武器のこと」とあるからだ。お分かりだろうか。天照大御神=イエス・キリストは、十字架に架けられて亡くなったが、十字架に架けられたことで絶命したわけではない。イエス・キリストが絶命したのを確認できたのは、ローマ兵の「ロンギヌスの槍」がイエスの体を貫いたからである!

 

「ロンギヌスの槍」

 

 「ロンギヌスの槍」とは、一般に「聖槍」(せいそう)と呼ばれ、磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、わき腹を刺したとされる槍(やり)である。イエスの血に触れたものとして尊重されている聖遺物のひとつとされ、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に記述されている。

 

 「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(「ヨハネによる福音書」第19章33-34節)

 

 槍を刺したローマ兵の名をとって「ロンギヌスの槍」とも呼ばれる。英語圏では、俗称である「運命の槍」の名でもよく知られる。イエスの死を確認するために槍を刺したローマ兵は、伝統的に「ロンギヌス」(ラテン語)と呼ばれている。この名は新約聖書正典のなかには見られず、外典である「ピラト行伝」(4世紀)付属のニコデモ福音書に登場する。ロンギヌスは白内障を患っていたが、槍を刺した際に滴ったイエスの血がその目に落ちると視力を取り戻し、それを契機として彼は洗礼を受け、後に聖者(聖ロンギヌス)と言われるようになったという。

 

 

 正典とされる4つの福音書は、イエスの弟子マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの4人がそれぞれに著したものとされている。その内容はかなり共通しているが、「ヨハネによる福音書」だけには、他の3書にはない事件がいくつか記されている。この槍の話も、ヨハネの福音書のみに登場するものだ。しかし、13世紀になると、ロンギヌスについては様々な伝説が生まれていく。そして、その伝説は、やがて20世紀に世界を巻き込んでいく大変な事態を引き起こすこととなる。ナチス・ドイツである。だが、アドルフ・ヒトラーと「ロンギヌスの槍」の隠された意味を追うと、本連載とは大きく外れてしまうため、また別の機会に解き明かしてみようと思う。

 

 ただ一つ、ナチス・ドイツは「ロンギヌスの槍」は呪術道具として使った。使ったのはヒムラーが仕切った反キリストの巫女たちである。彼女たちは今も生きている。よって、再び「ロンギヌスの槍」は世に現れる時がくる。「終わりの時」である。

 

<つづく>