「大和と日本」の謎:その42

 

 謎の一族だけあって「豊田氏」は謎だらけである。豊田氏の祖とされる政幹は「石毛荒四郎」「荒人神トナル」「号赤白将軍」と注記されていた。紅白といえば「平氏と源氏」である。これは平氏と源氏の元の氏族だと言っているのか、さらに謎なのは「荒人神=アラヒトガミ」である。これはまだ解明できていない。豊田氏は「多気氏」(たけし)になったと伝えられており、多気氏は常陸平氏(ひたちへいし)・大掾氏(だいじょうし)の惣領家に当たる氏族。両方を合わせて多気大掾家とも呼ばれることもある。

 

 「多気」(たけ)の姓は長男の豊田致幹が継承するが、実際に多気の地に定着したのは致幹の時代であったと考えられ、彼が実質的な多気氏の祖であると見られている。致幹は『後三年合戦記』などで「多気権守宗基」という名で登場する。致幹の娘は河内源氏の源頼義と一夜を共にして娘を儲けたとされ、その後彼女は出羽清原氏の家督を継いだ成衡の妻になるが、その婚姻の席が切っ掛けで後三年の役が勃発したことは有名である。

◆豊田氏=多気氏は平将門の末裔?


 致幹の嫡子・直幹は房総平氏の千葉介常胤の娘と結婚して、多気義幹、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹を儲けている。この千葉氏というのは日本三大怨霊の一人である平将門(たいらのまさかど)の末裔である。そして平将門は桓武天皇の末裔であり、もちろん秦氏である。つまり、豊田氏=多気氏は平将門の末裔になったことを意味している。
 

平将門

  

 普通ならここで「終わり」となる。実は豊田氏は桓武天皇の末裔の秦氏だった、めでたしめでたし、となる。が、筆者はしつこい性格なのだ(笑)。そんな簡単には諦めないのである。己の直感を信じるならば、豊田の家系はもともとは原始ユダヤ教徒で古神道を奉ずる物部氏だったが、それが過去のどこかの時点で原始キリスト教に改宗したはずなのである。それは多分、今から1000年くらい前のことだったはずだと読んでいる。だから、そんな簡単に諦めては負けなのだ。

 

 治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、多気氏を始めとする常陸平氏(ひたちたいら)の諸氏は同族の越後平氏や姻戚関係のあった佐竹氏と共に敵対する構えを見せた。しかし、佐竹征伐以降は頼朝に帰順したという。鎌倉幕府成立後、建久4年(1193年)5月の富士の巻狩りの直後にあたる同建久4年(1193年)6月に義幹は八田知家の中傷により失脚(『吾妻鏡』)、常陸平氏の惣領家・大掾氏の座は同族の吉田氏の分家である馬場資幹が継承する(この一門を馬場大掾家と呼ぶ)。他方、下妻、東條(東条)、真壁の分家は佐竹氏の家臣として存続したとある。

 しかし、近年の研究では馬場資幹が世襲による常陸大掾氏の祖であり、それ以前の常陸平氏が大掾の地位を継承したとする事実はなく、さらに常陸平氏そのものが12世紀の段階でいったん解体されており(常陸平氏の再建は鎌倉幕府の成立頃でそれ以前に惣領は存在しなかった)、この時期の多気氏は常陸平氏系の武士では最有力な家ではあったものの、常陸平氏の惣領でも大掾の地位にあったわけでもないとされている。この考え方に従えば、常陸大掾に任じられたことがない致幹以降の多気氏を「多気大掾家」と呼ぶことは正しくはないということになる。どういうことなのか。ますます混乱してきた。

 

常総市(本豊田)に再建された豊田城

 

 一方、政幹は「常陸大掾系図」に「石毛荒四郎」とみえることから、開発領主として豊田郡内の鬼怒川と小貝川の間の氾濫原を開拓し、次第に在地支配を強めていったものと思われる。豊田氏は滅亡まで二〇代もしくは二二代ともいわれ世系は必ずしも詳らかではないが、以後本豊田の地に豊田城を築き、真壁の小田氏、下妻の多賀谷氏と鼎立する北下総の有力国人(こくじん)として戦国期を迎える。文明期前後に(一四六九~八六)豊田氏は石毛城と向石毛城を豊田城の前衛とし、その後も小田氏と結んで多賀谷氏と対立抗争をくり返したが、治親の代の天正三年(一五七五)もしくは同六年、多賀谷政経に滅ぼされたという。以後慶長六年(一六〇一)まで町域は下妻多賀谷氏の支配するところとなった。


 豊田氏は多くの足跡を町域とその近隣に残している。その本拠と伝えられる豊田城はかつての姿を知るよしもないが、小字名よりその規模を検討するに、城郭を中核として町割りをした形跡がはっきりとしている。中世末期の城と城下町の一典型の姿をここへしのぶことができる。規模は多賀谷氏の城下として下妻や、結城にさえ匹敵する。その遺跡が湮滅したのはまことに惜しいことである。豊田氏縁故の寺に大房の真宗大谷派東弘寺、本石毛の曹洞宗興正寺、本豊田の竜心寺等がある。

 

ことに竜心寺は同氏の祖・政幹が開基となって若宮戸に創建し、のち移されたものという。また、その氏神が上郷(現つくば市)の金村別雷神であった。町域にはその遺臣と称する旧家もあり、また北茨城市の磯原や埼玉県吉川町大字柿木には豊田姓の家が多い。柿木のその祖は豊田氏滅亡の折、下妻街道ぞいに落ちのびたものという。ここに接する埼玉県三郷市には江戸時代から金村別雷神の講集団があり、今につづいている。かすかに地域と家に伝えられた伝承が、今も人と人との交流を生んでいるのだという。怪しい。非常に怪しい。なにせ磯原、柿木で、賀茂神社を総本社とする金村別雷神を伝えていたのである。それもひっそりと。

 

 この「講」の集団というのは、地域社会をおもな母体として、信仰、経済、職業上の目的を達成するために結ばれた集団のことである。構成員のことを「講中」とか「講員」という。本来は仏典を講説するための僧尼の会合やその団体を意味していたもので、今や800万世帯を有するマンモス宗教団体である「創価学会」も、もともとは日蓮正宗の1つの講で(破門されているが)あり、それが第3代会長となった池田大作こと大田区の朝鮮部落の出身の「成太作」(ソン・テチャク)の時に巨大宗教団体となったものである。池田大作が芽を出したのは、第二代会長の戸田城聖(とだじょうせい)がやっていた悪徳金融会社「大倉商事」の営業部長の時で、高利貸しの取り立て屋として大活躍した朝鮮系のヤクザでもあった。

 

「大倉商事」の営業部長時代の池田大作

 

 常総市の「本豊田」は「もととよだ」である。なぜ「豊田」とせずに「本豊田」としたのかが気になる点だ。なにせ日本で最も古い社である丹後一之宮「籠神社」(このじんじゃ)は「元伊勢・本伊勢」と名乗っているからだ。「もともとここが伊勢神宮の発祥だ」と言っているのである。ならば、「もととよだ」もまた同じことを言っているのではないだろうか。

 

 常総市(じょうそうし)は、茨城県南西部の県西地域にある市であり旧下総国である。しかし、「総」は麻の古語だと阿波忌部氏は伝えている。そこから上総国、下総国の名が付けられたのだ。上賀茂神社と下鴨神社のような関係である。つまり、ここはもともとは忌部氏が仕切っていた土地なのである。寺の名前も「竜心寺」だった。たとえ寺だろうが、「竜=龍」の名をつけているのならば、それは龍神でありスサノウであり創造神ヤハウェを信仰する物部氏の土地だったはずだ。それを示すのが「氏神が上郷(現つくば市)の金村別雷神であった」というくだりだ。もちろん別雷神(わけいかづち)を奉ずるのは賀茂神社であり、そこは八咫烏の巣窟である。

 

 さらに気になるのが、豊田氏の末裔がひっそりと住んでいる磯原、柿木である。磯原には何があるのか。それは日本最大の偽書とされる「竹内文書」を世に出した「竹内巨麿」(たけのうちきよまろ)が建立した「皇祖皇太神宮」(こうそこうたいじんぐう)である。さらに「柿木」というのは、歌聖「柿本人麻呂」の暗号である。柿本人麻呂とは何者だったのか、竹内巨麿がなぜ偽書とされることを承知で「竹内文書」を送り出したのか。その裏には裏神道の呪術「迦波羅」(かばら)の呪術師集団である漢波羅秘密組織「八咫烏」が見え隠れするのだ。そんな簡単に謎解きができるはずもない。

 

「竹内巨麿」と「柿本人麻呂」

 

 「豊田」の姓のルーツを調べると、 

 ①現奈良県である大和国山辺郡豊田村が起源である、有名氏族

 ②ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)

 ③桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)
 ④中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)
 ⑤滋野氏(中世以来の豪族。
 ⑥信濃の族は清和天皇の子孫

 

 などとある。②は源氏で③は平氏。④となると藤原氏の宗家となる。もちろん藤原氏の始まりは中臣鎌足が死ぬ前日に天智天皇より「藤原」の姓を賜ったことに始まり、その子藤原不比等が「古事記」「日本書紀」という日本の正史を裏でプロデュースした人物である。その意味で藤原不比等が作り出した歴史こそが日本人が信じている「日本史」なのである。そして物部氏一族が最も憎んだ男こそが藤原不比等でもある。と考えると、同じなはずがない。
 

 問題は①と⑥である。⑥の「信濃の族は清和天皇の子孫」だとしているが、これは嘘である。「信濃」の読みは「しなの、しんのう、しんの、しの」である。信濃の地は信州、現長野県である。諏訪大社を仕切るのは物部氏系氏族である。「信濃氏」のことを調べると、「信濃の国名を負う。信濃直、信濃連、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家、諏訪神党などにもみられる」とある。まぁ同じであるが、気になるのが「諏訪神党」(すわしんとう)である。名前からして怪しい。

 

◆謎の諏訪神党

 

 「諏訪神党」のことを調べると、以下のようにある。「諏訪明神の直系の末裔(現人神)であり諏訪神社上社大祝家の諏訪氏(諏方氏)、また神氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団、または氏族団」。「神氏」とは誰のことなのか。読みは「みわ」である。さらに、なんと諏訪明神の直系の「現人神」(あらひとがみ)とある!豊田氏の祖とされる政幹は「石毛荒四郎」「荒人神トナル」と注記されていた。この「荒人神=アラヒトガミ=現人神ならば、ここでつながるのである。
 

諏訪大社上社

 

 神氏(みわし)は諏訪神社上社大祝家で、諏方(すわ)氏と同じだとある。神の直系の現人神として氏人を支配したとある。明治維新に大祝職はなくなったが、その家系は「諏方家」(すわ)「諏訪家」(すほう)として続いているという。神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称したという。また、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示すのだという。諏訪大社の分霊に伴い、一族は全国各地に拡がり、その後裔は東日本を中心に、長野県、西日本は長崎県の肥前神氏、福岡県などに主に現存するとされている。

 

 諏訪神社の上社といえば信濃国一の宮「諏訪大社上社」のことで、物部系神社の中でも要の一つの社である。さらに「みわ」といえば、「三輪氏」である。三輪、大三輪(おおみわ)、大神(おおが)は同族で、大和国磯城を発祥とし、大物主神を祖神とする氏族である。奈良県桜井市三輪に鎮座する日本最古の社の一つである「大神神社」(おおみわじんじゃ)を奉斎する大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡、現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)を本貫(ほんがん:出身地のこと)とする。ここでつながるのだ!

 

 豊田氏一族が住んだ古代大和の地「豊田」は物部氏の総社石上神宮」を祭祀する「布留郷」の村とあった。そこは現在の天理市である。豊田氏は石上神宮の祭祀に関わっていた一族、つまり物部氏ということになり、だからこそ諏訪の神官でもあったということなのである。


「大神神社」

 

 氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。三輪氏の姓は初め君だったが、天武天皇13年(684年)11月に三輪高市麻呂ら一族が大三輪姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族としては最高位にあったとされ、奈良時代には多くが三輪氏と名乗るようになる。そして同族に鴨君、神部直、神人部直、石辺公、長公、都佐公、長阿比古氏、億岐氏などがある。簡単にいえば全て物部氏一族だが、なんとそこに「鴨君」がいる。もちろん賀茂朝臣氏(かものあそん)で、賀茂氏のことである。

 

 「神人部氏」は「みわひとべ、かみひとべ、かむとべ」と読み、「神人部」を氏の名とする氏族である。「みわひとべ」は三輪氏の部曲(かきべ)で、「かみひとべ」は神社に奉仕した神社私有の部民と見る説がある。三輪君の祖・大友主命や鴨君の祖・大賀茂都美命と兄弟である田々彦命を祖としている。その子孫と思われる人物に信濃国の神人部子忍男がおり、彼の防人歌が『万葉集』二十巻に収録されている。近隣の水内郡には式内社の美和神社(みわじんじゃ)が存在し、屋代遺跡群から発掘された木簡にも神人部の氏姓が見える。

 

 問題は「石辺公」である。「石辺公」とは「磯部氏」(いそべし)のことで、磯部氏とは磯部を管掌した氏族なのだだが、なんと茨城県には3箇所も「磯部」という地名があるのだ。古河市、桜川市、そして、なんとつくば市にもある。さらに、磯部氏とは籠神社の神官・海部氏の一族でもあるのである。もはや物部氏以外には考えられない。そして、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社、それこそが伊勢本宮たる「伊雑宮」(いざわのみや)なのである!

 

 遂に伊勢と豊田がつながった。だが、ここで終わったと思ったら神道の奥義には触れることはできない。豊田の謎はまだつづくはずである。

 

<つづく>