「大和と日本」の謎:その41

 

 謎の一族「豊田氏」の系図は謎だらけである。彼ら一族が住んで古代大和の地「豊田」は物部氏の総社石上神宮」を祭祀する「布留郷」(ふるごう)の村とあり、豊田氏は石上神宮の祭祀に関わっていた一族、つまり物部氏ということになる。だが、その祖は桓武平氏の祖・高望王で、一時的ではあったものの東国の覇者「平将門とは親類筋、つまり「平氏」ということなのだが、「常陸大掾系図」には豊田氏の祖とされる政幹は「石毛荒四郎」「荒人神トナル」「号赤白将軍」と注記されていた。

 

 紅白といえば「平氏と源氏」である。これは平氏と源氏の元の氏族だと言っているのか、はたまた平氏と源氏が混じっているということなのか。さらに謎なのは「荒人神=アラヒトガミ」である。天皇陛下も「現人神」だと考えると、別の「石川系図」にあっ「将軍」という表現は、「将軍=現人神」ということなのだろうか。だが、現人神になった将軍というのは、徳川家康だけである。しかし、それも妙な話しだ。将軍とは誰のことで、何を表しているのだろうか。

 

◆東国に見え隠れする豊田氏の影

 

 豊田氏を物部氏と思える記述は、色々と残っている。茨城県常総市本豊田にある「豊田山龍心寺」という寺院に残る「竜心寺過去帳」には、安永七年(1710年)に当時の住持であった一四世の海印竜山が記した「当山縁由考訂」が掲載されているが、これに「蹐竜」(つぐみりゅう)の旗の伝承が記されている。豊田政幹(将基)が前九年の役に出陣した際、阿武隈川を渡ろうとした時に、旗に描かれていた蹐竜(蟠竜)が大竜となり橋となって将基の兵を渡したというのである。もちろん史実ではないが、「蹐竜(蟠竜)が大竜となった」というのは、龍神=雷神=スサノウ=創造神ヤハウェの加護があったという話しだから、物部氏である。

 

 この「蹐」(つぐみ)と読ませている字だが、音読みは「セキ・ シャク」、訓読みは「ぬきあし・ さしあし」である。また、「蟠龍(ばんりゅう)」とは、とぐろを巻いた龍のことで、地面にうずくまって、まだ天に昇る前の龍のこと。いずれにせよ、龍神を奉じているのならば物部氏のはずである。だが、一方で「竜心寺過去帳」に政幹(将基)は「副将軍」と記されており、系図には「将軍」となっており、現在でも毎年十月十日に「将軍祭り」が人びとにより行なわれているという。この「将軍」というのが、この地に一族を導いた将という意味なら、先祖を祀る祭りということだ。

 

 

 実は豊田氏は多賀郡の「磯原」(現北茨城市)を拠点としたという城跡がある。この豊田氏は、政幹(将基)の子の政綱が多賀郡に住したことにはじまったとされている。のちに、大塚(現北茨城市)に土着したと伝えられているが、詳しいことは不明である。この「磯原」とは日本最大の偽書と呼ばれる「竹内文書」を記した竹内巨麿が建立した「皇祖皇太神宮」がある場所である。つまり、現在の茨城県の中にはあちらこちらに豊田氏が領地を持っていたということなのである。だが、豊田氏の領地は茨城にとどまらない。

 茨城の豊田城が多賀谷氏の攻撃によって落城した際に、治親の妻子が草加柿木に逃れたという伝承がある。つまり、現在の埼玉県の草加市である。草加柿木の豊田家の系図によれば、この地の豊田氏の祖は、はじめ姓を「善積」と号し、源義家に従い奥州に合戦し、惟斉は保元・平治の乱に功をなしたという。この家斉は源頼朝に従い、豊田の地を領したという。忠斉の代に豊田郡に住し、斉胤の代には豊田氏を称したという。


 草加柿木には、豊田氏と神仏に関する伝承が二つある。豊田城が下妻の多賀谷氏の侵略によって攻め落とされたとき、夫人と遺児がわずかな部下を率いて辛うじて城を抜け出し、敵の厳しい追及の手を逃れて落ち延びることができた。そしてそのまま帰農し新田開発につとめ、何とかめどのついたところで、豊田の地にいたころから厚く信仰を寄せていた筑波山の女体神社の分霊を勧請して、筑波山の方向を望むように建てたので、北向きの社殿になったというのである。

 

茨城県の下総にある向石毛城跡(常総市)

 茨城県常総市向石毛には向石毛城跡があるのだが、城跡の法輪寺には立派な説明碑と平将門のレリーフ(左)が建てられている。「承平天慶の乱」により、天慶3年(940年)平将門が戦死後、この地は平貞盛の領地となったが、貞盛は所領を弟繁盛に委任し、 繁盛の子維幹を養子として全領を伝え、伊勢の国に遷り、伊勢平氏の祖となったという。この9代後にかの平清盛が現れる。
 

 この地方は、維幹の孫・常陸大掾平重幹の第三子政幹が赤須四郎(石毛荒四郎)と名乗り、下総豊田郷石毛荘に住したとなっている。前九年の役において、源頼義・義家父子は陸奥の安倍頼時、貞任追討の命を受けて北上。赤須四郎は、豊田郷兵を率いてその軍列に加わり、 阿武隈川一番乗りをはじめ、衣川の戦い等に数々の功をあげたという。

 

 その戦功により、康平5年(1062年)、 後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、神旗(蟠龍旗)と豊田郷を下賜され、名を豊田四郎平将基と改め、豊田氏の祖となったという。将基は、 館を天然の要害豊田館跡に向石毛城を構築して、長子石毛太郎広幹を拠らしめ豊田氏隆盛の礎とした。これが向石毛城の起源である。要は「将軍」「副将軍」というのは鎮守府の将軍・副将軍ということだったのである。

 

平将門のレリーフ(左)


 但し、レリーフには、なんとここには「平将門の館」があった所で、その跡地に「向石毛城」が築かれたとあるのだ。となると、豊田氏は将門を助けるためにこの地に来たのか、もしくは将門を滅ぼすために来たのか、そのどちらかとなる。だが、豊田氏は桓武平氏で将門とは親類筋。と考えると、やはり将門のために来たのだろうが。豊田氏の本当の素性はどうも簡単には解き明かせないようである。

 

◆「蹐竜」と「金村別雷神社」

 

 「竜心寺(龍心寺)」の過去帳には、安永七年(1710年)の住持であった一四世の「海印竜山」が記した「当山縁由考訂」が掲載されており、これに「蹐竜」(つぐみりゅう)の旗の伝承が記されていた。ここ竜心寺はつくば方面から24号線で小貝川を渡り、南下した所にある本豊田地区の中心に伽藍が建立されている。 境内の由来碑や「豊里の歴史」によると 当寺は豊田家の守護寺として初代将基によって建立されたとある。 

 

 「前九年の役」(1051-61)で源頼義・義家(八幡太郎)の奥州征伐に赤須四郎平政幹は豊田郷兵を率いで加わり、「蹐龍の旗」によって大功を立てると後冷泉天皇から「蟠龍(つぐみ龍)の旗」と豊田郷を賜ったとある。 この旗を別雷神社の御神体とすると同時に、龍神の霊を慰めるためにこの寺を建立し、 名を豊田四郎将基と改めたという。 「竜心寺」は当初、豊田氏の祈願寺として現在の石下町若宮戸にあり、のち臨済宗とも伝えられる。 豊田氏十二代善基が豊田城築城の折りに現在の地に移された。 天正3年(1575年)多賀谷氏が豊田氏を滅ぼした時、当寺は没収され、多賀谷氏の帰依している 多宝院の上足悦堂和尚を請うて新しく開山し曹洞宗に改宗されたが、従来通り豊田山龍心寺と称したという。

 

「竜心寺(龍心寺)」


 この「蟠龍(つぐみ龍)の旗」を別雷神社の御神体とすると同時に、龍神の霊を慰めるために竜心寺(龍心寺)を建立した、という。なんで「旗」がご神体となるのか。そして、なんでここに「別雷神社」があるのか。さらに龍神の霊をなんで寺で慰めるのか。冷静に読むと変なことだらけである。この「別雷神社」を調べると、とんでもないことが分かる。実はつくば市内にあるこの「別雷神社」というのは、関東三雷神のひとつ「金村別雷神社」(かなむら わけいかづちじんじゃ)という社なのである!

 

 関東三雷神とは、北関東における雷神を祀る三大神社であり、もちろんどれも京都の賀茂別雷神社(=上賀茂神社)を勧請もしくは、それに関連する神社と考えられている。その関東三雷神は「別雷皇太神社(ベツライコウタイジン)」(茨城県水戸市)、「雷電神社(らいでんじんじゃ)」(群馬県板倉町)の三社である。さらに水戸市には「加茂神社」、常陸太田市には「別雷神社」(ワケイカヅチジンジャ)、同名の「別雷神社」(ワケライジンジャ)、「雷神社」(ライジンジャ)、鹿嶋市には「加茂神社」、取手市にも「加茂神社」があり、さらに桜川市の加茂部には「鴨大神御子神主玉神社」(かもおおかみみこかみぬしたまじんじゃ)なる式内社まであるのだ。

 

 地名にも社名にも「かも」が入り、これら全ての神社の総本社は京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)なのである!神道と天皇祭祀を裏側から仕切る「賀茂氏」が突如登場する。神道祭祀一族である「忌部氏」の中の忌部氏が賀茂氏である。この賀茂氏の中でも特別な一族は「鴨族」と呼ばれ、その裏側にいるのが裏陰陽道 「迦波羅」の呪術を駆使して神道を支配する漢波羅秘密組織「八咫烏」である。そして賀茂氏の総社とは「賀茂別雷神社:上賀茂神社」と「賀茂御祖神社:下鴨神社」であり、合わせて「下上賀茂神社」と言われている。なぜ、ここに賀茂氏系の神社があるなのか。

 

つくば市内の「金村別雷神社」

 

  「金村別雷神社」の主祭神は「別雷大神」である、 雷を支配・統御する神であり、その荒魂は霹靂一声、正邪を正し悪事災難を消滅させ、和魂は干天に慈雨を恵み、万物に生気を与えるとする。要は、稲妻である。雷神は創造神ヤハウェでありスサノウである。もちろん物部系の古神道ということだ。さらに当社には丹生社、角身社、神明社、身代社、須賀社、稲荷社、貴舩社、養蚕社、八幡社、厳島社、天満宮、愛宕社、鹿嶋社、科戸社、など14社が祀られており、境内社では、龍神、水神、火神、風神などを祀っている。もはや物部氏系と秦氏系の集合体のような神社なのである。

 

 ここが単にもともと物部氏系神社で、そこを秦氏が乗っ取ったというのなら話しは簡単だが、そうではない。この「金村別雷神社」の社伝に拠れば、創建は承平元年(931年)である。当地の領主・豊田公が霊夢に感応して、京都・上賀茂神社の御分霊を守護神としてこの地に奉斎したとある。この神社が忌部氏もしくは賀茂氏が創建に関わっていたのならまだ分かるのだが、創建に関わっていたのは「豊田氏」だというのだ。まさかの展開となってきた。さらにここは外物部氏が支配した東国である。いったい、豊田氏と賀茂氏はどうつながっているのか。

 

「金村別雷神社」の主祭神​​​​​​​「別雷大神」

 

 なにせここは中世から戦国時代の約五百年間、この地方を支配した豊田氏ゆかりの神社である。「金村別雷神社」の社紋は、後冷泉天皇から下賜された神旗「つぐみ竜(蹐竜)」を社紋としている。龍が社紋ならば物部氏である。だが、豊田家は、源頼義・義家父子の奥州征討軍の副将として参戦し、軍旗「つぐみ竜」を掲げて、勝ちまくったとある。ちなみに、義家の子孫から源頼朝が出ている。

 

 このエリア毛野川の乱流域であった川東にも、若宮戸、豊田地区内からも小数ながら土師器片が出土している。九世紀代になると氾濫原の自然堤防上や、やや小高い砂洲上に人が住み、毛野川の氾濫と闘いながら水田を開きはじめたという。12世紀初頭、この開拓事業を、上から組織的に実施していったのが、桓武平氏出自の豊田氏であるとこの地では伝えている。ということは、豊田姓は「平氏」ということなのか。さらに桓武天皇の末裔というのならば天皇家であり、物部氏ではなく「秦氏」ということになる。さらに豊田氏は平貞盛の曾孫・多気重幹の三子、政幹を祖とするのだという。これなら完全に平氏ということだ。

 

神旗「つぐみ竜」の社紋

 

 もはやこの謎解きの前提が崩れた感じだ。なにせ「多気氏」(たけし)は、常陸平氏(ひたちへいし)・大掾氏(だいじょうし)の惣領家に当たる氏族だからだ。両方を合わせて多気大掾家とも呼ばれることもある。通字は常陸平氏のそれである「幹」(もと)。つまり代々名前に「幹」を使ったということだ。さらに平繁盛の息子で貞盛の養子となった平維幹(たいらのこれもと)が、常陸国筑波郡多気において多気権大夫と称したのに始まる。維幹の孫・重幹の息子の代に常陸平氏の諸氏が形成された、とある。ということは、平繁盛の末裔が「多気氏」となり、それが「豊田姓」になったということである。もはや物部氏の話しはどこかに行きそうである。

 

<つづく>