「大和と日本」の謎:その38

 

  「大和」と「日本」の謎解きとは、「秦氏」と「物部氏」の謎解きである。騎馬民族説であろうが、日ユ同祖論であろうが、この根本を理解しないと本当の意味は分からない。なにせこの国を呪術で支配してきたのはこの2氏族だからで、彼らの呪術合戦が古代から現在まで続いてきたというのが真の姿なのだ。この2氏族はともにイスラエル民族であり、古代ヘブライ語を理解している神官たちが存在している。

 

 明治に登場した日ユ同祖論は、日本人とユダヤ人の文化・習慣の多くに共通性が見られ、さらに古代ヘブライ語と大和言葉に多くの発音と意味が同じだということを見つけている。最近のオカルト好きな人たちは、六芒星を見るだけで「日本とユダヤは同祖」だと言いたがる。眞名井神社の石碑にあった「六芒星」が無難な「三つ巴」に変えさせられた件や伊勢の灯籠に「菊の紋」と「六芒星」が刻まれていることで「日本とユダヤの秘密」として語りたがるが、結局はテレビ東京の無責任オカルト番組と同じで、都市伝説の域を出ない話しばかりが横行している。

 

 

 筆者のもとにも様々な謎系の方々から相談がくる。1週間後には大人気謎系ユーチューバーなる方とお会いすることになっている。筆者の周囲の人たちも「よく研究しているユーチューバーですよ」と言って、知り合いからこの人の動画のURLが度々送られることがあるのだが、どうも10分以上の視聴に耐えない番組ばかりで、見ていると飽きてしまう。その原因は「神話と史実」の区別がついていないからだ。まさに藤原不比等が仕掛けた「迷宮」に誘われてしまっているのだ。

 

 このユーチューバーの方はご自分の出自を理解していなかった。差別を受けて来た父方の「血」を穢れたものだと悩んでいたそうだが、その本質を理解できていなかったのである。同じような話しは、呪術師からもくる(笑)。ご自分の名前の意味を知りたいと。その意味を伝えてあげたところ大変感激されていたというのだが、なんで呪術師が自分のことを理解していないのだろうか。また、霊能者の方からも相談がくるのだが、その方を頼る相談者たちからの相談が、筆者に転送されてくるというものだ。

 

 この連載を書いている最中にも、「天皇陛下がイギリスへ行かれたのはなぜですか」とか「天皇家はロスチャイルドの下僕なのですか」とか「天皇家は朝鮮系なんですか」とか、トンチンカンな質問が寄せられるので、「天皇陛下を卑下したり揶揄する人間たちは、たとえワクチンを接種していなくとも令和で滅ぼされることになるとお伝え下さい」とお返ししているのだが、それだけ無責任なことを発信している人間たちの影響が強いということでもあり、「日本とユダヤ」という問題の本質を理解していない人がほとんだということでもある。

 

 

 古代ヘブライ語と大和言葉は同じという意味では、『古事記』と『日本書紀』を原文で読むと、日本語としての意味(=日本人に対する本質を隠す神話)と古代ヘブライ語で読み解けるもう一つの意味(隠された本質)が現れる。

 

 記紀神話で、天岩戸の中に「お隠れ」になった天照大神を、岩屋の中から出てきてもらうためにアメノウズメが唱えたという「祝詞」がある。その祝詞とは「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、こ、とお」とされている。現代人にとってはただの数字で、子供に覚えさせる数字の読み方となっているが、「物部神道」では「死者蘇生の言霊」(鎮魂法)といわれる「布瑠の言」(ふるのこと)で用いられる呪文で、物部氏に伝わる「十種神宝」(とくさのかんだから)の呪法とともに唱えれば、死者が甦るとされているのである。

 

 音は「ひい ふう みい よ いつ む なな や ここのつ とお」だが、日ユ同祖論を説いたヨセフ・アイデルバーグによれば、これは古代イスラエル人が使っていたヘブライ語であり、ヘブライ語で、「ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たゔぉ」と書いて、この区切りを減らすと「ハイアファ ミ ヨツィア マ ナーネ ヤカヘナ タヴォ」となり、さらに、これを日本語に訳すと「だれがその美しい方(女神)を出すのでしょう。彼女に出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」となるだという。「女神」とは伊勢神宮では女神として祀られる天照大神のことであり、その天照大神を岩戸から出す呪文なのだというのだ。

 


天岩戸の中から姿を現す天照大神

 

 これなどはほんの一部でしかない。秦氏と物部氏が陰に陽に仕掛けた呪術による仕掛けこそが「大和」と「日本」の謎なのである。

 

◆「ヒノモト」と「ヤマト」

 

 近鉄奈良線の石切駅で下車すると、眼下に大阪平野が広がる。かつて、大阪の上町台地と生駒山との間には、古代の河内湾や河内湖という水域が広がっていた。そして生駒山麓に近い辺りに、「草香江」(くさがえ)と呼ばれる入江があった。つまり古代には、瀬戸内海を渡ってきた船は、生駒山麓まで進むことができたのだ。神武天皇の東征では、浪速国の白肩津(草香津)に上陸して大和国を目指したが、「登美能那賀須泥毘古」(トミノナカスネビコ)の抵抗に遭い、手痛い大敗を喫する。なぜか。

 

 神武軍は、大坂湾から上陸した後、生駒山を超えて「斑鳩」(いかるが)の地である現在の奈良を目指す途中、「孔舎衛坂」(くさえざか)で待ち伏せする「長髄彦」(ながすねひこ)の罠に嵌り、兄の「五瀬命」(いつせのみこと)が流れ矢で命を失い、別の兄「稲飯命」(いないのみこと)、「三毛入野命」(みけいりののみこと)が熊野灘で身を投げて入水(じゅすい)するなど散々な敗北を喫したのだ。

 

「神武東征ルート」

 

 孔舎衛坂は、今の大阪府東大阪市の東端付近とされ、河内~大和を最短で結ぶ生駒山地の山道で、当時は奥まった湾の草香江から奈良に至る尾根道が通じていたとされる。そこで神武天皇は「天照大神が住む高天原の太陽方向への攻撃という愚行を犯した為、我らは無残に敗北した」と悟り、紀伊半島を半周して熊野に入ってから西へ向かい、悪戦苦闘するも長髄彦の軍を打ち倒し、無事に大和入りを果たしたのである。

 

 この話しが意味するところは、大和民族はどんな時も「太陽を背に戦う」ことを義務付けられた民族だということである。大和民族が世界の極東・日本に国を開いてから、極東の島として西にのみ目を向ける事は聖徳太子の時代から運命づけられており、それは以下の言葉だけで「東であり続ける」スタンスの重大さが分かる。

 

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」

(ひいずるところのてんし しょをひをぼっするところのてんしにいたす つつがなきやいなや) 

 

 

 大和民族は常に「エデンの東」に位置し続けねばならず、そこから太平洋を越えて更に東に向かう事は神の意志に逆らう事を意味し、事実、大日本帝国と国家神道は「記紀」と聖徳太子を無視して亡び去っている。いくら戦前の日本軍が凄かったなどと言おうが、「太陽」を背に謀反人を打ち倒す「旭日旗」を使う日本陸軍と、中心がズレた「旭日旗」を軍艦旗に掲げる日本海軍は言い訳が出来ず、結果として太平洋を挟んだ東に位置するアメリカとの戦争は避けられたはずだ。

 

 しかし、神意に背いて決行すれば「皇国史観」への反逆となるということを理解していなかったのである。本来、国家神道の源は「神武天皇」の命令に従うべき「皇国史観」のはずである。太平洋戦争を行う際、本来なら「大和民族の使命完遂の為には、神武天皇の意志に倣い、西は宜しいが東は凶となる為、断じて東に向かってはならず」としなければならなかったのである。

 

 ハワイも日本の東に位置し、真珠湾もオアフ島の西南に位置する為、皇国史観重視なら「山本五十六案」は絶対に受け入れられない筈で、そもそも真珠湾攻撃を提案した山本も、留学経験からアメリカとの開戦には反対していたが、1941年にアメリカが「日本資産凍結」を断行、「石油輸出全面禁止」を恐れた陸軍は、大慌てでインドネシアを含む東南アジアの石油を奪いに侵略を開始。アメリカの植民地フィリピンを攻略するには、「ハワイ奇襲攻撃」が不可避と思い込み、まんまとルーズベルトの罠に嵌るのである。

 

 

 皇祖神を激怒させたことで、国家神道と大日本帝國は「シメられた」のである。神武天皇と同じ過ちを冒してしまったのである。実は、その雛形は「元寇」にある。元の大群は西から東の日本を攻めた。だからこそ「神風」で滅ぼされたのである。そのことも忘れたことで、何百万という大和民族が滅ぼされることとなったのである。この国で「国難」といえる出来事は「元寇」と「太平洋戦争」の2つしかない。その意味では、なぜ源義経がジンギス・カーンとなって「元」という国を建国し、その子孫フビライが日本を攻めたのか、それは雛形だとなることを示したといえるかも知れない。さらに「元寇」は2度あった。だが、太平洋戦争は一度である。国難は2度。「二度あることは三度ある」のことわざ通りならば、国難はもう一度やってくる。そんな遠くない未来に。

 

 神武天皇の上陸地の白肩津(草香津)が現在の東大阪市「日下」であるとされている。日本はヒノモトとも読み、日の本とも書くが、日の下とも表記される。日下はクサカという地名になっており、姓では日下や日下部があり、いずれも物部氏であり、東大阪の日下は物部氏の拠点だった土地である。

 

 生駒には物部氏の祖神「饒速日命」(ニギハヤヒ)が「天磐船」(あまのいわふね)で降臨した哮峰(たけるがみね)がある。『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから「十種の神宝」を授かり天磐船に乗って河内国の河上の地に天降り、その後、大和国(奈良県)に移ったとされている。饒速日命が乗ってきたという「天磐船」は空飛ぶ船ではない。天からではなく海を渡ってきたのである。

 

東大阪市の日下町と「饒速日命」

 

 「饒速日命」とは、物部氏の歴史を記す『先代旧事本紀』では「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたま にぎはやひのみこと)といい、アメノオシホミミの子で天孫「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の兄である「天火明命」(アメノホアカリ)と同一神である。「饒:ニギ」「瓊瓊:ニニギ」「火明」も同じ太陽神ということで、全て同一神なのだ。

 

 『日本書紀』によれば、「日本」という国号を定めたのはニギハヤヒなのである。「日本」の読みは「ヤマト」だが、国号の表記はこれが初出で、日本という国号と物部氏は深い関係にあったのである。九州から畿内へやってきたとき、物部氏は自らのクニを日本と称してヤマトと読ませたが、言い換えれば、物部氏とは「ヤマト族」と言っているのである。

 

 だが、徐福とともに最初に日本に渡来した海部氏の「投馬国」と、二度目に九州に到来した物部氏が畿内に作った「倭国(邪馬台国)」が統合したことによって、日本という表記は、しばし忘れ去られることとなる。「大邪馬台国」とも呼ぶべきこの国は男王を立てるが上手くいかなかった。皇祖神が男王を天皇陛下と呼ぶべき預言者のレベルとして認めなかったいうことである。そして、困った物部氏は海部の娘の姫巫女を女王とすることにした。卑弥呼である。

 

 

 海部氏の卑弥呼(日巫女)が女王に推戴されたとき、反発した物部氏は東日本に逃れ、外物部氏として狗奴国=富士王朝を作るが、この狗奴国の正式な国号が「日高見国」である。太陽を高く仰ぎ見る国という意味で、日本列島が回転し、現在の位置関係になったとき、東日本は太陽が昇る方角、「日の本」になったのである。つまり、ニギハヤヒが名付けた「日本」という名称は、外物部氏が継承、日高見国となったのである。これによって、古代日本列島には倭(ヤマト)と日本という2つの国が存在することとなったのである。

 

 日高見国は当初、富士山麓を中心とした地域を指していたが、外物部氏の東遷によって徐々に拡大。青森県にまで及ぶ広い地域を意味するようになった。茨城県の常盤は「日立」で日高見国のことである。岩手県の北上もかつては日高見で、北海道の日高も日高見、その領域は北海道にまで及んだということである。だが、西の大和朝廷からすると、外物部氏が支配する奥州=「日本」は、インカ系縄文人やアイヌを含めた反抗勢力・蝦夷の土地である。さらに西から見た東北=「鬼門」として封じ込むために征夷大将軍を送り込んだのである。

 

<つづく>