「大和と日本」の謎:その37

 

◆「日本国」と「倭国」の併合

 

 中国の歴史書『旧唐書』には「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。そこには「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるゆえ、日本をもって名をなす」と記されている。つまり「倭」と「日本」は別の国だったと認識していたのである。「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は 648年の記事で終っている。 これに対し「日本伝」は、「日本書紀」などの記述と矛盾せず、飛鳥・奈良時代の大和政権のことであることがあきらかなのである。

 

 続いて「倭国は自国が雅でないことから、改めて日本と称した」とあり、同時に「日本は、もともと小さな国だったが、倭国を併合した」と記している。つまり、もともと日本は小さいながら独立国で、大きな倭を併合した。その際、倭という字が卑しいので、改めて国号を日本と定めたということである。

 

『旧唐書』の「日本国伝」

 

 興味深いのは同じ唐の歴史書でも『新唐書』で、こちらには真逆のことが書かれているのだ。「倭という字が良くないので、太陽の出づる処に近いので日本に改めた」として、「日本はもともと小国で、倭が併合したので、その国号を継承した」とある。小さな国である日本を併合したのは倭の方だというのである。

 

 併合した国が相手の国号を踏襲するというのも変な話だが、とにかく倭という字が嫌なので日本にしたとしている部分は同じなのだ。併合が一方的だったのか、それとも対等だったのか、あるいは立場が逆だったのか。中国側の記述からは読み解けないが、状況はどうあれ、とにかく倭と日本は、もともと別の国で、あるとき併合した。それを機に国号を「日本」と定めたのである。

 

 

 問題は小さな国であった「日本」である。それはいったいどこにあったのか。「魏志倭人伝」には「日本」という文字は出てこない。「ニホン」もしくは「ニッポン」と読めそうな地名や国名もない。記述では、朝鮮半島南部に倭の直轄領「任那日本府」(みまなにほんふ)があったと記している。当時の国で言えば伽耶諸国の一つである。韓国の歴史家は任那日本府は存在しなかったとするが、考古学的に実在したことは証明されており、現在、次々と旧任那の土地では前方後円墳が発見されており、その玄室が倭の様式であることが確認されているのだ。

 

 「騎馬民族征服王朝論」からすれば、この「任那」は騎馬民族の拠点だった。ここを足掛かりに日本列島へと渡来してきた。江上波夫博士は第10代・崇神天皇の諡号「御間城入彦五十瓊殖天皇」(みまきいりひこいにえのすめらみこと)の「御間城」(みまき)とは「任那の城」という意味で、崇神天皇は任那から日本に渡来した初代天皇だという。もし任那が『旧唐書』や『新唐書』の語る小国「日本」だとすれば、ここを拠点とした騎馬民族の大王が大和朝廷を開いたわけだから、倭と併合したという言い方もでき、騎馬民族からすれば、日本が倭を併合したとなり、逆に邪馬台国からすれば、倭が日本を併合したと主張したとしても不思議ではない。

 

 

 「義経=ジンギスカン説」を説いた神学士であった 小谷部全一郎は、日猶同祖論を展開した。1929年(昭和4年)に『日本及日本国民之起源』を発表。「猶太経典」=「旧約聖書」を独自に解釈し、日本人は希伯来(ヘブル)の正系であり「猶太民族と同種」とする、いわゆる「日ユ同祖論」を主張。朝鮮半島から渡来した騎馬民族の大王を失われたイスラエル10支族のガド族であり古代ヘブライ語で「ミ・ガド」は「ガド族出身」を意味するとし、ガドに「御」が付いて「御カド:帝」になったとした。古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)を指す。

 

 小谷部は、両民族の類似点を百数十挙げて、日ユ同祖論を証明しようとし、「我が大日本の基礎民族はヘブライ神族の正系にしてユダヤ人はその傍系」そして、日本の国号はガド族の息子「ツィフヨン:TZFYWH」に由来するとした。ツィフヨンの発音「ツェフォン」「ゼホン」「ゼボン」とも発音され、これが「ジッポン」「ニッポン」となったという。こうした「日ユ同祖論」を主張したのは小谷部だけではない。明治期に来日したスコットランド人のノーマン・マクラウド(N・マクレオッド) が最初にこの説を唱えた人物である。

 

 

 マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した人物である。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での英語の著作「The Epitome of The Ancient History of Japan」(『日本古代史の縮図』)と「Illustrations to the epitome of the ancient history of Japan」(『日本古代歴史図解』)によって始まった。マクラウドは、祇園祭の牛車とユダヤ人が家族で移動するときの牛車との類似性をはじめ、イスラエル人が日本に渡来する時に用いた筏や、日本で発見されたバビロンなどの古文字、アッシリアやユダヤの古物、ユダヤの神殿で用いられたと「想像したる」日本のラッパや琵琶などの楽器と、十数の項目で日本人とイスラエル人の共通点を挙げて、日本人の祖先はイスラエルから渡来したと主張。

 

 これらは、後の1901年に「ユダヤ大百科事典」ニューヨーク版「失われた10支族」の項目に引用されたという。実はここで白人の偽ユダヤ人(血統ではない)たちの一部は気づいたのだ。「ヤ・ゥマト」が世界の端の東の地にいるんだということを。マクラウドの主張は、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本へ渡ったとしたのに対して、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったというものである。これはどうもおかしい。確かに古代朝鮮半島に残った者もいただろうが、主要な大和民族は日本へ渡来した。なぜか、預言者に導かれていたからだ。そして、日本こそが新たな「約束の地」だったからである。実際、今もイスラエルには預言者はいないのである。

 

左:祇園祭 右:烏の姿をした人間

 

 ユダヤ人で、イスラエルの軍人でもあり、日本では神道の神官の修行もしていたヨセフ・アイデルバーグは、その著書『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中で、「大化の改新は、モーセのトーラーと類似点がある」と述べている。昔読んだ時にはなんのことやらと思ったが、読みかえしてみるとなかなか興味深い指摘である。

 神道の祭司一族であった「中臣氏」が主導して、専横する仏教派の「蘇我氏」を滅ぼしたとき、蘇我氏の放火によって全朝廷図書が焼失しつつも、神道を一時的に復興させたのが「大化の改新」(645年)の一面であると指摘される事がある。「大化の改新」から「大宝律令」(701年)(神祇令)制定にかけては唐の文化を吸収しつつ神道の復興と制度化の過程であり、大化の改新の内容は、当時における神道の重要事項が中心であったと推測されるが、その内容は旧約聖書と類似している。

 

 日本で元号として初めて定められた「大化」は、ヘブライ語のthQWH(tikvah)「希望」(現イスラエル国歌:H・thQWH:その・希望)と似ている。ただし似ているだけである。大化は書経や漢書といった中国の書物からの引用であり、これを根拠とするには証拠能力に欠けている。大化は皇極天皇の4年目の7月1日 (旧暦)に始められたが、ユダヤ暦(古代の教暦ではなく政暦)では7月(ティシュリー グレゴリオ暦では9月から10月)1日はローシュ・ハッシャーナー(新年祭)で1年の始まりにあたる(「第七の月の一日は…聖なる集会の日としなさい」『レビ記』(23:24))。

 

 大化政府は7月14日 (旧暦)に神々に捧げる捧げ物を集めたとあり、ユダヤ教での仮庵の祭りは7月15日(ユダヤ暦では日没が1日のはじまりであるためグレゴリオ暦では7月14日の夕方18時頃)から始まる。改新の詔の「男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は女奴隷側のものとする」は、『出エジプト記』(21:4)と同じである。また、詔での、土地の分配を家族の人数に応じて行うことと『民数記』(26:54)、親族の死についての断髪等の禁止と『レビ記』(21:5)、借り物に関して賠償すべき場合を限定した定めと『出エジプト記』(22:13)も同様である。


 アイデルバーグは「大化政府」という表現をしている。これはかなり的を得た表現だと思う。なにせ、各豪族たちの持つ系図やら古伝書を没収し、『古事記』『日本書紀』に「神話」と「史実」を織り交ぜながら集約させ、鍵がなければ開かないように本当の古代史を封印したのは中臣鎌足の子、藤原不比等だからである。

 

記紀のプロデューサー藤原不比等

 

 藤原不比等、そして、父の中臣鎌足もまた類稀な預言者であった。但し、日本と大和民族の歴史を封印させ、海外から本当の姿を封印させたのは聖徳太子である。その太子の命を受けた鎌足、不比等の親子が2代で完成させたのが『古事記』『日本書紀』による封印の仕掛けだったのである。アイデルバーグが「大化政府」と呼んだ集団の正体は「秦氏」である。

 

 その秦氏も平安京が完成した後に、自分たちの姿を消していく。彼らは現在に至る天皇家の外戚である「藤原氏」となる。だからこそ天智天皇となった中大兄皇子は、鎌足が亡くなる前日に「藤原」の姓を与えたのであり、不比等の直系の末裔以外は「藤原姓」を名乗ることを許さなかったのである。逆説的に考えれば、藤原氏もまた封印したということなのである。

 

 極端な言い方をすれば、「大和」と「日本」の謎を解くということは、「秦氏」と「物部氏」の関係を紐解くということになる。なにせこの国を呪術で支配してきたのは「秦氏」と「物部氏」だからだ。彼らの呪術合戦が古代から現在まで続いていると言っても過言ではない。いや、その通りなのである。彼らが陰に陽に仕掛けた呪術による仕掛けこそが「大和」と「日本」の謎なのである。

 

<つづく>