「大和と日本」の謎:その32

 

 義経の元服の話しには「応神天皇」のバプテスマが投影されている。義経が元服した地は「鏡の里」だが、そこにある「鏡神社」の主祭神「天日槍」「天之日矛」は秦氏一族の象徴としての大王だが、「日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た」と語ったという。その王とは「辰王」(しんおう)であり、一般的には朝鮮半島の三韓の馬韓の月支国を治所とし、弁韓の12国を統属していたという首長だとされる。だが、歴史学者の白鳥庫吉は、「辰国は辰韓のことであり、辰王は辰韓王である」とし、三上次男は、辰王は2世紀から3世紀頃に朝鮮半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であるとした。

 

 辰国=辰韓とは、古代朝鮮半島に「秦人」(しんじん)が建国した国で、そこに住んでいたのはイスラエル12支族である。さらに辰韓とは「秦韓」とも表記する。要は始皇帝亡き後の秦の動乱を避けるために移動してきた「秦人」が作った国で、そこには「秦氏」もいた。つまり、辰王とは神武天皇のことであり、大和を制圧した後、再び朝鮮半島から残りの「秦氏」を呼び寄せたことで、秦氏に大王として崇められることとなり、秦氏の大王・武内宿禰によってバプテスマを施され、応神と名前(諱)を与えられたイスラエル10支族のガド族出身の大王であった。

 

辰韓・弁韓と応神天皇

 

 義経は「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われ、今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っている。元服池とはバプテスマの池なのであり、義経にバプテスマを施したのは八咫烏である。なぜか。それは地名に残されている。

 

◆義経とカラスと鏡

 

 義経「元服の地」の東北には「からすの池」があり、その脇には「足洗川」が流れている。足を洗うとは穢れをとることで、下鴨神社の御手洗池では無病息災を祈願していまも多くの人たちが足を洗っている。つまりバプテスマである。さらに「元服の地」の眼の前に立つのは「東の竜王山・雪野山」と「西の竜王山・鏡山」で、この二つの山には神力を持つ「龍王」が住むといわれている。龍とは龍神で水神、スサノウであり創造神ヤハウェである。そして「西の竜王山・鏡山」には竜王宮・貴船神社が鎮座しているのである。貴船神社は義経が幼少の頃に八咫烏の棟梁・金鵄=鞍馬天狗によって育てられた鞍馬の反対側に鎮座している。もちろんそこを仕切ったのも八咫烏の一族である。

 

竜王宮・貴船神社と巨大な磐座

 

 山頂の竜王宮には、雨の神・水の神ともいわれる八大竜王の一つ摩耶斯竜神(まなしりゅうじん)がまつられ霊山、竜王山として知られている。だが、ここ竜王山・鏡山の山頂近くには聖徳太子26歳の時(600)に自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。聖徳太子を最大の聖王と崇める一族こそ八咫烏である。鞍馬には鞍馬寺があり、その向かいに貴船神社がある。

 

 竜王社・貴船神社は山の中の古い社である。そして巨大な岩の磐座が鎮座している。つまり、ここは創造神ヤハウェを祀る物部古神道の社だったということで、それが聖徳太子の命によって封印されたことを伝えている。しかし、なんでここに竜王社・貴船神社があるのかと思い調べてみると、とんでもないことが分かった。京都から近江八幡市の外まで、旧義経街道といわれた「東山道」の周囲は貴船神社だらけなのである。これはいったい何を示す暗号なのだろうか。

 


貴船神社に囲まれる義経元服の地

 

 もし、これが平安京を守る呪術であったのなら、琵琶湖を決壊させないための守り神として龍神ヤハウェを要所に配置したと考えられないだろうか。なにせ平安京の上には「船岡山」があり、そこには「終わりの日」に契約の聖櫃アークが置かれることになる。そしてアークは「船」であり最も貴い船だからだ。

 

 それにしても、どこもかしこも怪しい名称ばかりである。「烏帽子」だけならまだいいが、なぜか「烏帽子を掛けた」とされる「烏帽子掛松」なる松があり、「元服池」の側には元服の時に使った「盥の底」が残っている。その地が「鏡の里」というもう三種の神器が関わっていそうな地名である。そして、一番の謎が「ひとりで元服した」という点だ。そもそも一人で元服式など行わない。だが、源氏は物部氏である。八咫烏も基本は物部氏である。その源氏の若君が元服したことで原始キリスト教に改宗した。それを特別に仕切ったのは八咫烏だった。そして、義経と名を改めたことで大いなる使命を与えられた…。


 ここの「鏡」という地名は、天日槍が持参した神宝の一つに「日鏡」があり、この地に収めたことからその名がついたという伝承がある。さらにこの日鏡は「鏡山」の山頂に埋められ、麓に天日槍を祀るこの社が創建されたという。「鏡」は天照大御神の象徴である。つまり、物部氏の聖地に立つ社を次々と原始キリスト教の社に変えさせたのである。そして、義経はここで「源九郎義経」と名乗ったとしているのだ。この時義経はただ一人で鏡神社を参拝、この松に「烏帽子を掛けた」という伝承があるのだ。つまり「鏡」「烏帽子」「九郎義経」はパックということだ。

 

「鏡神社」

 

 「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳」(さわやでん)の屋敷に泊まったとなっているが、この「沢弥傳」というのも暗号名である。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意し、地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元結の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝えられている。つまり、池の水を鏡に見立てているのだ。

 

 三種の神器「八咫鏡」は「合わせ鏡」である。つまり、「牛若丸」という物部氏の若大将の名を与えられていた「遮那王」は、鏡に写したことで「源九郎判官義経」となる。この地では以下のように伝えられている。

 

 「鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでおりました牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にいたしましたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではございませんか。これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと元服することを決心するのでございました」

 

 さて、問題はここからである。「八咫烏」は古来より日本を呪術で支配する組織である。そして、常に裏側からこの国の歴史の要所に関与してきたが、時に歴史を動かす表の人物をも育ててきた。それが源義経である。とするならば、「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させることになる義経は、平家に奪われた三種の神器を取り戻す。遮那王には「大日如来=イエス・キリスト」の名が隠されていた。ならば、「義=我は羊」の名を持つ義経もまた、イエス・キリストの名を持つこととなる。

 

 

 義経の「経」は経」は「經」の略字である。「經」は「たていと」を意味する漢語「經」を表す字で、もと「巠」が{經}を表す字であったが、糸偏を加えたとある。現在の経」は「又+土」だが、「又」は「手」「右手」で「前にあった事がもう一度繰り返されるさま」をいう。「土」は「十に一」で十字架に架けられた場所を示す。さらに「十」は縦木の陽と横木の陰の陰陽一対。つまり「八咫鏡」(やたのかがみ)となり、その正体は2枚からなる「十戒石板」を示している。つまり「鏡」である。


 「巠」(ケイ)という字は、機織(はたおり)の縦の糸を漢字にした象形文字だが、機織とくれば高天原でスサノウの狼藉で亡くなった機織女は天照大御神の象徴で、機織女が死ぬことで天岩戸隠れが起こった。「巠」でいえば、「一」と「く」が三つ。つまり三神を示した一人の存在イエス・キリストであり、さらに「工」は大工でイエス・キリストの職業。天照の「天」の字の書き方は、下鴨神社では「工+人」で大工なのであり、その天照大御神の御霊が宿った神器が「八咫鏡」で、それを取り戻すのが義経なのだ。

 

 義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した「鏡璽」を奉じて4月24日京都に凱旋する。

 

 「経」は経典などにも使われるように、以下の意味を持つ。 

 

 ア:「儒教で、聖人の言行や教えてを書いた書物。」(例:経書)
 イ:「仏教で、仏の言行や教えを書いた書物。」(例:経文)
 ウ:「学問や宗教上のよりどころ(根拠)となる基本的な書物」
 ア:「筋道(物事がそうなったわけ)」、「物事の正しい筋道」

 

 つまり「義経」とは、八咫烏が与えた特別な使命を持つ者に与えられし名だったのであり、義経には八咫烏の奥義が授けられた。それは3巻の巻物からなる『八咫烏秘記』である。そこには人類発祥からの全てが書かれている。金鵄が裏天皇を構成できるのも『八咫烏秘記』があるからである。その奥義を授けられた存在なのである。その義経は、「日本」を治めに東へと旅立ち、さらにはユーラシア大陸を征する世界最大の帝国「元」を作る。つまり、それもまた八咫烏の仕掛けだったということとなる。

 

<つづく>