「大和と日本」の謎:その31

 

 源義経が元服した地は、滋賀県竜王町「鏡の里」である。この「鏡の里」は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休泊の宿場だったという。この時、義経は「遮那王」と称していた。奥州藤原氏の元へ下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子(えぼし)を着け、ただひとりで元服したと言われている。今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っている。

 

◆義経が「元服した意味」

 

 どこもかしこも怪しい名称ばかりである。「烏帽子」だけならまだいいが、なぜか「烏帽子を掛けた」とされる「烏帽子掛松」なる松があるというのが、何の意味だか分からない。「元服池」なら、なんとなく元服した場所なんだろうなで済むが、元服の時に使った「盥の底」が残っているとか。そしてその地が「鏡の里」というもう三種の神器が関わっていそうな地名である。そして、一番の謎が「ひとりで元服した」という点だ。そもそも一人で元服式など行わない。いったい何の話しを伝えたいのか。

 


現在は上の部分は切られた「烏帽子掛松」

 

 ここ竜王町には「鏡神社」なる社がある。また「鏡」だ。ここの祭神は新羅からの渡来人とされる「天日槍」(あめのひぼこ)を祀る社である。「日本書紀」「古事記」によれば、垂仁天皇3年、新羅の王子「天日槍」が来朝し、播磨に滞在。天日槍は近江国吾名邑、若狭国を経て、但馬国に定住。近江国鏡谷の陶人は天日槍の従者となったとしている。要は朝鮮半島の新羅から製陶技術を伝えた神として祀られるのが天日槍なのである。問題は人間なのか神なのか、そしてその正体は何か、だ。

 

 「アメノヒボコ」は、記紀以外の文献にも伝わり、朝鮮半島の「新羅」(しらぎ)からきた新羅人または渡来神とされており、『日本神話』『古事記』等では渡来人、『播磨国風土記』では渡来神と位置づけて記述される。どちらなのか。ここには暗号が隠されている。要は神話としてその存在を示す『日本神話』『古事記』では「新羅」から渡来した人々の象徴だと告げているのであり、『播磨国風土記』では渡来してきた一族によって崇めさせられるより前の神のことだと伝えているのである。実際、「アメノヒボコ」のことを伝える地は、北九州から大和までなのである。つまり、アメノヒボコ軍が制圧した地域ということだ。

 

「アメノヒボコ」の伝承地

 

 北九州に渡来し、九州北部を制圧した後に東征、大和を制圧している。それは即ち「神武東征」と同じである。そしてアメノヒボコを奉じた一族とは「秦氏」である。秦氏は神武天皇とともに朝鮮半島から渡来した一族であり、特に2度目の渡来の後には、彼らが住んでいた「辰韓・弁韓」の辰韓は後に「新羅」へと国名を変えている。つまり、アメノヒボコとは「秦氏」の象徴なのである。一部の研究者は朝鮮半島から渡来した朝鮮民族などと思っているが、それは違う。また、古代出雲王族の富正雄氏は「アメノヒボコは最強の的だった」と語っており、「朝鮮」と聞くだけで怒りの表情となったという。秦氏によって制圧され、神の名前を変えさせられたからである。

 

 さらにその表記は『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他の文献では「日桙」「天日槍命」「天日桙命」「海檜槍」とも表記される。この「海檜槍」などという表記は、まるでギリシア神話の海と地震を司る神ポセイドンである。ポセイドンはオリンポス十二神の一柱で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇る神だ。海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドンの力によって支えられている。地震をもコントロール出来るとされ、「三叉の矛」(トリアイナ)を最大の武器とし、これによって大海と大陸を自在に支配する。これを使えば容易く嵐や津波を引き起こし、大陸をも沈ませることができる上に、万物を木端微塵に砕くことができる。

 

 世界そのものを揺さぶる強大な地震を引き起こすことも可能で、そのあまりの凄まじさに、地球が裂けて冥界が露わになってしまうのではないかと冥王ハーデースが危惧したとある。さらに、山脈を真っ二つに引き裂いて河の通り道を造ったり、山々と大地を深く切り抜いて海中へと投げて島を造ったこともある。海を支配し、地を支配し、地神に嵐に津波まで起こす日本の神は荒ぶる神スサノウである。その正体は創造神ヤハウェである。つまり、「海檜槍」(あまのひぼこ)はスサノウ=ヤハウェである。よって、古神道の物部氏が「海檜槍」と言っていたのである。

 

ポセイドンと「天の逆鉾」

 

 スサノウは八岐大蛇を退治し、その尾から取り出したのは「天叢雲剣」(アメノムラクモノツルギ)でああったが、それはヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)の東征によって「草薙剣」と名前を変えた。ここにも「西日本=大和=秦氏+物部氏」が「東日本=日本=外物部氏」を制圧したことが隠されている。「名前が変わった」のである。日本の呪術は全て「名」である。ましてや「三種の神器」の一つが名前を変えたということは、だ。その名前に「変えさせられた」ということを伝えているのである。

 

 「草薙:くさなぎ」の「なぎ」という言葉の意味の一つは「風がやんで、波がなくなり、海面が静まること」である。ポセイドンの部分にもあったように、地震や嵐を起こす海と地を支配した荒御魂のスサノウを奉じた外物部氏を、和御魂の天照大御神を奉じるように変えさせたのだ。だから静かになった=文句を言わないようにさせたと言っているのである。また「なぎ」はマキ科の常緑高木で、葉は対生し、雌雄異株である。熊野神社では神木とされる。また、凪 (なぎ) に通じるので特に船乗りに信仰され、葉を災難よけに守り袋や鏡の裏に入れる俗習があった。熊野神社は物部系の社で、古代出雲大社は、現在の杵築大社になる前は、出雲の熊野大社にあった。


 さらに、「な(薙)ぐ」の連用形から、「山の一部が崩れて、横に切りはらったようになっている所」を言う。山体が崩壊したのである。それはどこか。「富士山」である。武内宿禰系の神官たちが、契約の聖櫃アークを持ってきて、富士山を噴火させ、山体が崩壊したことで「富士王朝」は滅んだのである。それがヤマトタケルノミコトが持っていた「天叢雲剣」が、東征をした後に「草薙剣」と名前を変えたことの意味なのである。徐福とともに物部氏がもたらした「聖剣」は、秦氏によって名前を変えさせられたのである。

 

 

 なんで高千穂の「天の逆鉾」が、逆さに立てられているのか。そして、なんで矛の先が3又なのか。それは創造神ヤハウェのみを奉ずる唯一神教から、「御父・御子・聖霊」の三柱の神を奉ずるようにさせた証で、カッバーラの奥義「生命の樹」である「三本の木」の呪術で支配したということを伝えているのである。

 

 『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来した際に次の7つの宝物を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたしている。

 
羽太の玉(はふとのたま) 1箇
 足高の玉(あしたかのたま) 1箇
 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
 出石の小刀(いづしのかたな) 1口
 出石の桙(いづしのほこ) 1枝
 日鏡(ひのかがみ) 1面
 熊の神籬(くまのひもろき) 1具

 
 これを7種類の宝物だと思ってはいけない。これは、ユダヤの神宝である7枝の黄金の燭台「メノラー」のことなのだ。そして、その「メノラー」とは「生命の樹」の象徴でもある。

 

7枝の燭台「メノラー」

 

 現在のユダヤ人が作っているメノラーのレプリカは勘違った姿になっている。それは「首」と「脚」が違うのである。メノラーは7枝の燭台だが、その7つの燭台部分の形は「蛇の頭」なのである。つまり7本のロウソクの火で象徴するのは、7本首の大蛇なのである。そして、台座に乗せる部分のメノラーの脚は8本脚で、それもまた蛇なのである。つまり「八又」の大蛇のことで、ヤマタノオロチの姿になっているのである。なぜ脚が8本だと言えるのかといえば、『日本書紀』の同条に記された別伝には以下のようにあるからだ。

 

 天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は新羅王子であると自称し、「日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た」と語ったという。もちろん、聖王とは神武天皇=応神天皇のことである。ここに出てくる三輪氏も倭氏もともに物部氏系の氏族である。そして次の8つの宝物を献上したとなっている。

 
葉細の珠(はほそのたま)
 足高の珠
 鵜鹿鹿の赤石の珠
 出石の刀子
 出石の槍
 日鏡
 熊の神籬
 胆狭浅の大刀(いささのたち)


 8つの宝物とは、メノラーの8本脚のことであり、メノラーを置くための台座のことでもある。そして、天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許したとある。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいた後、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住したという。このメノラーがもともと置かれていたのは「隠岐」である。隠岐の神宝だったが、それを強引に引っ越させ、「但馬国」(たじまのくに)に持ってきたのである。

 

 但馬は、現在の兵庫県北部に位置し、北は日本海、南は播磨地域及び丹波地域、東は京都府、西は鳥取県に隣接している。これが伝えているのは、「但馬」とは「丹波」のこと。「たじま」と呼んでいるが「たんば」とも読める。丹波から丹後、西は現在の山口県、北東は越前、東は近江、南東は尾張を含む大和をグルッと囲む広大な地域を支配していたのは「魏志倭人伝」に「投馬国」(とうまこく)あった海部氏が支配した地域であり、それは巨大な「大丹波王国」といえるものであった。つまり、隠岐から移動させたメノラーを海部氏が支配する「籠神社=真名井神社」に鎮座させ、それを最終的に「出雲大社」へと持っていったのである。隠岐の人たちが今も出雲のことを大嫌いなのは、ユダヤの神宝メノラーを奪われたからなのである。

 

メノラーの移動と大丹波王国

 昔から出雲大社の謎の一つにその御神体は何かということがある。ここのご神体も伊勢神宮と同様に、一切見れないからだ。一般的には、御神体とは神が宿るとされる剣や玉、石、男根などの場合が多い。古代の出雲神族だった富正雄氏は、出雲のご神宝「勾玉」(まがたま)を奪ったのは物部氏だと語っている。仮に上古の出雲の神宝が「勾玉」だったとしても、それは現在の出雲大社にはなく、現在のご神体でもない。

 

 出雲大社の天井に描かれているのは「八雲」といいながら、雲が7つしかない。7つの燭台から立ち上がる煙は七条だからだ。だが、そのメノラーを作らせたのは創造神ヤハウェであり、ヤハウェが顕現する時には必ず巨大な雲が湧き上がる。だから「ヤハウェの雲」という意味を隠しながら。メノラーに7本のロウソクを立て、ヤハウェを降臨させていたということが正体で、「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣作る その八重垣を」の歌がスサノウが詠んだ日本最初の和歌とされる理由でもある。

 


出雲大社の「七つの雲」の天井絵とメノラー

 

 出雲国造・千家尊統氏が書かれた『出雲大社』という本では、御神体について触れている。1031年10月17日、源経頼(みなもとのつねより)が記した『左経記』(さけいき)に、出雲大社が転倒した際、七宝で作った宝殿があり七宝の筥(はこ)が御正体である、と言っている。七宝とは異説はあるが金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)のことである。また、1638年の郷土史「雲陽秘事記」(うんようひじき)によれば、松江藩初代藩主・松平直政が出雲大社に参拝した際、国造の制止を無視して御神体を見たところ、御神体は九穴の鮑(あわび)で、それがたちまち10尋(約18m)の大蛇に姿を変えた、とある。なんでアワビが大蛇になるのか。

 

 それは正体がメノラーだからである。9本の穴とは9つの頭の竜ということを象徴し、それを「九頭竜」ともいう。九頭竜は頭は9つだから八又で、正体はヤマタノオロチ、メノラーとなるが、ここにはもう一つの可能性も示唆している。松平直政が見たというご神体の正体は9本枝の燭台「ハヌカー」のレプリカだった可能性があるからだ。なぜレプリカとするのかといえば、「ハヌカー」は最初はメノラーとともに出雲大社に鎮座していたが、その後に「神魂神社」へと移動させられたからだ。神魂神社の宮司家である秋上氏は物部系で、出雲大社のご神体を奪ったことを今も誇りに思っている。今から1700年くらい前の話しなのにである。このエリアの方々は時間軸ではなく空間軸で生きているということだ。

 


「ハヌカー」とその象徴「九頭竜」

 

 出雲大社では、2008年に行われた「仮殿遷座祭」(かりでんせんざさい)で、御神体が鎮座する神輿を十数人の神職が担いで運び出したが、重そうであったという。それはメノラーが黄金でできているからだ。それは最低でも8人以上の男でないと運べない重さらしい。どれだけの重さがあるのかは分からない。当然、この儀式も非公開であり、夜に行われるものである。ご神体メノラーであることを示唆しているのが、御神体が鎮座する畳の形が八角形だということである。

 

 この八角形の畳はそんなに大きくなく、1m四方程度らしい。出雲大社にはその姿を記した書が残されている。

 


 

 源義経の元服の謎を解き明かしていたのに、思わぬ方向に向かってしまった。最近はどうもこういう現象が続いてしまう。源義経に嫌われているのか。はたまた解き明かしは不要と言われているのか。どうも分からない。だが、そこをクリアせずには前には進めない。

 

<つづく>