「大和と日本」の謎:その30

 

 『成吉思汗は源義経なり』の著者である小谷部全一郎は、自伝によれば少年期に『義経再興記』を読んで以来、アイヌ問題に興味を持ち続けたとされる。アメリカ留学中に牧師になるが、帰国後まもなく聖職を辞し、家族で北海道に移住してアイヌ子弟を救済・教育する事業に取り組んでいる。そして、アイヌの人々が信仰する「オキクルミ」が源義経ではないかという話から、改めて義経伝説に関心をもち、その後シベリア出兵時に陸軍通訳官として赴任、「成吉思汗=義経」の痕跡を調べるべく満蒙を精力的に調査、1920年帰国する。この独自調査・解釈に基づき、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡って成吉思汗:ジンギス・カンとなったことを確信し、大正13年(1924年)に『成吉思汗ハ源義經也』を出版している。

 「義経=チンギス・カン説」を紹介した最初の外国人は、江戸時代にやってきたシーボルトであったが、明治初期のお雇い外国人グリフィスもまた、この説をアメリカで紹介している。1876年、グリフィスは、明治維新までの日本史を網羅した「The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』もしくは『皇国』)」 をニューヨークで出版。源義経の死に関する一節の脚注で、中国の『Seppu』なる書に、「Genghis Khanは日本から来た源義経であると書かれている」としている。こうした説を唱えているのが、判官贔屓の日本人だけならまだ分かるのだが、どうも「義経=チンギス・カン説」は一筋縄ではいかないようだ。

 


左:シーボルト 右:グリフィス

◆グリフィスとフルベッキが果たした役割

 

 ウィリアム・エリオット・グリフィスは、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれ、オランダ改革派教会系の大学であるニュージャージー州のラトガース大学を卒業。このラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会っている。物部氏である。明治3年(1870年)末に日本に渡り、福井藩の藩校「明新館」で翌年3月7日から明治5年(1872年)1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。理科教師だが、牧師でもあり、帰国後は著述家、日本学者、東洋学者にもなった人物である。単純なお雇い外国人などと舐めてはいけない。

 

 明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者である福井藩が無くなったため、明治5年(1872年)、フルベッキらの要請により11ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学などを教えている。明治8年(1875年)の帰国後は牧師となるが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。1876年にアメリカで刊行した「The Mikado's Empire」(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)は、第一部が日本の通史、第二部が滞在記となっている。

 

グリフィス(中央)と大学南校の学生たち

 

 グリフィスが明治維新までの日本史を網羅した「The Mikado's Empire」で紹介している中国の『Seppu』なる書は、中国で刊行された伝説及び雑史を集めた書物である。グリフィスは『Seppu』に記されていた内容について、以下のように紹介している。

 

 「Genghis Khanは日本から来た義経であったと述べられている。Minamoto Yoshitsune は中国語では Gen Gike(ママ)である。彼はその有名な死後、Temujin(or Tenjin)とも呼ばれた。周知の通り、モンゴルの征服者が最初に登場したときの名はTemujinだった。日本のアイヌは義経を判官大明神(偉大なる立法者)という称号で神格化した。義経は1159年に生まれた。有名な死を迎えた時は30歳だった[満年齢:引用者注]。Genghis Khanは、一般に認められているデータによると、1160年に生まれ、1227年に没した。Gen GikeとGenghis Khanが同一人物であるなら、英雄は38年間の功績を残した。Genghis Khanは血まみれの手で生まれたとされている。シャーマン(霊感を受けた予見者)の言葉に従い、彼はGenghis(greatest 史上最高)という名を用い、自らの民をMongols(bold 果敢)と呼んだ。地上全体の征服が彼に約束された。彼とその息子は、中国と朝鮮を征服し、バグダッドのカリフ制を打倒し、モンゴル帝国をオーデル川とドナウ川まで広げた」

 以上のように、チンギス・ハンは英語で「Genghis Khan」と表記されており、源義経=Gen Gike=Genghis、天神=Tenjin=Temjin(テムジン)の音韻の類似性から同一人物の可能性が示唆されている。さて、この真偽を明らかにする前に、まず、グリフィスが何者なのか、なぜこの「The Mikado's Empire」を著したかであるが、「フルベッキ群像写真」でも知られるかのフルベッキと同様に、アメリカから送られてきた存在である。但し、フルベッキは江戸時代末期に日本にやってきたが、グリフィスは維新後である。その意味では役割は違う。グリフィスの役割は日本という国の調査である。どんな宗教を奉じ、国民の生活レベルがどんなものだったかを徹底的に調査する一員だったということだ。

 

 アメリカは明治以降、一貫して「日本通」を育ててきた。それは近い将来、日本をどのようにしたら支配できるか、それを企んだ人間たちに育てられたきた人間ということだ。本人はそれに気づいていないだろうが、明治以降、アメリカは様々な人材を送り込んできている。特に「教育」という名のもとおいて、キリスト教徒を育成するための援助を惜しまなかった。それが日本全国にあるキリスト教系の学校である。さらにこうした人物には「札幌農学校(現北海道大学)」の初代教頭として招かれたクラーク博士などもいる。だが、フルベッキは違う。

 

左:グリフィス 右:フルベッキ

 

 筆者の過去の連載「裏神道『陰陽道」』の中で、明治維新の中心人物はフルベッキその人だとしたが、それは1871年に明治天皇から勅語を賜ったり、大学南校を辞職した後には政府左院翻訳顧問となっている。さらに、アメリカン・ボードの牧師らと旧約聖書翻訳委員を務め、1898年に68歳で没した際には、明治天皇は葬儀に際して多額の寄付をし、さらに青山墓地に広大な土地が提供され、退役将校まで動員して葬儀隊行進までさせている。これは明治天皇から「感謝の意」である。

 

 

 グイド・フルベッキとはどんな人物だったのか。フルベッキと最も親しかったのが、実はこのウィリアム・エリオット・グリフィスなのである。グリフィスは彼のことをその著書『日本のフルベッキ』の中でこう評している。

 

 「フルベッキは、銀の反論や鉄のペンより、黄金の沈黙を選んだ」

 

 「フルベッキは沈黙を守った」という意味である。何について沈黙したのかといえば「明治維新」の真実である。フルベッキはグリフィスと同じキリスト教オランダ改革派の宣教師である。宣教師として派遣され活躍したが、法学者・神学者でもあった人物で、維新を成す英雄たちに「英語」を教えたとされているが、それはあくまでも表向きの話しである。なにせフルベッキは、平然とこうしたことを口に出しているのだ。

 

「救世主の敵として、ローマ・カソリックを嫌悪しています」

 

 多くの研究者は口を揃えてこう言う。「フルベッキはフリーメーソンである」と。明治政府を陰で操り、明治の天下人たちを掌の上に乗せていた絶大なる権力者だったのだと。こうした一連の発言や秘密裏の行動、維新成立後の政府要人たちとの関係性をもって、研究者の方々は悪の秘密結社フリーメーソン、イルミナティのメンバーで、トーマス・グラバーやアーネスト・サトウなど他の外国人たちとともに欧米支配勢力の礎となった人物なのだとする。

 

フルベッキ写真

 

 筆者の意見は少々異なる。たしかにフルベッキは「フリーメーソン」のメンバーだったが、ロスチャイルドが乗っ取ったイルミナティ傘下のフリーメーソンの配下だったのではない。なにせ、建国から100年間、アメリカはロスチャイルドとイルミナティを拒否していた国である。そして、アメリカの建国にはイギリスで作られたフリーメーソンではない、本物のヤフェトメーソンが関わっていたからである。さらに、フルベッキを日本に読んだのは日本の秘密組織、裏陰陽師の漢波羅秘密結社「八咫烏」である!

 

 「フルベッキ写真」と「明治天皇すり替え説」を陰謀論としたい方々はそう思いたいのだろうから構わないが、「八咫烏」よるこの国の仕掛けはそんな単純なものではないし、表の歴史だけを調べたところで分かるものではない。しかし、なぜフルベッキは日本に呼ばれて大切にされたのか。それは「開国」と天皇家を「南朝に戻す」ために尽くしたからである。この国は昔も今も「外圧」がないかぎり、扉は開かない仕組みになっている。「八咫烏」という組織は決して自分たちから扉を明けることはなく、太古よりひたすら國體を護持するだけなのである。だから「扉を明ける者」を導くのである。明治という扉を明けなければ、「終末の世」の「天岩戸」が開かないからである。

 


 さて、問題はここからである。「八咫烏」は古来より日本を呪術で支配する組織である。そして、常に裏側からこの国の歴史の要所に関与してきたが、時に歴史を動かす表の人物をも育ててきた。それが源義経である。

 

◆牛若丸と遮那王と義経

 

 義経は清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を「牛若丸」と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女で、父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に「鞍馬寺」の覚日和尚へ預けられ、稚児名を「遮那王」(しゃなおう)と名乗った。

 

 「遮那」とは「舎那」とも書くが、これは「毘盧遮那仏」 (びるしゃなぶつ) 」の略であり、顕教では「舎那」、密教では「遮那」と表す。つまり、幼少の牛若丸は密教を伝授されたということだ。毘盧遮那仏は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊で、華厳経において中心的な存在として扱われる尊格であり、密教においては大日如来と同一視される。尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。もちろん大日経とは弘法大師・空海の教えであり、空海の説いた真言密教における大日如来とはイエス・キリストのことである。そこから推測すると、幼少の義経にはイエス・キリストの名前が密かに投影されていたということである。

 

東大寺毘盧遮那仏

 

  「毘盧遮那」とはサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。仏であることを明示するために、「仏」字を付して毘盧舎那仏と表現されることが一般的である。頭の文字を略して盧遮那仏、遮那仏とも表されるが、義経は「遮那王」である。毘盧舎那仏は史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた「宇宙仏=法身仏」のことであり、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏として『華厳経』に説かれている。この毘盧舎那仏を形にした仏像では、聖武天皇の発願により造られた、日本一の建造物であった東大寺の盧舎那仏像が知られている。

 

 以前の連載「『いろは歌』と『即身成仏』の謎」でも書いたが、東大寺の毘盧舎那仏像は、藤原不比等の墓への陰宅攻撃を仕掛け、藤原氏一族を呪った「石上氏=物部氏」への巨大な呪詛返しの装置であった。そして、「大仏」とは「大+人+ム」で「私は有る」といった現人神にして、再び日本に戻ってくるといしたイエス・キリストの象徴であるとした。そして、この日本最大の大仏に目をいれる「開眼式」において、宇佐八幡宮に安置されていた契約の聖櫃アークを運び出し、アークの力をもって「石上氏=物部氏」の呪詛を跳ね返したとした。要は秦氏が、共に正体が原始キリスト教である神道と仏教を合体させる仕掛けとして、この巨大な大仏を建立させたのである。

 

 だが、一般的に伝わる義経の物語としては、遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔、承安4年(1174年)3月3日の「桃の節句」(上巳)に「鏡の宿」に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って平泉に下ったとする。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝手をたどった可能性が高いのだと。『平治物語』では近江国蒲生郡「鏡の宿」で元服したとしているが、『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。


女装した牛若丸

 

 ここには意図的なものがある。だいたい源氏の若様が「桃の節句」に「鏡の宿」に自分で「元服」したという時点でおかしな話しだ。5月5日の「端午の節句」に元服したのならまだ分かるが、桃の節句に男子が元服すなどというのか非常におかしい。それも「鏡」という名が付く宿だ。ここには牛若丸が女装して弁慶と戦ったという話しも絡んでくる。なぜ、牛若丸は女装をする必要があったのか。さらに自分で名前を「義経」としたというのだ。これらは全て義経の本当の姿を隠すために作られた話しである。

 

 「桃の節供」とは「雛祭り」である。「雛祭り」とは秦氏=お雛様と物部氏=お内裏様が一体となる預言の象徴である。天照大神は「女神」とされている。天照大神が天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けたのは三種の神器であり、中でも「八咫の鏡」は天孫瓊瓊杵尊の降臨にあたって「私の御魂として私自身をあがめるように祀れ」と天照大神が命じ、五十鈴宮に祀ったと伝承される伊勢内宮の御神体である。さらに「牛若丸=遮那王=義経」には、もう一つ「鏡」の話しが出てくる。それは「源平の合戦」ある。

 

 義経は水軍を編成して彦島に向かい、「壇ノ浦の戦い」で勝利して、平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した「鏡璽」(きょうじ)を奉じて4月24日京都に凱旋している。「鏡璽」とは、平氏が安徳幼帝と脱出した際に持ち出した三種の神器の「八咫鏡」のことである!義経は源平の合戦で、海に沈んだとされる三種の神器のうち、「八咫鏡」を持ち帰ったのである。

 

「壇ノ浦の戦い」の義経

 

 いったい、源義経とは何者だったのか。もし、義経がジンギス・カンだったのなら、それは大変なこととなる。なにせ、人類史上最大の帝国を作った人物である。そして、その後ろには「八咫烏」がいたとなると、日本の歴史どころではなくなる。まさに世界史の要所にも八咫烏が関与していたことになるのだ。となると、義経の元服とその名前には秘密が隠されているということだ。いったい、牛若丸とは何を意味し、自分で名づけたという義経には、どんな意味を込めたのだろうか。

 

<つづく>