「大和と日本」の謎:その26

 

 富士王朝が滅亡した決定的な要因は天変地異であったが、それを引き起こしたのは「契約の聖櫃アーク」を用いた呪術であった。創造神ヤハウェ=イエス・キリストは神武=崇神=応神天皇に東西日本を支配する権能を与えた。それが「鳥見山」における初の大嘗祭の意味であった。だが、外物部氏はこれに逆らってしまった。ここで富士王朝の運命が決まってしまった。なにせ外物部氏も物部氏であり、彼らが奉じたのは絶対神ヤハウェである。モーセに逆らったイスラエル民族が次々と滅ぼされたように、彼らもまたヤハウェの逆鱗に触れ滅ぼされてしまうこととなった。

 

「鳥見山」での大嘗祭

 

 創造神ヤハウェの怒りを外物部氏に見せつけるため、秦氏は「契約の聖櫃アーク」を持ち出し、問答無用で滅ぼすこととした。それが創造神ヤハウェの命だったからである。「真アーク」を使って滅ぼしたのは武内宿禰であった。それは古代神話においては「ヤマトタケルノミコト」の東征として描かれている。創造神ヤハウェは契約の聖櫃アークに臨在、第2のシナイ山である富士山を大噴火させたのである。そして、頑なな民である富士王朝の外物部氏たちに神の怒りが注がれ、富士王朝は滅亡したのである。しかし、この時に外物部氏が全て滅ぼされたわけではない。生き残った外物部氏はさらに東へと移動していった。

 

◆「日下」と「日本」

 

 日本は「ヒノモト」とも読み、「日の本」と書くが、「日の下」という表記もある。「日下」は「クサカ」と発音し、大阪の地名になっており、「草加」「草香」「孔舎衙」(東大阪市)とも表記する。そう、長髄彦が神武軍を迎え撃った場所である。こちらは地名だが、これを人名でいえば、姓では「日下」「日下部」が知られるが、いずれも「物部氏」である。「日下」は「くさか」と読み、その氏族のことを調べると①日下連 ②日下宿禰 ③日下部氏(古代日下部の職名から起こり、多くはその部民の末。草壁ともいう) ④安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫) ⑤徳島藩の士族 などと出てくる。これらの中で安倍氏の祖先で第八代・孝元天皇の孫というならば、それは武内宿禰のこととなる。つまり、これは嘘である。

 「くさか」は「日下」以外にも「久坂」という苗字にもなっているが、「日下」を「につか・じつか」と読むと、「日光の下。天下。都。太陽が照らす下。」といった意味になる。物部氏の伝承では、饒速日命は生駒山のふもとに広がる「日下」の歴史に登場する「草香山」「饒速日山」(にぎはやひやま)といった名称にも名残を残している。そもそも「日下」と書いてなぜ「クサカ」と読むのかということだが、その語源にはいろいろな説がある。中でも、古くは「日の下(した・もと)のクサカ」という言い方があり、「クサカ」の地が、山越え道を通じて大和の入口にあたる重要な地として早くから開かれ、「クサカ」の背後に連なる生駒山から上る太陽、つまり「日下」(ひのした)を「くさか」と訓むようになったという説が有力とされる。

 

生駒山から上る太陽


 『古事記』や『日本書紀』における「神武東征」の物語には、皇軍が日向から筑紫~吉備を経て大阪湾のさらに奥、生駒山のふもと日下の入江にあった「河内国草香邑青雲白肩之津」に上陸したことが書かれており、大和への入口の地として初めて「日下」の地名が登場する。皇軍は大和へ入るため、一度は南下して龍田に出ようとするが難行して再び引き返し、直ちに東へ向かって膽駒山(生駒山)を越えようとするが、これを知った長髄彦は、孔舎衛坂(くさえのさか)で応戦したため、皇軍は後退し、兄の五瀬命(いつせのみこと)も負傷、後に亡くなったとしている。
 

 これは、東方の日=太陽に向かって進んだための不吉であるとして草香津へ引返し、盾を立て並べて雄叫びしたので、この津を「盾津」と改めたという話はよく知られている。これは非常に呪術的な話しである。「太陽に向かう」というのは「天照大神」に立ち向かうことを意味するため「不吉」となるのである。だからこそ、神武天皇の軍は後に熊野を迂回して、太陽を背にして大和に向かうのである。そこで再び長髄彦と対峙した時、「金色の鳶(とび)=金鵄」が飛んできて、神武天皇の弓矢に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなったとなっている。

 


神武天皇の弓矢に止まった金鵄

 

 生駒一帯は物部氏の拠点で、祖神「饒速日命:ニギハヤヒ命」が降臨した「哮峰」(たけるがみね)がある。そもそも『日本書紀』によれば、「日本」という国号を定めたのはニギハヤヒ命である。神武天皇ではないのである。ニギハヤヒは哮峰に降臨すると、辺りを見渡し「虚空にみつ日本国:空に輝く日本の国」と褒め称えている。この場合の「日本」の読みは「ヤマト」だが、国号の表記はこれが初出である。

 

 哮峰周辺が「日下」と呼ばれるのは、これが理由なのである。そして、「日本」という国号と物部氏は深い関係にあった。徐福の2度目の渡来で「クニ」を九州に作った物部氏は、九州から畿内へやってきたとき、自らのクニを「日本」と称したのかもしれない。あるいは、日本と書いてヤマトと読ませたが、これに中国人が中華思想による卑しい文字を当てて邪馬台と表記した可能性もある。「下」は上や中に対し、低いところやふもとを表す。「日下部」(くさかべ)という姓は「ひかべ」と読む場合もある。もちろん物部氏の末裔である。

 

 

◆「日高見国」と「大倭日高見国」

 

 ニギハヤヒは天孫降臨した地を「日本=ヤマト」として支配したが、時の経過とともに「日本」という表記は、しばし忘れ去られてしまうこととなる。理由は海部氏の「投馬国」との統合である。海部氏の「卑弥呼」が「邪馬台国(倭)」の女王に推戴されたとき、反発した物部氏は東日本に逃れ、外物部氏として「狗奴国=富士王朝」を作った。が、狗奴国の正式な国号は「日高見国」である。太陽を高く仰ぎ見る国という意味だ。

 

 この時代に日本列島が回転し、現在の日本列島の位置関係になったとき、東日本は太陽が昇る方角に収まった。まさに「日の本」になったのである。つまり、ニギハヤヒ命が名付けた「日本」という名称は、外物部氏によって継承され、日高見国となったのである。これによって、古代において日本列島には「倭」と「日本」という2つの国が存在することとなったのである!これは「日本」が「ニッポン」でも「ニホン」でもある意味なのである。

 

 ここで一つ「狗奴国」について解き明かされていないことがある。かの有名な「漢委奴国王印」である。AD57年に日本に伝来した「漢委奴国王」の金印は、57年の朝貢の際に印綬を受けた「漢委奴国王」の金印の印文の「奴」と3世紀末の「魏志倭人伝」に記載されている「奴国」(ナコク)が同字であったこと、また発見場所がかつて「奴国」が存在していたとされる地域と距離的に近かったことの偶然が重なったため、印文の「奴」が国名(地名)の「奴」と同じものであるとされてきたことである。

 

「漢委奴国王印」の金印

 

 先ず、57年の「漢委奴国王」と3世紀末の「魏志倭人伝」に記載されている当時の日本の数多く紹介されているの国名(地名)の中の一つの「奴」とは200年もの時間差がある。200年後に「魏志」倭人伝に登場する「奴国」(ナコク)という名称は「漢書地理志」には見当たらず、金印が下賜された1世紀頃は、まだ不明とするのが妥当とされる。

 仮に57年の朝貢の際、使者が「倭」の中の「ナ」というクニの王の使いで来たのだと言ったとした場合、漢廷が名付けた「委(倭)」の後に自称である「ナ」を聞き入れて、それを音表記して「奴」という字を用いて「委(ノ)奴国」という称号を与えたりするものだろうか。その考え方はあまりにも無理があり過ぎる。ちなみに「イト」と読んで奴国に近い「伊都国」に与えたとする説も同様の考え方で、これもあり得ない。

 

 「魏志倭人伝」によれば、239年に邪馬台国の女王「卑弥呼」が魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受けとったと記されている。もし57年の称号の「漢委奴国王」の「奴」が北九州にあったとされる「奴国」(ナコク)の「奴」から名付けられたというのであれば、卑弥呼の称号も同じ手法をとると「親魏倭邪馬台国王」としなければならない。だが、相手方の国名を二つも並べることはなく「邪馬台国」の国名は「親魏倭王」の称号の中に一文字も入っていない。このことからしても57年の「漢委奴国王」の「奴」は「奴国(ナコク)」の「奴」でないことは明白である。

 

 

 「漢委奴国王」の「奴」は「奴国(ナコク)」ではなく、「狗奴国」のことなのである。「邪馬台国」も「狗奴国」も、その王「卑弥呼」と「卑弥弓呼」はともに物部氏である。時代は下ったものの、ともに「秦の始皇帝」が三神山の島へ送り込んだ徐福の末裔で「ヤマト」の民だったのだ。「親魏倭王」の称号を与えられたのは卑弥呼だったが、「漢委奴国王」の称号を与えられたのは「狗奴国」の王だったのである。

 

 日本人は「匈奴」のことを「キョウド」と読むが、本来、「匈奴」は「フンヌ」を同音の漢字で表記したものである。「匈奴」は漢との抗争の末、徐々にに西へと追いやられ、その末裔たちは「フン族」と呼ばれるように成った。名称としては「フン族」とは言うが「フンヌ族」とは言わないことからも「ヌ」には「族」の意味があるのだ。57年の朝貢の際、漢王は「匈奴」にちなんで「委(倭)奴」と名付けたのである。西の「匈奴」に対して東の「委(倭)奴」と名付けたのである。但し、この「奴」は蛮族として見下していたことも表している。

 

 3世紀の日本列島には「倭」と「日本」という2つの国が存在した。神道の「大祓詞」(おおはらえのことば)には「大倭日高見国」という言葉が出てくる。一般に「日高見」は「大倭」の美称だと解釈されるが、順序が逆である。美称なら「日高見大倭国」である。つまり、これは「大倭」と「日高見」という2つの国が存在していたことを示しているのである。

 

 

 「大倭」と「日高見」という2つの国を併記することで、東日本と西日本が合体した「秋津州」(あきつしま)を表現しているのである。日高見国は当初、富士山麓を中心とした地域を指していたが、外物部氏の東遷によって徐々に拡大。青森県にまで及ぶ広い地域を意味するようになった。茨城県の常盤は「日立」であり、「日高見国」のこと。岩手県の「北上」もかつては「日高見」だった。北海道の「日高」も日高見のことで、その領域が北海道全域に及んだということである。

 

 青森県東北町には「日本中央の碑」がある。征夷大将軍の坂上田村麻呂が矢尻で書いた石碑だというが、問題は「日本中央」という表記である。なぜ、日本中央なのかといえば、この「日本」とは日高見国のことなのである。日本列島ではなく、あくまでも「日本」であり、それが樺太や千島まで含んだ領土と考えれば、青森が中央となる。青森を拠点とした安藤氏(安東氏)が「日之本将軍」を自称したのはそのためなのだ。この安東氏の後裔である旧・子爵秋田家には、家祖の安倍貞任を長髄彦の兄弟である安日彦の子孫とする系図が残っており、このため安東氏を「蝦夷」とする見解と蝦夷ではないとする見解の対立がある。

 

「日本中央の碑」

 

 前回も書いたように、長髄彦は旧・出雲神族のアイヌである。その兄弟の末裔ならば、「蝦夷」とされたアイヌのこととなる。西日本のヤマトにとって、東日本の外物部氏に率いられたアイヌ、イヌイットの末裔たちは、常にヤマトを脅かす存在として抑え込む対象だったのである。その呼び方が「蝦夷:エミシ」なのであり、「エミシ」は江戸時代に入って 現在の北海道を中心に、樺太 ・千島を含む地の総称を「蝦夷 (えぞ) 」としたのは、東北からさらに北へ追いやったことで呼び名を変えたのである。これは呪術なのである。

 

 「日本」とは東日本のことだというのは豊臣秀吉にもあり、その手紙の中で秀吉は「奥州」を「日本」と表現している。つまり、この国が一つの「日本国」となったのは明治だったのである。

 

<つづく>