「大和と日本」の謎:その25

 

 「契約の聖櫃アーク」は、創造神ヤハウェの命を受けてモーセが作らせた箱だが。その威力は凄まじい。「サムエル記上」にはこうある。

 

 主の箱がイスラエル軍の陣営に到着したと知ると、 ペリシテ軍は、神がイスラエル軍の陣営に来たと言い合い、恐れて言った。「大変だ。このようなことはついぞなかったことだ。 大変なことになった。あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ。(「サムエル記上」第4章6-8節)

 この一文を見ると、ペリシテ軍は「神」と戦うことを認識していたということだ。なにせ契約の聖櫃アークの上には創造神ヤハウェが降りてくるのである。さらに、神の御業によって聖櫃アークは自然も制御してしまう。

 

  こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」(「ヨシュア記」第4章7節)

 主はヨシュアに言われた。 「掟の箱を担ぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させなさい。」ヨシュアが祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来い」と命じ、 主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。(「ヨシュア記」第4章15-18節)

 

 

 川を堰き止め、角笛とともに一緒に鬨の声を上げると城壁も崩す兵器である。アークとともに呪文を唱えると、大勢の人間を滅ぼすこともできる。「疫病」も発生させるとある。神の怒りを買えば、たとえ「ヤ・ゥマト」であっても瞬時に滅ぼされるのである。

 

 イスラエルの人々の共同体全体は、モーセとアロンに逆らって、「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と不平を言った。 彼らがモーセとアロンに逆らって集結し、臨在の幕屋の方を向くと、見よ、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていた。 モーセとアロンが臨在の幕屋の前に進み出ると、 主はモーセに仰せになった。 「この共同体から離れなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」二人はひれ伏した。(「民数記」第17章7−10節)

 

 モーセはアロンに言った。「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、急いで共同体のもとに行って、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい。主の御前から怒りが出て、もう疫病が始まっている。」(「民数記」第17章11節)

 

 さらに気になるのが「草薙剣=アロンの杖」の存在である。アロンの杖は「魔法の杖」とされるが、その魔法は絶対神ヤハウェが起こすものである。本連載でも書いたが、四国で反抗がやまなかった時、秦氏の呪術師は山の頂上にアークと草薙剣を置き、呪文を唱えて反抗した民を滅ぼしたことで、その山の名が「剣山」となったという。この際、呪術師は絶対神ヤハウェを降ろしたのである。たとえ同じ民族であろうと、徹底的に滅ぼすのである。

 

 主はモーセに言われた。「アロンの杖を掟の箱の前に戻し、反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい。そうすれば、わたしに対する不平がやみ、彼らが死ぬことはない。」 モーセは、主が命じられるままにし、そのとおりにした。(「民数記」第17章25−26節)

 

 

 『宮下文書』にある「武内宿禰」が不二阿祖太神宮を訪れたという記述が、もし、武内宿禰の末裔のモーセ系大祭司が「契約の聖櫃アーク」を持ってきたことを意味するならば、富士山を噴火させることもできたはずである。なにせ創造神ヤハウェは「火の神」であり、ヤハウェがモーセに「十戒」を与えたのもシナイ山という「火山」だったからだ。ある意味で、「火山の噴火」というのは「ヤハウェの怒りの象徴」とも言える。そこに上下本物の「真アーク」が運び込まれ、モーセの末裔の大祭司が呪文を唱えたならば、富士山は確実に噴火することとなる。不二阿祖太神宮はひとたまりもなかったはずであり、それこそヤハウェの怒りを買った富士王朝は滅亡させられたはずである。

 

◆「長髄彦」と「出雲神族」

 

 物部氏+海部氏の連合王国だった「邪馬台国」も同じであった。神武=応神天皇が「神武東征」として知られる畿内を制圧しに来た時、最後まで抵抗したのは、物部氏の将軍であった「長髄彦」(ながすねひこ)であった。彼は最後まで聞く耳をもたずに謀されたとされている。『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の「邇芸速日命」(ニギハヤヒ)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに「神璽」=「契約の聖櫃アーク」を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため「饒速日命」(ニギハヤヒ)の手によって殺されたとされる。

 一方、物部氏の歴史を記す『先代旧事本紀』では、神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に饒速日命は亡くなっており、物部氏の祖「宇摩志麻遅命」(ウマシマジ)が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため、長髄彦を殺したとする。どちらが本当の話かは分からないが、長髄彦が亡くなったことに変わりはない。だが、非常に気になることがある。それは、本当に
長髄彦とは何者なのか、ということだ。

 

神武天皇と長髄彦

 

 「ナガスネヒコ」は、『日本書紀』では「長髄彦」であるが、『古事記』では「那賀須泥毘古」、また「登美能那賀須泥毘古」(とみのながすねびこ)、「登美毘古」(とみびこ)とも表記される。この「登美氏=富氏」は古代出雲王族とされる。物部氏が出雲を制する前の古代出雲族の王家であった「富氏」(とみし)の伝承によれば、出雲族が元々奉祭していた神は、大国主命(オオクニヌシ)や事代主命(コトシロヌシ)ではなく、「クナト大神」とその姫神「幸ノ神」、そして子神の「サルタヒコの命」の3神で「クナト大神」は別名を「幸ノ神」「塞の神」(さいのかみ) とも呼んだという。さらに「道祖神」でもあり「くなど」ともいうが、男神と女神は同じ神という。

 

 この「クナトの大神」は、「日本書紀」では「岐神」として登場し、「古事記」では「衝立船戸神」と呼ばれている。現在は、出雲大社の東方にある富家の神社である「出雲井神社」に、「久那戸大神」として祀られている。吉田大洋氏の「謎の出雲帝国」には、古代出雲と大和地方について語る「出雲神族」の王家の末裔で、一子相伝の「口伝」により古代の歴史を伝えてきた「富當雄氏」の伝承が色々と掲載されている。それによると「出雲神族」は東北方面から出雲に移住してきたということである。なかでも注目すべき口伝に、『我々の大祖先は、「クナト(岐神)」の大首長だが、もうひとつの隠された女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、「クナト」は「地蔵」に、「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した』とある部分だ。

 

 

 

 北海道・倶知安のアイヌ酋長の話によると、アイヌの古語で「クナト」は「男根」、「アラハバキ」は「女陰」の意味で、本来は一対のものだったという。要は陰陽で男神も女神も一つで、「素戔嗚尊=天照大神」ということである。が、問題は「アイヌ語」ということであり、出雲神族のの大祖先は「クナト:岐神」の大首長で、女首長に「アラハバキ:荒吐神」がいたという部分である。「アラハバキ」とは、主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神である。記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神で、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などとも表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多く、これは、「元々は主神だったのが、客人(まれびと、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる)。

 この部分こそが、「出雲神族」の王家の末裔である富
氏が伝えようとしたことなのである。物部氏が支配する前の古代の出雲神族とはアイヌ民族だったのである。なにせ富氏は物部氏を嫌う。天之日矛、八咫烏も全て敵だったと語っている。それはアイヌ民族が海部氏、物部氏、秦氏によって、徐々に東国へと追いやられ、残った出雲神族はひっそりと生きたことを伝えているのである!このことを研究者も、また富當雄氏のご子息で『出雲と蘇我王国』などの著書がある斉木雲州氏も理解されていないのである。なぜ、そう言えるのかといえば、出雲神族は「口承伝承」であり、文字を持っていなかったからである。

 

 さらに東北地方で「アラハバキの神」として登場するものに遮光器土偶があるが、遮光器はイヌイットの文化であり、土偶の文様は全身の入れ墨である。遮光器は本来インカ系縄文人のアイヌの文化ではないのである。なぜ、そういうことが起きるのかと言えば口承伝承だからである。だが、その中でも「アラハバキ」のことが「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと残されているのは、アイヌやイヌイットが支配していた関東以北を、西から逃れた物部氏=外物部氏が王として支配したからなのである。このことも誰も書いてはいない。

 

「アラハバキの神」とされる遮光器と全身入れ墨の神


 さらにアラハバキの神は、各地の神社では「脛」(はぎ)に佩く「脛巾」(はばき)の神、また「足の神」とされてきた。実施、多賀城市の「荒脛巾神社」の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。明治の神仏分離以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長脛彦」とされることがある。もっとも古史古伝『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、「アラハバキ=縄文の神」説、「蝦夷の神」説は定着している。

 

 そう、長髄彦とはもともと物部氏ではなかったのである。物部氏が畿内に進出して「邪馬台国」を建国する以前の畿内に住んでいたアイヌ民族だったのである。だからこそ、長髄彦はその名を「登美能那賀須泥毘古」(とみのながすねびこ)、「登美毘古」(とみびこ)と言い、「登美夜毘売」(とみやびめ)、あるいは「三炊屋媛」(みかしきやひめ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯に降臨し、その後大和国の鳥見(とみ)の白庭山に移った饒速日命の妻とし、仕えるようになったのである。これは物部氏による大和のアイヌ系民族の支配の話だったのである。

 

 長髄彦には旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近に勢力を持った豪族という説がある。生駒市白庭台の住宅地には長髄彦の本拠地があった場所とされる碑が建っている。また、『曽我物語』等では「安日彦」(あびひこ)という兄弟がいるとされ、中世の武将の安藤氏(後の子爵秋田家)が長髄彦の子孫であると自称している。これが何を示すのかといえば、長髄彦の末裔たちは外物部氏とともに東へ、そして北へと移住を繰り返し、日高見王朝を継承していったということである。

 


長髄彦と饒速日命


 『日本書紀』神武紀には、神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、「孔舎衛坂」(くさえのさか)で迎え撃ち、この時の戦いで天皇の兄の彦五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。その後、長髄彦は八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。この時、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなったとなっている。『日本書紀』には、この「とび」というのは、長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で「鳥見」(とみ)という地名が神武天皇の「鳶(鵄)」に由来すると記されている。

 

 その後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べる。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢(あめのはばや)と歩靱(かちゆき)=アークを見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命に殺されたとされている。

 

 長髄彦という名前には「 脛(すね)の長い異形の巨人」という意味がある。ヤマト王権に反抗したゆえの蔑称とみられるが、その一方で記紀は長髄彦が神として奉じた饒速日命を正統な神として認めている。何故か。それは饒速日命は物部氏だったが、長髄彦はアイヌ民族だったからである。その末裔は外物部氏とともに大和朝廷に反抗し続けたからこそ、長髄彦は神にはされなかったのである!

 

 

 

『東日流外三郡誌』が伝える長髄彦と安日彦

 

 「邪馬台国」は徐福子孫である物部氏と出雲王家子孫たちで誕生したものである。だが、後期「邪馬台国」は「投馬国」の海部氏が支配した前期大和朝廷ともいえる「大倭」のヤマトであった。富家の伝承によれば、出雲王国の主王・副王は相次いで殺害され、その皇子たちは秦から渡来した者との共生を嫌い 大和葛城地方に移住したという。大国主の皇子、味鋤高彦(西出雲神門臣家)は南葛城へ、事代主の皇子奇日方(東出雲向家)は中葛城へ、そして徐福の息子・五十猛(移住後は香語山と名乗る)までも葛城北部(笛吹)にやってきたのだという。
 

 初代・大和大の王「天の村雲」(あめのむらくも)に始まる磯城王朝は次第に東進、現在の桜井市付近に至る。桜井市に「等彌神社」(とみじんじゃ)と「鳥見山霊畤」(とみやまれいじ)はその名残だとする。奇日方の子孫は「登美家」(とびけ)と呼ばれ、出雲王家の向家は「富家」(とみけ・とびけ)とも呼ばれたという。その「登美」(とび)の名前が今も桜井市のあちこちに残っている。「鳥見山」(とみやま)も元々は「登美山」と呼ばれており、付近の地名は今も桜井市「外山」(とび)である。この地の宗像神社は「登美坐宗像神社」が正式名称である。そして、「鳥見山霊畤」とは「登美霊畤」であり、太陽神を祀る三輪山を「登美の霊畤」から遥拝し、神事を行う祭政一致の政治行事を行う広場の事だったのだとしている。

 

 神武天皇は大和朝廷が成立したことにより「鳥見山」で即位、初の大嘗祭を行った。これは西国を支配下に置き、海部氏・物部氏とアイヌ民族を制圧したことで、その名を「登美」から原始キリスト教の象徴である「鳥」を使って「鳥見」としたということを物語っているのである。だが、まだ反抗を続けた外物部氏たちが東国を支配した。彼らは大和朝廷が開かれた後も、富士王朝として独立を保ったが、富士王朝は狗奴国である。同族の海部氏の卑弥呼でさえ受け入れなかった外物部氏が、新たな大和朝廷を受け入れるとは思えない。イエスをメシアとして受け入れなかったパリサイ人のように頑固なのだ。ならば、だ。頑ななミツライム系ユダヤ人を変えるのは、もはや実力行使しかなった。ヤマト=日本の王権の正統性を表す「契約の聖櫃アーク=真アーク」を持ち出して、彼らを制圧する以外に方法はなかったのである。

 

 

 富士王朝が滅亡した決定的な要因は天変地異である。富士山麓にあった富士王朝の都を壊滅させたのは、800年の延暦噴火、864年の貞観噴火、そして1707年の宝永噴火である。これにより富士王朝は火山灰に埋もれ、溶岩に飲み込まれてしまった。が、それはあくまで表の話で、科学的な見解である。神道呪術としての真実は異なる。

 

 創造神ヤハウェ=イエス・キリストは神武=崇神=応神天皇に東西日本を支配する権能を与えた。このことを外物部氏に見せつけるため、契約の聖櫃アークを持ち出したのだ。もはや問答無用だったのである。真アークを取り扱ったのはモーセ系大祭司であった。彼らは創造神ヤハウェの許しを得て、外物部氏を殲滅させることとしたのである。その時、契約の聖櫃アークに創造神ヤハウェが臨在し、富士山を動かしたのである。大山鳴動し、富士山は大噴火を起こした。そして、頑なな民である富士王朝の外物部氏たちに神の怒りが注がれた。こうして富士王朝は滅亡したのである。

 

<つづく>