「大和と日本」の謎:その21

 

 『宮下文書』には、5代・大戸道命の長子が「大国主命」で、諱を「大巳貴命」とし、天照大神は全国を巡行して国民に様々の職業を教え励ますように大国主命に大槌と大熊皮の大袋を授けられたとする。この大槌で根気よく打って諸々の職業を勉励せよと仰せられ、これを「打手の根槌」(ウチデノコヅチ)と名付けられ、大袋は寿命を長く保ち根気良く職業を勉励せよとして「寿命根袋」と名付けられたという。また、「大国主命」は全国から牛、馬、鹿の十分の一を取り立て天照大神に貢ぎ、税の収納職も務められたという。よって、「大国主命」は全国の職業指導、商業の神となり、徴税を担当した神としている。

 

 高皇産霊神の曾孫に「多加王=須佐之男命」という者がおり、高天原を占領しようとして攻め上ったが、大巳貴命は兵を集めこれを打ち破って多加王を捕縛したが、天照大神はこの争いを嫌って「天岩戸」に引き籠られた。神々が「天岩戸」の前で踊りを舞い天照大神が出て来られた時、「手力男命」が御手を取られ日向の大宮に遷幸された。大巳貴命は多加王を出雲国へ追い、多加王は出雲国で国内を平定し瑞穂国の神宝を造ろうとして、鍛冶の叔父「剣刀知」に習い全国から金、銀、鉄を掘り集めて手力男命と共に工夫を重ねて「室雲の剣、八太羽の鏡、宝司の御霊」を造り天照大神に納められた。その功績をもって天照大神は多加王に「須佐之男命」の諱を授け、剣刀知に「金山比古命」の諱を授けて見野国(ミノノクニ)の不破野を与えられたという。

 

勾玉、宝剣、鏡の三種の神器

 

 

布都御魂と経津主神と三種の神器

 

 この「須佐之男命(スサノウ)」が三種の神器を作ったとするのが謎である。三種の神器は天照大神が、高天原から天下る天孫「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」に授けるのが『古事記』の神話だが、その三種の神器を作ったのがスサノウだというのだ。さらに、三種の神器が「剣・鏡」というのは分かるが、残りの一つが「宝司の御霊」となっている。これは何を示すものなのか。文字をそのまま読めば、「宝を司る御霊(みたま)」となる。つまり、「その宝には御霊が宿っている」ということだ。物部氏系の伝承の中で、そんなものが存在するとすれば、それは物部氏の総社「石上神宮」の御神体「布都御魂」(ふつのみたま)である。

 

 「布都御魂」は記紀神話に現れる霊剣である。「韴霊剣」「布都御魂剣」(ふつみたまのつるぎ)とも言い、また「佐士布都神」(さじふつのかみ)、「甕布都神」(みかふつのかみ)とも言う。この「布都御魂」のことを、石上神宮では「韴霊」と記し、以下のように御祭神について説明している。

 

 「当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)と申し上げます。韴霊とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。またその後では、神武(じんむ)天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和(奈良県)にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです」

 


石上神宮で奉る「韴霊(ふつのみたま)」と七支刀

 

 「須佐之男命(スサノウ)」が作ったとする三種の神器のうち、2つが「剣」だったとすれば、「勾玉」(まがたま)は作っていないということとなる。だが、霊剣「韴霊」(ふつのみたま)に宿る「霊威」を称えたのが「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)と石上神宮では言っている。そして、それは鹿島神宮も祀られる出雲に「国譲り」を迫った天孫族の神「武甕雷神」(たけみかづちのかみ)が持っていた剣だという。これは神話である。暗号は「フツ」である。「フツ」が示唆しているのは、香取神宮に祀られているもう一人の「国譲り」を迫った天孫族の神「フツヌシ:経津主神」のことである。『古語拾遺』にも「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とある。が、一方で、経津主神の別名は「物部経津主之神」である。

 

 『日本書紀』巻第二の第九段本文によると、葦原中国へ派遣された天稚彦(アメノワカヒコ)の死後、高皇産霊尊(タカミムスビ)が諸神を集めて次に遣わすべき神を決めようとした時、選ばれたのは経津主神であった。すると、熯速日神(ヒハヤヒ:甕速日神の子)の息子「武甕槌神」(タケミカヅチ)が進み出て、「経津主神だけが大夫(ますらお、雄々しく立派な男の事)で、私は大夫ではないというのか」と抗議したとあり、そこで経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国を平定させることにしたという。つまり、その名にあるように、「フツヌシ:経津主」が主なる神で、それに付き従ったのが「タケミカヅチ:武甕槌神」だと言っているのである。

 前回も書いたが、『出雲国造神賀詞』では、「高御魂命」(タカミムスビ)が皇御孫命に地上の支配権を与えた時、出雲臣の遠祖・天穂比命(アメノホヒ)が国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告、自分の子の「天夷鳥命」(たけひらとりのみこと)に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したとされており、この「天夷鳥命」の別名が「建比良鳥命、武夷鳥、天夷鳥、武日照命、天日名鳥命である。つまり「ヤマトタケルノミコト」の神話のストーリーでもあり、武夷鳥、天夷鳥の名が示すのは「夷蝦夷:えみし、えぞ」を平定したということである。なぜなら、「夷」の字の意味が
「蝦夷:えみし、えぞ」でありたいらげる。平定する。ころす。ほろぼす。」だからである。

 

経津主神を奉る「香取神宮」

 『古事記』では経津主神が登場しないが、「思金神」(オモイカネ)が「天尾羽張神」(アメノオハバリ)もしくはその子の「建御雷神」(タケミカヅチ)を送るべきだと天照大御神に進言し、天尾羽張神が建御雷神のほうが適任だと答えたため、建御雷神が天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原中国へ天降ったとなっている。これらの話は、何を物語っているのか。それは
物部氏が外物部氏を制圧したということである。天尾羽張神の名には「尾張」が入っている。尾張氏は海部氏の一族である。だが、そこに「天」と「羽」の文字を入れたというのは、天津神=原始キリスト教に改宗したという意味なのである。だが、天尾羽張神は外物部氏の制圧には加わらず、そこに行ったのは「天夷鳥命=経津主神=物部経津主之神=建御雷神=武甕槌神」なのである。

 

 経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説がある。この説が伝えるのは、「剣:ツルギ=草薙剣」で逆らう物部氏(外物部氏)を制圧したという意味なのである。さらに「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとする説や、神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)の剣を神格化したとする説、物部氏の祭神であるとする説などがある。「草薙剣」を日本にもたらしたのは最初の徐福の集団=海部氏である。「草薙剣」は海部氏に入り婿した神武天皇に渡された。一方、失われた10支族のガド族の王・神武天皇が日本にもたらした王権のレガリア「マナの壷=勾玉」は海部氏に渡された。

 

 『宮下文書』が伝えるスサノウが「室雲の剣、八太羽の鏡、宝司の御霊」を造り天照大神に納めたという話は、室雲の剣(天叢雲剣=草薙剣=アロンの杖)と八太羽の鏡(八咫鏡=十戒の石板)は天孫族が継承したという意味なのである。草薙剣=アロンの杖は熱田神宮の尾張氏が今も預かっている。だが、「室雲の剣、八太羽の鏡」を入れた「契約の聖櫃アーク」を以って、東国(茨木〜千葉)を拠点にした外物部氏を制圧した話なのである。では、「宝司の御霊」とは何なのか。宝を司るのは宝入れた箱=契約の聖櫃アークで、そこに御霊である神霊ヤハウェが降臨し、「司令」を出したのである。外物部氏を殲滅せよと。

 

「室雲の剣、八太羽の鏡、宝司の御霊」

 

 物部氏歴史を伝える『先代旧事本紀』では、経津主神の「神魂の刀」が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が「建布都神」(たけふつのかみ)または「豊布都神」(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載しているが、要は同じ神なのである。そして「建御雷之男神」の名の中に「雷」「男」が入っているように、それは雷神ヤハウェのことなのである。

 

 さらに鹿島神宮社務所編輯の「新鹿島神宮誌」によれば、「フツ」は「フル(震)」と同義であり、天にて震いて「建御雷」、地にて震い萌え出ずる春の草木、その洗練された象徴が「逆しまに立つ剣の形」であり、神武天皇以下、悪霊におかされて死にたるごとく伏したるを恢復(回復)させ、奮い立たせるのもフルすなわちフツノミタマの力であるとしている。これが伝えるのは、契約の聖櫃アークと三種の神器を自分だけのものとしようしたガド族の神武天皇が宮中に置いたことで、御霊ヤハウェに呪われた=怨霊ヤハウェに祟られたということなのであり、10代崇神天皇の名前で表したのだ。アークに触れるのはレビ族だけである。だからこそ、契約の聖櫃アークと三種の神器をレビ族=海部氏のいる籠神社に持ち込んだのである。

 

 天にて震いて「建御雷」とは雷神ヤハウェのこと、地にて震い「萌え出ずる春の草木」とは「草(荊の冠)をつけて木(十字架)に架けられたイエス・キリスト」のことを伝えているのである。布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の奉斎社であり、かつ武器庫であったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神で祖神であったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたとする説があるが、それは鹿島も香取も外物部氏の社だったが、原始キリスト教=秦氏の社として制圧されたという意味なのである。但し、それは表であり、両宮とも裏側は物部氏が仕切っている。それは外物部氏の呪術を抑えられるのは同族の物部氏だからだ。

 

鹿島神宮の御手洗池

 

 そのことを端的に伝えているのが、鹿島神宮の御手洗池である。御手洗池とは穢れを清めるための池であり、原始キリスト教に改宗するためのバプテスマを施すための池である。その雛形は京都の下鴨神社の「糺の池」であり、元下鴨神社である蚕ノ社にある「元糺の池」である。ともに秦氏が創建した神社とされるが、そこには共に物部氏の原始の社があった場所である。春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られており、これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものであるとする説があるが、そうではない。中臣=藤原=秦氏が抑え込んだということを伝えているのである。

 

 経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置している。これは「結界」である。秦氏が両神宮を抑え込み、北関東以北に蝦夷を追いやったのである。平定された外物部氏は、原始キリスト教に改宗した物部氏・秦氏の連合軍に従った。だが、従わなかった者たちは、さらに北へと逃れたのである。

 

<つづく>