「大和と日本」の謎:その20

 

 『宮下文書』とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司家だった宮下家に伝わる古記録・古文書の総称のことである。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を中心に、秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。1921年(大正10年)6月25日、この『宮下文書』をもとに三輪義熈が著した概説書(ダイジェスト版)となる『神皇記』が隆文館から発行され、1986年(昭和61年)2月に影印本である『神傳富士古文獻大成(神伝富士古文献大成)』全7巻が八幡書店から発行されている。

 

 もちろんアカデミズムからは「偽書」の扱いを受け、古史古伝の類とはされものの、延暦噴火を始めとする富士山の噴火に関して、正史に書かれていない記述が多数あることから、富士山の噴火史を埋める文献として研究されたことがある。この文書を認めたくはないが、認めざるを得ない内容があるということだ。

 

◆『宮下文書』(『神皇記』)とその意味

 

 三輪義熈が著した概説書である『神皇記』構成は以下のようになっている。ポイントは「徐福」である。
 

 第一編 神皇之巻 神皇
  第一章 総説
  第二章 前紀 神祇
  第三章 正紀 神皇
  第四章 後紀 人皇
 第二編 神宮之巻 神皇即位所
  第一章 総説
  第二章 阿祖山太神宮
  第三章 余論
 第三編 宮司之巻 神皇書保存者
  第一章 緒言
  第二章 神皇書保存大宮司(正篇)
  第三章 神皇書複写保存大宮司(続篇)
 第四編 徐福之巻 神皇書記録者
  第一章 上篇 秦徐福
  第二章 下篇 神皇書

 

 

 徐福の書を原本として書かれた『宮下文書』なるものを三輪義凞が発見し、日本人が約5,000前に大陸から渡ってきた事を明らかにするため、「宮下文書」を活字本にしたのが「神皇紀」と名付けられたとしている。宮下家は天照大神が富士に太神宮を創設し大国主命を初代とする月読命、須佐之男命、宮下家と続く「大宮司家」であり、明治初年で156代4700年続くと云う家系だと云う。この書はいわゆる天皇家の神話時代2600年の記載である。この時代を「神皇時代」と呼び、第一から第五の神朝が有ったという。第一神朝は「天峰火夫神(アメノホホヲノカミ)」、第二神朝は「天之御中主神」を初代とし、その子らのうち「高皇産穂男命」が後継者となり、弟の「高中守主神」を「左守大神」とし、もう一人の弟の「高下守主神」を「右守大神」として「高皇産穂男命」を守り仕える事になったという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 もちろんこの話は鵜呑みにはできないが、「日本人が約5,000前に大陸から渡ってきた」という部分を、「日本人の祖は約5,000年前に発生した」と読み解くと、「ノアの箱船」の話に通ずる。ノアの大洪水が発生し、生き残ったノアと3人の息子、セム、ハム、ヤフェトが、それぞれ黄色人種(モンゴロイド)、黒人種(ネグロイド)、白人種(コーカソイド)の祖になったことを考えれば、ノアの大洪水が発生したのが今から4600年〜4700年前だから、「約5,000年前」という記述はおかしくはない。但し、約5,000年前に現在の日本列島に大陸から渡ってきたとはならない。それが、旧世界のたった一つの超大陸パンゲアのことを示すのであれば、大洪水を超えて旧世界から新世界に来たという意味となる。

 

 「天照大神が富士に太神宮を創設」という部分は、「天照大神=創造神ヤハウェを祀る神宮を作った」と読み解けばいい。大国主なる人物が存在したか否かは不明だが、大国主を「大倭国の主=物部氏の王であった人」であり「国津神を奉じた預言者」と解けば、その後に続く「須佐之男命=創造神ヤハウェ」を奉じた預言者の家系=大宮司家が宮下家となり、宮下家は物部氏系だとなる。その後の「明治初年で156代4700年続くと云う家系」という一文も、「ノアの大洪水発生から4700年続く」と考えれば、まさに大和民族の歴史そのものを伝えていることとなる。

 

 第一神朝の「天峰火夫神」とは、火の神であり火山の神という意味だから、これは「創造神ヤハウェのみを奉ずる唯一神教だった」と読めばいい。まさに徐福の民の海部氏・物部氏の話となる。第二神朝の初代を「天之御中主神」とし、その子「高皇産穂男命」が後継者となり、という部分は、「天之御中主神=天の御父」で「高皇産霊神=御子イエス・キリスト」のことである。但し、

弟の「高中守主神」を「左守大神」、もう一人の弟の「高下守主神」を「右守大神」としたという部分は、唯一神教から三神教へと改宗させれらたことを伝えることと考えればいい。但し、この3神構造を「上:高皇産」「中:高中守」「下:高下守」と「天界:天之御中主」とすると、カッバーラの奥義「生命の樹」の構造となり、大宮司家は奥義を知っていたこととなる。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

  第二神朝の第15代目に「高皇産霊神」が有った。この神は別名「天之神農氏神」「農作比古神」と呼ばれ、農作業の神で有った。第三神朝は高皇産霊神の第五皇子「国常立命」を初代とし、高皇産霊神は国常立命を伴い対馬、壱岐、九州、隠岐、佐渡を経て越路(越後、越中、越前の分かれる前)、能登、加賀から若狭に入り、但馬、稲葉、播磨、美濃(三野)、三河、駿河を経て煙を吹く蓬莱山に至り、「高砂の不二山」と名付け、高き地に火の燃えかつ日に向えるにより「日向の高地火峰:タカチホノミネ」と名付けられたという。そしてこの大原野を「高天原」と名付け、初めての都として「阿祖原、阿祖谷」と名づけられたと云う。この後、兄の「農立比古命(国常立命)」は飛騨、越後、越前の北部と富士山より西の国を治め、弟の「農佐比古命(国狭槌命)」は今の富士吉田市の「富士高天原」を帝都とし、富士山の南・東の国を治められた。そしてこの国を「四季島」と呼ばれたという。国常立命の皇女は「白山比女命」といい、国常立命の甥]の「伊弉諾命」に嫁ぎ「伊弉再命」と称した。「国常立命」の亡き後は「国狭槌命」が継がれたという。第四神朝は「天照大神」(伊弉諾命と伊弉再命の長女)を初代とし、国を「瑞穂国」と名づけられた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

  
 

 第二神朝の初代は「天之御中主神」で、その子「高皇産穂男命」が後継者となったが、その15代目は「高皇産霊神」とし、その別名が「天之神農氏神」「農作比古神」としている。ここについては既に触れたが、第七代の天御柱比古神の子である「天之御中主神」から新しい第二王朝となったということだが、「天之御中主神」は『古事記』でいえば、造化三神のひとりであり、この世の最初に現れた神である。火山をシンボルとして引き継いだ第二王朝の別名は「火高見王朝:日高見王朝」という。この日高見王朝の第五代目の「天之常立比古神」の諱を「神農比古」といい、以下、15代・天之神農氏神の諱「農作比古」まで「農」という字が入る。

 

 神農とは中国神話における最初の神々、三皇五帝の一人。伏義(ふっき)と女媧(じょか)に次ぐ第三の始原神で、炎帝とも呼ばれる。「神農」の名称が出てきた理由は、日高見王朝の本流の日高見派と神農派に分かれて対立が生じたということだとしたが、第15代の「農作比古」をもって日高見王朝は終焉、このとき民族大移動の詔を発し、日の本の海原にある「蓬莱山」に天降り、蓬莱国を打ち立てよとした。この時、農作比古は二人の息子、「農立比古命(国常立命)」「農佐比古命(国狭槌命)」を呼び寄せ、彼らが先発隊となって蓬莱山を統治せよとした。兄・農立比古は神農派、弟・農佐比古は日高見派を率いた。

 

 先に到着したのは弟の「農佐比古命(国狭槌命)」だった。日本列島の周囲にある島々を巡り、越地方に上陸。若狭湾から丹波、播磨へと抜け、そこから一転、東に向かう。先住民の案内で飛騨から木曽、三河、最終的に富士山麓へ到着。富士山を仰ぎ見て、これぞ蓬莱山だと確信。唯一無二の山という意味で「不二山(高砂の不二山)」、山々の祖だとして「阿祖山」、太陽の昇る東に面し、且つ噴火しているところから「日高見地火峰(日向の高地火峰:タカチホノミネ)」と名付け、富士山麓を新たな「高天原」と呼び、日高見派の都を置いた。

 

「国常立命・国常立尊」

 

 「農立比古命」と「農佐比古命」の二人の兄弟は日本において、「国常立命・国常立尊」(くにとこたちのみこと)と「国狭槌命・国佐都知尊」(くにさづちのみこと)と称している。『日本書紀』が記す国常立尊と国狭槌尊のことである。ここから第三王朝が始まるわけだが、国常立尊からイザナギ(「伊弉諾命」)までの「天神七代」、続く第四王朝が天照大神からウガヤフキアエズまである。記紀とは異なるが、大筋では同じ神話で、この後、記紀にはない「ウガヤフキアエズ朝:不合朝」が51代続く。

 

 ちなみに『竹内文書』では、神武天皇から現在までの皇朝を「神倭朝」とし、それ以前が「天神7代」「上古25代」「不合朝73代」 (ふきあえずちょう)となっている。代数は異なるのだが、『宮下文書』では、皇后摂政の22代を含めると73代とし同じことを伝えている。ウガヤフキアエズは神武天皇の父だが、それ以外の50人ものウガヤフキアエズとは何者なのか。実は『竹内文書』以外の『九鬼文書』や『上記』(ウエツフミ)にもウガヤフキアエズ朝72代が登場しているのである。

 

 『宮下文書』をまとめたのは徐福で、徐福を日本に送り込んだのは秦の始皇帝である。始皇帝は泰山で「封禅の儀」を行っているが、この世の初めから天子たる者はこの儀式を行うことが決められており、始皇帝以前には72人の帝王がいたとある。つまり、彼らを伝承に取り込んだ結果、ウガヤフキアエズ朝が72代になったのである!

 

泰山での「封禅の儀」

 

 この最後のウガヤフキアエズの息子、神武天皇からは第六王朝で、記紀でいう大和朝廷の時代である。第15代・応神天皇の後継者争いで破れた大山守皇子が全国に「山部」と「海部」を支配し、後に不二阿祖山太神宮の神官となる。この後、徐々に富士王朝の記録は消されていくことになるのだが、それは大和朝廷にとって、その存在が危険となったからである。

 

◆「高天原」の謎

 

 富士山麓を新たな「高天原=富士高天原」とし、日高見派の帝都を置いた。そして富士山の南・東の国を治めたとしている。そしてこの国を「四季島」と呼んだたとしているが、この「四季島」を「四木島」とすると、北海道、本州、四国、九州の「4本の木」からなる国と捉えたと考えられる。「日本古代文書の謎」の著者である鈴木貞一氏は、この「四季島」を日本の国の枕言葉の「敷島」としているが、「敷島」とは「四木島」なのである。それは諏訪大社の「御柱祭」が4つの宮で柱を立てることからも分かるように、4つの島からなる日本列島に「柱=木=神」の杭を打っているのである。そうしないと、鹿島神宮のタケミカヅチが動かないように抑え込んだ、大鯰(おおなまず)が大地震を起こすからである。

 

 

 これは以前にも書いたが、鹿島神宮と香取神宮の要石は、日本列島の要である。この要石が外れると、日本列島が動き出す。だからこそ、「東日本大震災」の時、大地震は要石より下では発生せず、首都圏は大地震による災害を逃れることができたのである。ペンタゴンによるHARRPによる攻撃は、要石によってかろうじて食い止められたのである。この「食い止める」とは、「杭を打って止める」という意味である。

 

 「農作比古」の日高見王朝は、もともと海の向こう、シルクロードの果ての「高天原」にあったとしている。その高天原とはいったいどこのことなのか。もちろん「農作比古」は物部氏である。つまり古代イスラエル民族である。そのイスラエル民族は、古代イスラエル王国が分裂した後に東へと向かった。中でも海部氏・物部氏の祖先たちはミツライム系ユダヤ人である。もちろん彼らは南ユダ王国にいた人々である。彼らは、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされた後に、パレスチナの地に戻らなかった人たちである。そう考えた時、古代イスラエル民族が、もともといた場所、つまり彼らの太祖がいた場所はどこだったのか。それは現在の「トルコ」である。

 

 

 なぜ、トルコなのか。それはイスラエル民族の太祖、アブラハムがいた場所だからである。古代シリア地方の北部にあった都市の名で、現在はトルコ南東部のシャンルウルファ県にあたる場所が「ハラン (Harran) 」である。この「ハラン」とは旧約聖書に出てくる古い都市の名前で、アブラハムが時を過ごした都市でもある。アブラハムはウルという都市を出て現在のパレスチナにある「カナン」へ移動するが、その途中でハランに一定期間滞在している。そして、同行していたアブラハムの父親テラはこのハランの地で亡くなっている。今のトルコではシャンルウルファと呼ばれる町にある。

 

 このハランはアラブラムが旅の途中に滞在しただけの都市ではない。アブラハムの兄弟であったナホルがやがて住むようになり、アブラハムの孫ヤコブがナホルのひ孫娘と結婚して14年以上住んだ都市でもあるのだ。

 

 テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。 ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。 アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。 サライは不妊の女で、子供ができなかった。テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。 テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。(「創世記」第11章27-32節)

 
アブラハムゆかりの地「ハラン (Harran) 」

 

 アブラハムの孫「ヤコブ」(後のイスラエル)については、他にもゆかりのある場所がこのハランにあります。それが「ヤコブの井戸」と呼ばれている井戸である。聖書の「創世記」を読むと、ヤコブの物語が描かれている。ヤコブは父親のイサクたちと共にカナンの地 (現在のイスラエル=パレスチナ) に住んでいたが、双子の兄エサウの怒りを買って命の危険にさらされていた。そして、結婚相手を探す必要もあったため、親族が住んでいたハランに旅をする。

 ヤコブが長旅の後にこの井戸にたどり着いた時、ヤコブの従姉妹にあたるラケルが羊の群れに水を飲ませるため、ちょうどこの井戸にやってくる。それがヤコブとラケルとの出会いであり、後にこの2人は結婚する。ラケルの父親のラバンは姑息な手を使う人間で、このラバンの策略によってヤコブは最終的にラケルだけでなくラケルの姉レアの2人と結婚する羽目になる。こうして自分の意志ではなかったが、2人の妻を持つようになったヤコブは、12人の子供たちの父親となる。この12人の子供たちが後の「イスラエル12支族」である。

 

 イスラエル民族の太祖アブラハムがいた地であり、絶対神ヤハウェが「イスラエル」という名を与えたヤコブがいた地なのである。ここがトルコ南東部ターガマ州のハランである。そう、「タカマがハラ(ン)」なのであり、「農作比古」の日高見王朝があった高天原とは、ハランの地を示唆していたのである。ダジャレのように聞こえるだろうが、大和民族が旧約聖書の逸話をダジャレの中に隠しながら伝えてきた民族である。

 

 

<つづく>