「大和と日本」の謎:その19


 縁日やお祭りの日の思い出の風景といえば、寺社仏閣の境内・参道に立ち並ぶ露店である。焼きそば、お好み焼き、ベビーカステラ、チョコバナナ、等々。ちょっと強面のおじさんが調理してて近寄りがたいけど、周囲の喧噪に呑まれてつい買ってしまう。その後、風の噂で、あのおじさんヤクザらしいよと聞いて、幼心は震え上がる。しかし、露天商――テキヤを暴力団と同一視するのは誤りである、と『テキヤの掟 祭りを担った文化、組織、慣習 』(角川新書)の著者、 廣末登氏は力説する。

 

 

 いわゆる被差別部落の出身者にとって職業選択の自由は無きに等しく、中でもやんちゃな人たちにとっては、暴対法が施行されるまではヤクザは人気の商売であり、地域密着型の「裏のサービス業」であった。一方、テキヤは売る商品を持つ。顔が見えない商売ではなく、一つひとつの商品を対面で売った利益で細々と商売している。よって、テキヤは暴力団や博徒を指して「稼業違い」という。但し、テキヤ系暴力団が存在するのも事実である。

 

 暴力団のようなシノギに手をつけ勢力を拡大する組織が現れたことで、テキヤであっても指定暴力団とされ、2010年の暴力団排除条例の制定、テキヤの担い手・後継者不足、コロナ禍などが重なり、テキヤ業界は苦難の時代となっている。テキヤの組織が存在したのは、基本的に関東以北である。関東神農同志会、東北神農同志会など「神農」を奉ずる組織であり、東京都に本拠を置く的屋系暴力団でもある會津家七代目は、指定暴力団・六代目山口組の3次団体(上部団体は後藤組)である。東京の的屋の名門組織であったが、六代目の頃に後藤組の傘下となった。



 もはやテキヤとヤクザの境界線は無きに等しくなってきたが、もともとは異なる神と異なる稼業を担ってきた者たちである。しかし、ヤクザは昔は博打ちと香具師(やし)がおり、香具師は現在のテキヤで神社・仏閣の固定した場所で大道商いをしているか、各地のお祭りや行事にその都度場所を借りて商う「男はつらいよ」の寅さんの職業である。香具師は地元の顔役(ヤクザの親分)の許可を得て商売をしていた。その関係でいうと、全国を放浪する稼業のテキヤは、各地方のヤクザの
「縄張り」で商売をする際は、必ず地元の親分からの許可と上納は必要だった。

 

 大相撲とヤクザの癒着問題がささやかれ大問題となったことがあるが、もともと大相撲とヤクザは関係が深い。戦前戦後しばらくの間大相撲は春場所と夏場所の二場所だけで、その他は地方巡業であった。地方巡業はその地方のヤクザが「勧進元」となって運営されてきた。従ってヤクザの力を借りなければ地方巡業は成り立たなかったのである。これは興行という意味もあるが、大相撲自体が神事だからである。相撲の地方巡業というのは、腰にしめ縄を張った荒ぶる神の姿の相撲取りが、各地で四股踏みをすることで地鎮をする神事だからである。


 

  その意味で、地鎮を行う相撲取りも、それを仕切るヤクザも本来は大和民族でなければならないのである。それが昨今はやたらとモンゴル人の相撲取りを増やしたことで、横綱の品格、つまり荒ぶる神ヤハウェの代理人としての品性を持たなければ務まらないのだが、それを自覚しない相撲取りが増えてしまった。大和民族が地鎮を行わないということは、大地が揺れる、ということとなる。鹿島神宮と香取神宮の境内に地震を食い止める「要石」があり、両神宮の地下で「要石」がつながっていると噂されるのも、大いに関係している。

 

 鹿島神宮の主祭神・タケミカヅチ(建御雷之男神・武甕槌神)は、諏訪湖に封印されている大国主神の子・タケミナカタ(建御名方神)と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰(おおなまず)を御するはずの存在として多くの例で描かれているのは、相撲が地鎮をする神事だと伝えているのである。よって、大相撲が全国で開催されないと日本列島はただでは済まなくなるのだ。

 

 2011年2月2日、大相撲野球賭博問題に於ける警視庁の捜査の過程において、力士の一部が携帯電話のメールで八百長を行っていた疑惑が発覚するという「大相撲八百長問題」が起きた。NHKは2月11日に開催する予定であった『第44回NHK福祉大相撲』興行を中止することを発表。また、フジテレビは2月6日に開催予定であった『日本大相撲トーナメント』の開催並びに中継を中止することを発表した。そして2月6日、日本相撲協会は八百長問題の発覚を受けて臨時理事会を開き、3月場所と年内の巡業を中止することを決定した。本場所の中止は、1946年(昭和21年)6月場所以来65年ぶりのことであり、不祥事による場所中止は史上初となった。

 

 この後、何が起きたのか。そう、「東日本大震災」である!

 

 

 日本は「神国」である。日本で起きることに偶然はない。相撲取りたちの品性が穢れたことで、いくら土俵で塩をまいて清めたところで、大相撲の開催中止と地方巡業の中止という皇祖神につばを吐くような真似をしでかしたのである。「東日本大震災」はロックフェラーの指示により、アメリカのペンタゴンが地震誘導兵器「HARRP」を使った攻撃であったが、それは「天災」でもあったのである。穢れた相撲取りたちが、絶対神の目が光る「茅の輪」の形をした土俵という神域を穢したのである。たかが相撲などと甘く見てはいけない。

 

 ヤクザと興行師の関係は相撲に限ったことでなく、芝居(歌舞伎、新生新派)の地方興行はもとより、映画の興行も流行歌の地方巡業もヤクザが仕切っていた。そこで役者、映画、流行歌の興行の世界はヤクザの力を借りなければならなかった。その一例として美空ひばりや鶴田浩二、小林旭など、往年の大スターたちがヤクザの大親分に可愛がられていたのは周知の事実である。これは、地方のヤクザが勧進相撲の元締めだったことに起因する。そして、日本人ヤクザは基本的に物部氏である。血の穢れを引き受けた者たちであるが、テキヤは違う。テキヤは「神農」を崇める原始ユダヤ教徒「外物部氏」である。

 

 だからこそ、もともとは原始ユダヤ教徒だったが、原始キリスト教に改宗したことで、三神と天照大御神を奉ずることにした物部氏たちは、外物部氏たちを制圧したのである。邪馬台国が成立した際、海部氏・物部氏に反発し、東日本へと移住した元・物部氏である外物部氏たちは、頑なに「ヤマト」に反抗した。『肥前国風土記』に記された経津主神の別名「物部経津主之神」(もののべのふつぬしのかみ)という名が示すのは、天孫族ではなく、物部氏が外物部氏の拠点であった香取を制圧したことを示す名前なのである!

 

◆「宮下文書」の解釈

 

 筆者が一番最初に「宮下文書」についてよんだのは、以下の2冊の本であった。一冊は佐治芳彦氏の『謎の宮下文書』、そしてもう一冊が鈴木貞一氏の『日本時代文書の謎』である。最初に読んだ時は、正直、これはなんの話なのかさっぱり理解できなかった。なにせ40年前ことである。古史古伝の知識もろくにない中、『謎の宮下文書』という本はタイトル買いしたようなもので、当時はこの手の謎本は片っ端から買っていたが、さすがに知識が追いついていかなかった。

 

 

 『謎の宮下文書』の目次も見ても、「三品の大御宝を奪った崇神天皇」「徐福と孝元天皇」「謎の人 ―中臣藤原物部麿」などと、もう目次だけで「はてさて」といった具合だった。いま、読み返すと「意図」は理解できるが、中臣藤原物部麿といった意味不明な人物名を見ただけで、これは「偽書だろう」という感じであった。だが、偽書だろうとは思いつつ、何かが引っかかった。それは『竹内文書』を知っていたからである。

 

 古史古伝の中でも断トツで「オカルト本」「トンデモ本」の扱いを受けてきたのが「竹内文書」である。なぜかと言えば、その内容があまりにも突飛で、使用されている地名が現代のものだったりするからである。竹内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝を「神倭朝」(かむやまとちょう)と呼び、これ以前に「上古25代」とそれに続く「不合朝73代」(あえずちょう)(73代が神武天皇)で、更にそれ以前に「天神7代」があり、合計3000億年だったとしている。
 

 ちなみに上古21代天皇は「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギにあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミであり、スサノオの別名としている。「イスキリス・クリスマス(イエス・キリストとされる)の遺言」という文書があり、イエスは十字架上で死なずに渡来、1935年(昭和10年)に竹内巨麿が青森県の戸来村(現在の新郷村)で発見した十来塚が「イスキリス・クリスマス」の墓=キリストの墓とし、モーセの十戒は実は表十戒であり、裏十戒・真十戒を含む原文の記された石を天津教の神宝として天津教が所有、天皇が、来日したモーセに授け、モーセの墓は石川県の宝達志水町に存在しているのだという。また、釈迦をはじめ世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えたとしている。

 

竹内巨麿とキリストが板に彫刻したイスキリ文字

 

 超弩級のぶっ飛び方である。さすがにこれでは誰も信じない。だが、その思いは時を経るとともに変わっていった。「竹内文書」の元となる文書は裏神道秘密結社「八咫烏」たちが守ってきた人類創生からの本当の歴史が記された『八咫烏秘記』であり、敢えて「偽書」の烙印を押されることを覚悟して世に出されたものだと分かったとき、「宮下文書」の味方も全く変わった。また、1945年、日本にやってきたばかりのアメリカ軍が、剣山などとともに徹底調査した場所の1つが宝達志水町の「モーセの墓」だと知ったとき、その考えは確信に変わった。「宮下文書」もまた、隠された意図がある文書なのだと。

 

 全く別の視点で「宮下文書」を考えるとき、上記2冊の著作の見方も変わった。鈴木貞一氏の「日本古代文書の謎」に記された古代の謎については、孔子の弟子の「子路」は儒学の「徐氏八十七代目」だがその子孫の「徐福」は秦始皇帝に仕え、「東海に不老不死の良薬を持っている神仙がいて、これを飲めば千万歳の寿命を保つ事ができる。」と提案し、自ら探しに行きたいと申し入れ、始皇帝はこれを許した。そして、始皇帝三年(西暦前二四四年)、男女五百人を連れて日本を目指したと云う、とある。ここはある意味、中国側に残る記述とも同じようなものなため、気にはならないが、問題は、「孝霊天皇の時、日本にやって来て武内宿祢、矢代宿祢等と殆どの神官がその学生になった」とあるのだ。

 

 竹内(武内・建内)宿禰と、その子供である矢代宿祢などが徐福に学んだ学生になったというのだ。矢代宿祢とは「羽田矢代宿禰」(はたのやしろのすくね)のことで、竹内宿禰の子供のこと。もちろん秦氏の先祖のことである。つまり秦氏、それも竹内宿禰が徐福に教えを受けていたと読んだ瞬間、これには意図があるとしか思えなかった。徐福が渡来した紀元前に、紀元3世紀末以降に渡来した人間たちが教えを受けていたとは到底考えられない。つまり、「宮下文書」にはこうした仕掛けが随所に施されていると考えて読まねば、その真意は読み解けないということである。

 

 

<つづく>