「大和と日本」の謎:その17

 

 富士吉田市大明見にある「不二阿祖山太神宮」(ふじあそやまだいじんぐう)は、かつて富士山で栄えた富士神都に存在したと伝わる神社とされている。主祭神は「元主一太御神様」「国常立太御神様」「天照主日太神様」を祀り、国祖の神または宇宙神といわれる富士山におわす「国常立太御神様」、別名「富士太神」の総本宮だという。

 

 前回、偽書の烙印を押されている「宮下文書」(『富士古文献』『徐福文書』)には、かつて、富士山麓には超古代の「富士王朝」があったと記されており、その都にあったのがこの「不二阿祖山太神宮」であり、そこに伝わる歴史をまとめたのは徐福自身だったとした。「不二阿祖山太神宮」を訪れると、異様ともいえる大きな「三柱鳥居」が立っている。それも本殿へと上がる階段の上に仁王立ちをしているかのように立っているのだ。それはまるで「三神の神殿」と言わんがばかりである。

 

不二阿祖山太神宮の三柱鳥居

 

 不二阿祖山太神宮では、その由緒に以下のように記している。

 

 宇宙天地が創造されし時、先ず始めに現れませる神の名は、元○一太神(不二太神)
 その神を祀る日本最古の神宮が不二阿祖山太神宮(富士山太神宮)である。
 不二高天原の御世、国常立太神は 元一太神を皇祖皇大神宮別祖太神宮に祀り、不二大宮と称し、世界の神都として大繁栄していく。

 

 「世界の神都として大繁栄していた」ではなく、「大繁栄していく」である。なにせ、この神社はまだ再建途中なのである。実はここ「不二阿祖山太神宮」は、「阿祖山太神宮」と称していた頃、延暦19年からの大噴火により甚大な被害を受け、その多くを焼失。江戸時代に入り衰退してしまい、「大元不二山元宮阿祖山大神社」へと改称したとされている。随分と仰々しい名称である。しかし、明治以降、幾度となく再建運動が興されたが叶わず、平成十六年より崇敬奉賛会による再建事業が開始され、今日、全世界奉仕会によって、世界平和を祈念し「不二阿祖山太神宮(富士山太神宮)」と改称し、再建が進められている。

 

 由緒のの2行目の「○」は、丸にチョンというやつで表示できないが、『〇の中にゝマーク』である。ご存知の方も多いと思うが、岡本天明の『日月神示』の原文において「神」を表す記号として、『〇の中にゝマーク』と表記されることが多く見受けられる。それでは何故『〇の中にゝマーク』が「神」であるのか?

 

 

 人間は誰しも神の分け御魂を持つのだから、「身体=○」の中に神のキたる「ゝ」が入っているのが本来のあるべき姿で、魂である神のキ「ゝ」が曇って光を失うと、「○」だけになるからだという。この辺りのことを岡本天明は、『日月神示』の中で以下のように記している。

 ゝばかりでもならぬ。
 〇ばかりでもならぬ。

 この道で魂入れてくれよ、この道はゝぞ、〇の中にゝ入れてくれと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、ゝ入れてくれよ、〇を掃除しておらぬとゝ入らんぞ、今度の戦は〇の掃除ぞと申してあらうがな、マツリとは調和合はす(まつりあわす)ことと申してあろうがな。

 

 岡本天明は審神者だった。そして、岡本天明に降りてきたのは史上最強の荒ぶる神「艮の金神」であった。「艮の金神」の正体は怒れる創造神ヤハウェであり、スサノウであり、牛頭天王である。単純な言い方をすれば、海部氏・物部氏が奉じた唯一神である「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のことで、もちろん男神である。

 

「◯にチョン」が「日」である岡本天明の『日月神示』

 

 「不二阿祖山太神宮」では、

 元主一太御神様(元旦神・唯一神・不二太神:もとすはじまりおおみかみさま)
 御親元主国万造主・国常立太御神様(みおやもとすくによろずつくりぬし・くにとこたちおおみかみさま)
 元主天照主日太御神様(別名 天照大神様:もとすあまてらすひおおみかみさま・あまてらすおおみかみさま)

の3柱の神を祀っているが、これは全て創造神ヤハウェであり、イエス・キリストである。本来、天の絶対三神で考えれば、「国常立」は「天の御父」となるはずだが、この国の創造主という意味ではヤハウェである。つまり、ここは本来は物部氏系の古神道=ユダヤ教の社だったが、どこかの時点から天照大神=イエス・キリストを祀ったこととなる。 




 「不二阿祖山太神宮」には龍神が水を出す手水舎がある。龍神=水神=雷神=スサノウであるので、ヤハウェを祀る一神教の神殿だったことが分かる。それが「元○一太神(不二太神)」である。「不二阿祖山太神宮」の由緒には、その簡単な歴史が記されている。


 ・皇統二十二代天皇(天照大神)が天変地異からの立て直しをされ、不二高天原から豊葦原瑞穂国と称し、社は不二山の鬼門(艮)に阿祖山太神宮と改称し建立される。
 ・皇統二十四代天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(仁仁杵尊)が不二山に天降り、祭司を残し九州の高千穂へ天下りし、政治と軍事を国防の為阿蘇へと遷す。
 ・皇統二十六代武鵜草葦天皇即位より、不二合朝の御世が始まる。
 ・皇統九十二代(不合七十三代)より、阿祖山太神宮神皇が橿原神宮に参じ神武天皇の即位式を斎行する。
 ・人皇一代神武天皇により神倭朝が開かれる。
 ・崇神天皇(人皇十代 皇紀五六四年~)、阿祖山太神宮より三種の神器御宝を笠縫の里檜原神社に遷す。
 ・垂仁天皇(人皇十一代 皇紀六三二年~)、倭姫により檜原神社から三種の神器御宝が二十三箇所遷宮し、伊勢の神宮におさまる。
 ・持統天皇(人皇四十一代 皇紀一三四七年~)の勅願文に「阿祖山神宮事 元宮先現太神」と記され、不二太神は元宮先現大神として祀られる。
 ・奈良時代から江戸時代にかけて、不二太神の御名は、先現太神、仙元大神、浅間大神へと変遷していく。
 ・延暦一九年からの大噴火により阿祖山太神宮は甚大な被害を受け、多くを焼失。江戸時代に入り衰退。後は、大元不二山元宮阿祖山大神社へと改称。明治以降、幾度となく、再建運動が興されたが叶わず、平成十六年より崇敬奉賛会による再建事業が開始され、今日全世界奉仕会の赤誠により、世界平和を祈念し不二阿祖山太神宮(富士山太神宮)と改称し、再建が進められている。

 

 倭姫命が「三種の神器」と巡幸して。天照大神が伊勢に鎮座した話はいいが、問題はその前にある「阿祖山太神宮神皇が橿原神宮に参じ神武天皇の即位式を斎行する」「阿祖山太神宮より三種の神器御宝を笠縫の里檜原神社に遷す」である。なんで、ここの神皇が神武天皇の即位を行い、まるでここに「三種の神器」があったかのように書いているのか。さらに「皇統二十二代天皇は天照大神」とする記述とか、「不二合朝」とか、まさに偽書の扱いを受けた「古史古伝」のような表記ばかりである。

 

◆『宮下文書』と富士王朝の成立 

 

 以前に連載した「古史古伝の謎」でも書いたが、古史古伝とは、日本の正史である『古事記』や『日本書紀』、その他の古代史の主要な史料とは著しく異なる内容の歴史を伝える文献を一括して指す名称である。種類は多く、「超古代文献・超古代文書」とも呼ばれる。古史古伝はアカデミズムからは「偽書」とみなされており、理由としては以下のような点から古代史研究における歴史学的な価値は非常に低く、古代からの伝来である可能性もまずないと考えられている。

 

 1.写本自体が私有され非公開で、史料として使えないものも多い
 2.超古代文明について言及されている
 3.漢字の伝来以前に日本にあったという神代文字で綴られている
 4.上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)
 5.成立したとされる年代より後の用語や表記法が使用されている

 

 中でも『竹内文書』『宮下文書』『九鬼文書』『物部文書』『上記』等の古史古伝は偽書とされ続けてきたが、それらは隠された歴史を「暗号」という形で忍ばせている。常に敗れた者の歴史は消され、改竄される。それはある意味で万国共通であるが、敗れた側の本当の歴史を残すためには、それらを暗号化し、あたかもフィクションであるかのごとく装う必要があり、富士王朝の存在を伝える『宮下文書』も同様でああった。

 

『宮下文書』(富士高天原朝史、富士谷文書、富士宮下古文献)

 

 『宮下文書』とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司家だった宮下家に伝わる古記録、古文書の総称である。「富士宮下文書」「富士古文書」「富士古文献」、また相模国の寒川神社に保管されていたと書かれていることから「寒川文書」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士王朝 / 富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核の部分は「秦」から渡来した「徐福」が筆録したと伝えられている。

 

 文体は漢語と万葉仮名を併用したもので、筆者・成立事情は不明である。助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられている。1921年(大正10年)には、宮下文書をもとに三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が発行されている。もちろん三輪氏とは物部系の氏族である。1986年(昭和61年)に影印本である『神傳富士古文獻大成』 (神伝富士古文献大成)全7巻が発行されている。

 


概説書の『神皇記』と徐福

 

 一般的に「高天原」(たかまがはら、たかまのはら、たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら)は、『古事記』に含まれる日本神話および祝詞において、天照大御神を主宰神とした天津神が住んでいるとされた場所のことで、天岩戸の段も高天原が舞台となっている。あくまでも神話ではあるものの、これまで何度も書いてきたように、天岩戸神話の元はイエス・キリストが葬られた岩屋のことである。象徴としての「高天原」は天界の三神がおわす「太陽」の中のことである。が、筆者も「高天原」が地上のどこかにあったということについては、過去に言及したことはない。さらに、「徐福」の渡来を暗号的に記した神話はいくつもあるものの、徐福自身が記した歴史書とするのは『宮下文書』だけである。

 

 『宮下文書』では、富士王朝のルーツには、シルクロードの彼方に神々が住まう高天原があったとする。空の上ではなく、地理的に天=アマではなく、海=アマの向こうの大陸の奥地にあった「阿間都国」(あまつくに)と記している。もしこれが徐福渡来の物語を伝えるのであれば、高天原とは中国大陸初の統一帝国「秦」となるはず。しかしながら、『宮下文書』の記述を読むと、まるで『竹内文書』のような壮大な歴史になっているのである。しかし、さらに、高天原が「シルクロードの彼方」というのならば、それは「秦」にはならない。古代オリエント地方のどこかとなるはずだ。

 

 

 高天原を治めた第一王朝初代は「天峰火夫神」(あめのほほおのかみ)といい、天之世が7代続く。第二代は「天高火男神」(あめのたかほおのかみ)、第三代「天高地火神」(あめのたかちほのかみ)と、神名には富士山を意識した火山のイメージをもたせている。第七代の「天御柱比古神」(あめのみはしらひこのかみ)の子である「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)からは新しい第二王朝となるが、天之御中主神は『古事記』では造化三神の一柱、原初に現れた神である。火山をシンボルとして引き継いだ第二王朝の別名は「火高見王朝:日高見王朝」(ひだかみ)という。

 

 日高見王朝の第五代目の「天之常立比古神」(あめのとこたちひこのかみ)の諱は「神農比古」(しんのうひこ)といい、15代・天之神農氏神の諱「農作比古」まで「農」という字が入る。「神農」とは中国神話における最初の神々、三皇五帝の一人である。「伏義」(ふっき)と「女媧」(じょか)に次ぐ第三の始原神で、「炎帝」とも呼ばれる。農業の神であると同時に、薬草や医術の祖でもある。ここに「神農」の名称が出てきた理由は、富士王朝本流の「日高見派」と「神農派」に分かれての対立が生じたということではないだろうか。

 

「神農」

 

 日本では大海人皇子と大友皇子が争った「壬申の乱」が起き、北朝と南朝が争った南北朝時代があり、徳川家と維新軍も分かれて戦ったように、元は一つでも仲違いをして争うことは常にある。第15代の農作比古をもって日高見王朝は終焉するが、このとき一族の運命をかけた民族大移動の詔を発している。曰く、「日の本の海原に蓬莱山がある。そこに天降り、蓬莱国を打ち立てよ」と。この時、農作比古は二人の息子、「農立比古」(のうだちひこ)と「農佐比古」(のうさひこ)を呼び寄せ、彼らが先発隊となって蓬莱山を統治せよ、とした。

 

 兄・農立比古は神農派、弟・農佐比古は日高見派を率いた。そして、兄の農立比古は陸路で極東を目指したとしている。しかし、そこは群雄割拠していたため苦難の連続だったという。先に発った兄からは、いくら待っても蓬莱山に到着したという連絡がない。約48年が経過し、弟の農佐比古は配下の3500人を率いて両親とともに高天原を離れ、海路で蓬莱山を目指す。先に到着したのは農佐比古だった。日本の周囲にある島々を巡り、越地方に上陸。若狭湾から丹波、播磨へと抜け、そこから東に向かう。先住民の案内で飛騨から木曽、三河、最後に富士山麓へ到着。これぞ蓬莱山だと確信し、唯一無二の山として「不二山」、山々の祖だとして「阿祖山」、太陽の昇る東に面し、且つ噴火しているので「日高見地火峰」と名付け、ここを新たな高天原と呼び、日高見派の都を置いたとしている。

 

 一方、兄の農立比古たちは朝鮮半島を経由して日本へ到着。九州から畿内へと移動。さらに最後の移動を開始し、遂に弟と再会する。こうして本来の目的である蓬莱国の建国、すなわち富士王朝が成立したとしている。この『宮下文書』の話、まるで、最初に紀元前の古代日本に渡来した徐福集団と、紀元後に渡来した神武天皇と秦人たちの話のようだが、最終地点は畿内ではなく富士なのである。この兄・農立比古、弟・農佐比古の話は何を物語っているのだろうか。​​​​​​​

 

<つづく>