「大和と日本」の謎:その14


 古代日本の英雄とされているのは「ヤマトタケル」である。記紀などに伝わる古代日本の皇族であり、『日本書紀』では主に「日本武尊」(やまとたけるのみこと)、『古事記』では主に「倭建命」(やまとたけるのみこと)と表記される。実は、ここにも「日本の木:二本樹」の暗号が隠されている。それはまるで、「武内宿禰」を「建内宿禰」と表記するのと同じで、「日本」と「倭」で使い分けていることに表れている。

 

 一応、歴史上は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたるとされ、熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。但し、『日本書紀』『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子とし、同母兄は「大碓皇子」のみで双子の兄とする。だが、『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓皇子(双子の記載なし)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする。

 

◆『古事記』と『日本書紀』と「ヤマトタケル」

 

 『古事記』と『日本書紀』におけるヤマトタケルの説話は、大筋は同じなのだが、主人公の性格や説話の捉え方、全体の雰囲気の描き方に大きな差がある。『古事記』では、父の寵妃を奪った兄・大碓命(おほうすのみこと)に対する父親である天皇の命令の解釈の違いから、小碓命(をうすのみこと:ヤマトタケル)は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ、周囲からも疎まれて、九州のクマソタケル(「熊襲建」)兄弟の討伐を命じられる。なんと16歳である。

 

 わずかな従者も与えられなかった小碓命は、叔母の「倭比売命」が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。一方、『日本書紀』には兄殺しの話はなく、天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。『古事記』とは異なり倭姫の登場場面がなく、従者も与えられている。従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。

 

 

  ヤマトタケルは大和朝廷に反抗した熊襲」と「蝦夷」の征討を行ったとされる。当時の「大和」は、畿内を中心に東は東海地方、西は九州北部を含む国家だったが、静岡県以東・以北、九州の中部以南には勢力を拡大していなかった。よって、たびたび熊襲」や「蝦夷」などの反乱が起きていた。よって、「ヤマトタケル」という名前の人物は存在しなかったが、「大和朝廷」による九州の熊襲や隼人、東日本の蝦夷、物部氏の征伐を象徴した神話と見ると、その真実が見えてくる。

 

 『古事記』では、小碓命(ヤマトタケル)が九州に入ると、「熊襲建」の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていおり、小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄・建を斬り、続いて弟・建に刃を突き立てた。誅伐された弟・建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞、自らを「倭男具那」(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って「倭建」(ヤマトタケル)の号を献じたとしており、倭建命は弟・健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺したとする。

 

 『日本書紀』では、熊襲の首長が「川上梟帥」(カワカミノタケル)一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ内容となっている。が、ヤマトタケルノミコトは「日本武尊」と表記されている。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。記紀はともに冷酷なヤマトタケルを描いているが、それをもって「倭国」と「日本国」という2つを制圧したと考えればいい。

 


女装で熊襲を征伐したことを伝える「建部神社」の額

 

 ヤマトタケルの逸話で有名なのは熊襲」と「蝦夷」の征討だが、ヤマトタケルは出雲地方も制圧に行っている。これは「出雲の国譲り」を別の形で表したものと考えていい。つまり、秦氏による物部氏系神社の乗っ取りである。『古事記』では、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌っている。

 

 慈悲があるのかないのか、どうも釈然としないが、こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。『日本書紀』では、崇神天皇の条に「出雲振根」と弟の「飯入根」の物語として、酷似した話があるが、なぜか日本武尊の話としては出雲は全く登場しないのである。しかし、熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。それにしてもヤマトタケルが制圧するのは「健・建:タケル」ばかりだ。まるで、そんな人物はそもそもいないと言っているようにしか取れない。

 

 

 『古事記』では、倭建命が西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に「比比羅木之八尋矛」を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、「父天皇は自分に死ねと思っておられるのか」と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、「草那藝剣」(くさなぎのつるぎ)と「袋」とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。その後、倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約して東国へ赴く。だが、『日本書紀』には尾張国造家に入る記述はない。
 

 倭建命は相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれ、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを「焼遣」(やきづ=焼津)というとしている。一方、『日本書紀』では、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とはイメージが大きく異なる。駿河が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。但し、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はないのである。注記では「天叢雲剣」が独りでに草を薙ぎ掃い、「草薙剣」と名付けたと説明されているのだ。さらに火打石を叔母・倭姫命に貰った記述もない。

 

 ここは、ヤマトタケルの説話の中でも、ヤマタノオロチの尻尾からスサノオ命が取り出した「天叢雲剣」が、なぜ三種の神器の「草薙剣」と名前が変わったのか、その最も重要な部分なのだ。それなのに『日本書紀』にはないというのはどういう意味なのか。さらに、『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ちており、全く違う人物のように描かれているのだ。いったいどういうことなのか。

 

 

 その後の東征の話では、倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いたとされる。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また、甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じており、その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。


 しかし、『日本書紀』ではルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていたとなっている。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼したとあり、日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従したとなっている。そして、日本武尊はその首魁を捕虜として従身させ、蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだとある。

 

 その後、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到るのである。もはや完全に「神話」である。そして、日本の「神話」とは「暗号」である。古代日本最大の英雄の神話とは、最大の暗号ということなのである。では、古代日本の最大の暗号とは何か。それは「倭:ヤマト」と「日本」は別の国だったということなのである!

 

 

 

 ヤマトタケルの表記が「倭建命」と「日本武尊」なのは、「倭」と「日本」を制圧した話なのである。この場合の「倭」とは「ヤマト:邪馬台国」であり、そこは物部氏が支配する国だった。その「倭=ヤマト=邪馬台国」の女王を海部氏の娘「卑弥呼」を擁したことで、海部氏と物部氏の連合王国「大倭:ヤマト」となった。男王ではまとまらなかった国をまとめ、熊襲や隼人のいた西日本を勢力下に治めた。だから16歳のヤマトタケルが女装をして「熊襲建」の兄弟を平定した話としたのである。兄弟というのは熊襲と隼人という同じマヤ系の先住民族の意味なのである。

 

 さらに倭国には反抗する物部氏が残っていた。山や河の荒ぶる神、島津神・国津神を平定したというのは、全て創造神ヤハウェを祀っていた物部氏の社を、次々と原始キリスト教の社に変えさえていったという意味なのである。但し、出雲や科野(しなの)を服従させたというのは、出雲大社や諏訪大社などの主要な物部系神社をあくまでも服従させただけで、原始キリスト教の社には変えてはいないのである。さらに、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌ったという話にも、暗号が隠されている。

 

 「つづら」とは、「葛籠」と書く。元来、ツヅラフジのつるで編んだ「蓋つきの籠」の一種である。後に竹を使って網代に(縦横に組み合わせて)編んだ四角い衣装箱を指して呼ぶことが一般的になった。元々はツヅラフジのつるが丈夫で加工しやすいことから、つる状のものを編んで作る籠のことを材料名から葛籠と呼んでいた。つまり出雲建の大刀は「四角い箱」に入っていたのだ。そう、契約の聖櫃アークに入っていたと伝えているのである。さらに、つる状のものが巻き付いていたのである。

 

 

 草薙の剣の正体は「アロンの杖」であり、そこにはアーモンドのつたが絡みつき、たったひと晩で花をさかせ,実を結んだと伝えられている。出エジプトの後,祭司を選出する部族を決めるにあたって、アーモンドの樹で作った杖を各幕屋の前に突き立てて占ったところレビ族のアロンの杖に花が咲いたという。このアーモンド科の花が「さくら」である。さらに「つる」とは「鶴」でもある。原始キリスト教の象徴であり、神事を担う神官一族の者たちの象徴でもある。だからこそ、ヤマトタケルは、最期にヤマトへは帰れず、「白鳥になった」という話になっているのである。

 

 『日本書紀』では、父の天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだとしている。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。『古事記』には、白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまうとある。ここにはイエス・キリストが投影されている。古代の「ヤマト:倭」に現人神イエス・キリストが降臨し、物部氏が服従する話が投影されているのだ。イエスは亡くなった後、岩屋に葬られたが、3日後に復活した時、岩屋には遺骸はなかったのである。そして福音を述べ伝えた後、二人の天使と天に戻ったのである。

 

 伊勢神宮内宮の別宮である「伊雑宮」(いぞうぐう・いざわのみや)には、ヤマトタケルの叔母・倭姫命が伊勢神宮に納める神饌(しんせん)を探し求めて志摩を訪れたとき、昼夜鳴く一羽の白真名鶴が稲穂をくわえていたという「白真名鶴伝説」「鶴の穂落とし伝説」がある。「伊雑宮」は本当の伊勢神宮であり、倭姫命が伊勢で最初に訪れた場所でもある。そこに「マナづる」の伝説があるということは、創造神ヤハウェの本当の名前「真名:マナ」を意味する「鶴」が飛来した=イエス・キリストがやってきたということを伝えているのである。だからこそ、倭姫命は「御杖代」だったのである。

 

 

 倭建命が尾張に入ったとする説話は、「草薙剣」は尾張の「熱田神宮」に預けられたことを伝えている。尾張氏は海部氏の同族である。つまり、物部氏系の神社に祀られたのである。熱田神宮では、草薙剣の創祀は景行天皇43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わっている。主祭神である「熱田大神」について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」とする。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての「熱田大神」なのである。

 

 『尾張国風土記』逸文には、日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの「形影」(みかげ)とするようにと言い残したとあり、奈良時代には日本武尊を草薙神剣の正体とする見かたがあったともいわれる。平安時代以降は、伊勢の皇大神宮(内宮)の祭神である天照大御神を草薙神剣の正体とすることが通説であり、このことで伊勢と熱田は「一体分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるとさえされてきたのである。つまり、「マナの壷」はまだ籠神社に残されており、伊勢外宮には移されていなかったのである。だからこそ内宮と熱田が「一体分身の神」を祀る神社とされたのである。

 

 さらに日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を自らの「形影」とするように言い残したということは、だ。日本武尊=ヤマトタケルとは、天照大神=イエス・キリストの象徴なのである。古代日本列島に降臨したイエス・キリストが、自らの民「ヤ・ゥマト」の大和民族を和合させていったことを伝えているのである。だからこそヤマトタケルは古代日本の最大の英雄伝でありながら、最期は「白鳥」として天に昇ってしまうのである。

 

 しかし、これは「倭:ヤマト」のことである。まだ、もう一つの国「日本」の謎解きは終わってはいない。

 

<つづく>