「大和と日本」の謎:その13

 

 さて、後半に移る前に、ここでもう一度、日本に渡来したイスラエル民族の流れを整理しておく。

 

 徐福とともに渡来した海部氏・物部氏、神武=応神天皇とともに渡来した秦人と秦氏、日本は徹頭徹尾「二本の木(二本樹)」なのである。かつての東日本列島は、インカ系とイヌイット系の縄文人がおり、インカ系の縄文人には文字を持たないアイヌがおり、彼らは「蝦夷」(エミシ)と呼ばれてきた。一方の西日本側にはマヤ系の弥生人が住み、彼らは熊襲や隼人、琉球民族と呼ばれた。つまり、徐福集団や秦人が渡来する前の日本列島は、インカ系とマヤ系の「二本の木(二本樹)」だったのである。

 

 彼らインカ系の縄文人とマヤ系の弥生人は、ともにイスラエル人である。琉球民族、アイヌ、熊襲、隼人は、みな同じ南方系の容貌をしていたが、中国大陸や朝鮮半島から渡来したイスラエル人は北方系の容貌である。同じYAP遺伝子を持つが、琉球民族、アイヌ、熊襲、隼人はYAPー、徐福集団や秦人、イスラエル10支族の末裔はYAP+だった。もちろん、現在も中国に30万人だけ残る羌族もYAP遺伝子を持ち、その他ユーラシア大陸の各所に残って定住したイスラエル10支族の末裔もいる。但し、現在の中国では、羌族をはじめとして強制的に漢民族との結婚が行われている場合が多いため、かなりYAP遺伝子を持つ人達は減ってきている。

 

 

 マヤ系の弥生人が住んでいた西日本に、紀元前3世紀に2度に渡って渡来したのが徐福の集団であった。紀元前219年に渡来した徐福は丹後に上陸、若狭湾を拠点に後の丹波王国なる「投馬国」を作った。これが古代豪族・海部氏となり、彼らの祖「倭宿禰」はアロン系の大祭司だった。徐福はいったん帰国するも、紀元前210年に再び大船団を率いて九州の佐賀に渡来、北部九州で大規模な稲作を行って勢力を拡大する。これが吉野ケ里遺跡として残りものだが、彼らは古代豪族・物部氏となった。

 

 東日本と西日本は回転しながら衝突、大規模な地殻変動が起こり、フォッサマグナが形成された。これが原因で、紀元2世紀ごろに日本列島は「倭国大乱」と呼ばれる大混乱に陥ったのである。この時、九州にいた物部氏は集団で畿内へと移住、「邪馬台国=倭」を樹立する。マヤ系の弥生人を支配下においたが、そこから出た男王たちに西日本における倭のクニは従わず、さらに混乱をきわめる。

 

 そこで物部氏は同じミツライム系ユダヤ人の海部氏に協力をもとめ、海部氏の霊能者「卑弥呼」を女王に迎える。ここにおいて、邪馬台国と投馬国が統合、これが「大邪馬台国=大倭」で、いわば前期大和朝廷であった。卑弥呼が亡くなると同族の台与(トヨ)が女王となった。海部氏の系図において、二人はともに「日女命」(ひるめのみこと)という名で記されており、これは後に伊勢神宮における内宮の天照大神と外宮の豊受大神に継承される。

 

 

 紀元3世紀後半から4世紀にかけて、中国大陸で動乱が発生すると、朝鮮半島から大量の渡来人「秦人」がやってきた。彼らは中国では「柵外の人」とされたイスラエル民族であった。遊牧民であった彼らの渡来は、大きく分けて3つあった。一つが「秦王:辰王」が率いる騎馬民族で、彼らは失ったイスラエル10支族。もう一つが始皇帝の子孫及び配下の秦帝国の流民で、そこには失われたイスラエル10支族及びミツライム系ユダヤ人がいた。そして、最後はイエス・キリストの12使徒直系のユダヤ人原始キリスト教徒で、彼らは日本に渡来すると「秦氏」と名乗った。

 

 秦氏の最初の上陸地点は九州の豊国で、別名「秦王国」と呼ばれたことが『随所倭国伝』に記されている。八幡信仰の発祥地であり、八幡神とされる応神天皇は秦氏の大王であると同時に、失われたイスラエル10支族のガド族だった。応神天皇は九州から東遷し、邪馬台国(大倭)を征服、王家に入り婿して王権を継承、大和朝廷が成立する。この時、神武天皇と物部氏の大王ニギハヤヒが、同じ天神の子であることを証明するため、2つに分けてあった「上アーク」と「下アーク」を持ち寄った。秦人の「上アーク」を管理していたのはモーセ系大祭司で「武内宿禰」と呼ばれた。

 

左:応神天皇を抱く武内宿禰 右:倭宿禰

 

 アロン系大祭司・徐福がもたらした「下アーク」には、三種の神器の「アロンの杖=草薙剣」が入っていたが、モーセ系大祭司・武内宿禰がもたらした「上アーク」には「モーセの十戒の石板=八咫鏡」が入っていた。残る「マナの壺=八坂瓊曲玉」は失われたイスラエル10支族の大王・神武=応神天皇がもたらし、ここに別々だった三種の神器と契約の聖櫃アークが一つになった。以降、真アークは武内宿禰が管理することになるのだが、その前に事件が起きる。それを示すのが「崇神天皇」という名である。

 

 なぜ、神武=応神が「崇神」でもあったのかだが、「神武」は武将として戦った騎馬民族の大王としての象徴である。「応神」はユダヤ教徒であったガド族の王が、武内宿禰によってバプテスマを授けられ、原始キリスト教徒に改宗した証の名である。が、「崇神」というのは、「崇」は「たっとぶ。あがめる。」を意味するため、「神を崇める・神を崇敬する」天皇という意味となる。だが、『古事記』の崇神天皇の伝承には皇祖神・天照大神を自らが手厚く祀ったという話は出てこない。なにせ、疫病が発生したのである。神をあがめて祀る「崇」ではなく、まるで皇祖神を怒らせ「祟」(たたり)として天罰を与えられたといった方がいい。これはどういうことなのか。

 

 

 崇神天皇の即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われたとある。祭祀で疫病を治めようとした天皇は、翌年に「天照大神」と「倭大国魂神」を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかったという。これが何を意味するのかといえば、崇神=神武天皇は宮中で「天照大神=イエス・キリスト」と「倭大国魂神=ヤハウェ」を一緒に祀っていたことになる。

 

 そこで、即位7年に、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命(ととひももそひめのみこと)大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣する。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる」と告げる。

 

 続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市(いちしのながおち)にせよという神託を受ける。そこで天皇は叔父の伊香色雄に命じて物部の八十平瓮(やそひらか)を作らせ、大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子を探し出して大物主神を祭る神主とした。三輪山を御神体とする「大神神社」の始まりである。

 また市磯長尾市を倭大国魂神を祭る神主とし、八十万(やそよろず)の群神を祭った。すると疫病は終息して五穀豊穣となったという。そして、即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東の隅に座す墨坂神を赤い盾と矛、西の隅に座す大坂神を黒い盾と矛をもって祀った。『古事記』ではこれに続いて全ての坂の神や瀬の神に、文字通り隅から隅まで幣帛を奉って疫病が終息したとしている。

 

崇神天皇と三輪山(大神神社)

 

 この崇神天皇の神話、よく考えればおかしな話だ。原始キリスト教徒「秦氏」の王のはずが、八百万の神々を集めて占って、大物主神を祭る三輪山を御神体とする「大神神社」を建立したというのだ。物部氏ではない崇神天皇が、なんで物部氏の社となる「大神神社」を建立したのか。「祟られた」からである。創造神ヤハウェ=倭大国魂神が崇神天皇に怒り、疫病を発生させたのである。しかし、何が創造神ヤハウェ=倭大国魂神の怒りを買ったのか。それは、宮中に神々を祀ったからだ。宮中に「天照大神=イエス・キリスト」と「倭大国魂神=ヤハウェ」を一緒に祀ったということは、「契約の聖櫃アーク」は宮中に置かれていたことを意味する。

 

 神武=崇神天皇はガド族であってレビ族ではない。大王であっても大祭司ではない。よって、「契約の聖櫃アーク」に触ることはできない。アークに直接触れることが許されるのは祭祀レビ族だけだからだ。神武=崇神天皇がアークに触っていたら、必ず創造神ヤハウェの逆鱗に触れて、滅ぼされていたはずだ。だが、触ってはいなかったが、レビ族にアークを祀らせなかったのである。いわば、長年分かれていた2つのアークが「真アーク」として1つとなり、それを行ったのは自分だという自負もあったのだろうが、創造神ヤハウェの磐座でもない宮中にアークを置いたことで、アークが怒りを発したのである。それが「疫病」だったのである。

 

 恐れ慄いた崇神天皇は、武内宿禰が宮中に居なかったため、創造神ヤハウェ=倭大国魂神の怒りを鎮めるため、三輪山に大神神社を建立、天照大神を大和の笠縫邑に祀らせることで怒りを鎮めたのである。崇神天皇の子である第11代・垂仁天皇の御代に伊勢内宮が五十鈴宮として建立されたが、伊勢に鎮座するまでに天照大神は26箇所を巡ることになるが、笠縫邑の次に向かったのは「籠神社」である。この時、真アークと三種の神器が籠神社に納められ、その後、各地を移動し始める。日本の歴史上、真アークと三種の神器が揃った神社は籠神社だけなのである。だからこそ籠神社は「元伊勢」であり「本伊勢」を名乗れるのである。

 

「元伊勢大神宮籠之宮」(籠神社)

 

 『日本書紀』垂仁天皇3年3月条には「天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離ちまつりて、倭姫命に託(つ)けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。さらに還りて近江国に入りて、東のかた美濃を廻りて伊勢国に至る」とある。宮中で祀られていた天照大神は、崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に託され、倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)で祀られる。その後、垂仁天皇3年には、天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命に託す。天照大神を託された倭姫命は、その鎮座地を求めて倭笠縫邑を出発、菟田の筱幡、さらに引き返して近江国に入り、美濃を廻って伊勢国に至り、その後、今の伊勢神宮(五十鈴宮)が成立したといわれている。

 

 『日本書紀』には、具体的な地名は、「倭笠縫邑」と「菟田の筱幡」が登場するのみであるが、『倭姫命世紀』によると倭姫命の巡幸地は、倭笠縫邑から伊勢の五十鈴宮(現在の伊勢内宮)に至るまで26箇所とある。籠神社の伝承も同じ26箇所だが、倭笠縫邑の次の巡幸地は「吉佐宮」(籠神社)となっており、崇神天皇は皇女・豊鋤入姫命に八咫鏡を託したとある。豊鋤入姫命が天照大神の御魂を宿す「御杖代」(みつえしろ)となり、奉斎地を求めて旅に出る。大和から丹後、そして各地へと巡幸するが、倭姫命が御杖代を引き継ぎ、最終的に五十鈴川のほとりへとやってきて、天照大神の荒御魂を鎮め、ここに大きな社を作った。これが伊勢神宮の「内宮」(皇大神宮)であるとしている

 

天照大神の巡幸マップ(「籠神社」HP)

 

 「御杖代」は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれ、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所が全て「元伊勢」と呼ばれる社である。さらに「豊鋤入姫命」「倭姫命」という二人の皇女が天照大神の「御杖代」となり、大和から伊勢を旅したことの意味も深い。天照大神に仕える巫女が2代に渡って天照大神のご神体の「杖」の代わりとなって=御魂を宿し、宮中から旅立った。最初の巡幸地である笠縫村、そして籠神社、その他23ヶ所を巡って御魂を移動させ続け、最終的に「伊勢」という場所に落ち着かせた。そこはそれまで「伊勢:イセ」とは呼ばれていない場所だったが、「伊勢」と名付け、天下の宗廟を作り、落ち着かせたということだ。

 

 「イセ」とは「イスラエル」という意味である。その場所に天照大神=イエス・キリストの「墓」を建てて祀ったということなのである。後に建立される「伊勢外宮:豊受大神宮」は神霊ヤハウェの墓で、ヤハウェの御霊を祀っているのである。二人の皇女である豊鋤入姫命と倭姫命は「御杖代」である。”杖の代わり”なのである。もちろん「杖」とは「アロンの杖=草薙剣」のことで、「アロンの杖」を「契約の聖櫃アーク」に入れて、籠神社から伊勢へと共に移動したと伝えているのだ。そして崇神天皇は娘の豊鋤入姫命に八咫鏡を託している。つまり、「アロンの杖」と「十戒の石板」と共にアークは籠神社へと移動したのだ。

 

 日本の歴史上で「真アーク」と「三種の神器」が全て揃ったことがある神社は「籠神社」だけである。伊勢神宮にも、宇佐八幡神宮にも、全てが揃ったことはない。「マナの壺」は伊勢外宮がに半ば強制的に籠神社から外宮へと移されたという。籠神社では、それを「神隠しにあった」と伝えている。が、一時的にせよ「真アーク」と「三種の神器」が全て揃ったのである。これは、逆に考えれば、古神道の「物部系神社」の総社であった籠神社を「真アーク+三種の神器」をもって屈服させた、という意味なのである。そこから次々と物部系の神社が「真アーク+十戒の石板+アロンの杖」をもって秦氏系神社へと乗っ取られて行ったのだ。それが倭姫命による巡幸=天照大御神の御魂の移動という神話になっているのである。

 秦氏による物部系神社の乗っ取りは「出雲の国譲り」のことでもある。応神天皇の指示で秦氏に全国の神社が乗っ取られて行ったことを意味しているが、それは原始キリスト教徒がユダヤ教徒たちを改宗させたことでもあり、ある部分で合体したことを示している。だから「大倭」が「大和」となったのである。しかし、いくら真アークと二種の神器をもった秦氏のレビ族たちであっても、そう簡単に物部系神社を屈服されられたとは考えづらい。なにせ秦氏も物部氏も同族で強烈な呪詛を行えるレビ人たちある。考えようによっては、秦氏集団がやってくることすら予想できていたはずである。そんな物部氏のレビ人たちを、どうやって屈服させたのか。それは、ヤハウェ=イエス・キリスト、復活体のモーセが揃って現れたのである。

 

 

 物部氏たちにいくらヤハウェは現人神イエス・キリストとして現れたのだと言っても、彼らは誰も信じなかったはずだ。なにせヤハウェが受肉してイエス・キリストとしてエルサレムで生まれた時も、十字架で磔刑死した時も、物部氏は既に日本にいたのだ。見たことも聞いたこともない物部氏がほとんどだったに違いない。「ヤハウェ=イエス・キリスト」を信じることができない原始ユダヤ教徒・物部氏たちが屈服したのは、彼らの前に創造神ヤハウェがイエス・キリストとして現れ、さらに彼らの逆らえないユダヤ教徒の祖でもある大預言者モーセが姿を現したのである。

 

 二人の皇女である豊鋤入姫命と倭姫命は「御杖代」となって、宮中から伊勢までを「巡幸」したと伝えている。「巡幸」とは、古代ヤマトの各地に、ヤハウェ=イエス・キリストが「真アーク」とともに巡った、という意味なのである。「幸」という漢字を調べると「造字本義は不明」とあるが、「幸」という字は 「夭」と背くという意味の「屰」を縦に並べたもので、意味は「早死に」である。33歳で亡くなったイエス・キリストを表す字が「幸」なのである。ユダヤ教徒・物部氏にとっては驚愕の出来事であったはずだが、もはや服従するしかなかった。自分たちが唯一絶対神として奉じたヤハウェが、人の姿で現れたのであり、契約の聖櫃アークの側には復活体のモーセがいたのだ。

 

 ここで西日本を支配していた海部氏と物部氏の多くは「ヤ・ゥマト=ヤハウェの民」として従った。だが、それはあくまでも西日本であり、従わなかった物部氏は東日本へと移住した。東日本は「狗奴国」で、そこにいたのはインカ系とイヌイット系の縄文人たちだった。倭姫命は後に第12代景行天皇の五百野皇女に後を継がせ、「東夷」の討伐に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に草薙剣を与えている。この話は大和朝廷による東日本に移住した物部氏である「外物部氏」、そしてずっと「邪馬台国」と争ってきた「狗奴国」を制圧するための東征を行ったことを伝えているのである。

<つづく>