「大和と日本」の謎:その9

 

 秦の始皇帝は同族で「嬴」(えい)の姓を持つ同族の徐福を「三神山」に派遣した。古代の日本である。目的は表向き「不老不死」の妙薬を求めてということになっているが、本当の目的は別にあった。徐福は道教の呪術師だったが、道教とはユダヤ教のことで、徐福はカッバーラの奥義を手にしたイスラエル民族のレビ人であった。同族の徐福を送り出した始皇帝は泰山で「封禅の儀」(ほうぜんのぎ)を行ったが、これは山に創造神ヤハウェを降ろすための儀式で、始皇帝もまた祭祀レビ人でありイスラエル民族の預言者であった。つまり、二人の姓である「嬴」とは、祭祀「レビ族」を意味することとなる。つまり、中国初の統一帝国「秦」を建国したのは漢民族ではないのである。

 

「秦人」と失われたイスラエル10支族

 

 日本では中国=漢民族で、その漢民族が作ったのが漢字と思っている人が大半だが、それは真っ赤な嘘で、聖書の民ではない漢民族が、聖書文字である漢字を作ることなどできないのである。多民族国家であった「秦」の領内において、「統一文字」としての漢字を作らせたのは始皇帝である。漢民族は農耕民族だったが、秦国に住んでいた「秦人」(しんじん)とは遊牧民であり、もともとは西域に住む非漢民族である。この「三人ノ木」と書く「秦」という字は暗号である。原始キリスト教・秦(はた)氏は秦人(はたびと)だが、始皇帝の統一帝国・秦(しん)にいた人間たちは秦人(しんじん)。

 

始皇帝と統一帝国・秦

 

 しかし、「秦」を王朝名としたのは始皇帝の統一帝国だけではなかった。五胡十六国の一つ(35 - 349)の「秦」は、氐族の「苻健」が長安を都として建国した王朝で、苻堅の時に華北を統一したが、淝水の戦いに敗れて滅びている。これは「前秦」であり、「後秦」も五胡十六国の一つ(386 ‐ 417)で、羌族の「姚萇」(ようちょう)が長安を都として建国した王朝である。一時は華北の大半を領有するも、東晉の劉裕の北伐により滅んでいる。さらに「西秦」(385 - 431三八五)。は鮮卑の「乞伏国仁」が金城(甘粛)を都に建国するが、夏に滅ぼされた王朝である。

 

 実は、これらの王朝を築いた氐族(きょうぞく)、羌族(きょうぞく)、鮮卑族(せんぴぞく)はみな古代イスラエル人の末裔なのである。ちなみに現在の中国の国名は「CHINA:シナ」であるが、これもまた「シン」なのである。但し、現在の中国は漢民族の共産党が支配する国家で、現在の羌族(チャン族)はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するチャン語を話し、 彼らは現代中国では、古代の史書にあらわれる羌人の末裔であるとされているが、本来の「羌」はチベット・ビルマ系言語を話す諸民族の総称である。

 

左:羌族(チャン族) 右:四川チベット族

 

 羌族のことを「チャン族」と呼ぶのは、この「羌」という漢字は現代中国のピンインでqiangと表現するからであって、本来は漢字「羌」の方が先なのである。日本では「羌」の音読みは「キョウ」だが、訓読みは「えびす」である。意味は「えびす。蛮族の名。異民族の名。」とある。「えびす」とは「夷」のことでもあり、「夷」は「えぞ。えみし。未開の人民。」を意味する。なぜ、「羌」は「えびす」なのか。

 

 まったく同じ字形をしており、同じ「キョウ」の発音をもつ字に「姜」という字があり、原義も殆ど同じである。この違いだが、「羌」は男のチャン族であり、「姜」は女のチャン族を表しているという。ともに部首は「羊部」(ひつじ・ひつじへん)である。 そしてこの「姜」という字は上古の氏姓制度の名残りとして今日の「姓」にも受け継がれている。現代ではチャン族は、人口30万人と言われ、青海、チベット、雲南の各地に分布、少数民族としての文化を頑固に守りながら生活している。

 

独自文化を頑固に守る羌族


 「羌」「姜」共に「羊」に関係する特殊な字である。この2個の字は全て一つの古くて且つ多難な民族に関係しているという。彼らの世代は「牧羊」で、「羊」を自己のトーテムとして崇拝をしており、彼らの宗教はアミニズムである。そしてそれは生活様式と融合し今日まで受け継がれている。「羌」は甲骨文字では「羊」と「直立した人」の合成字である。字形の構造は、人が羊の首を飾った形である。これらのことが何を表すのかといえば、彼らは原始ユダヤ教徒だということなのである!

 

 「牧羊」とは遊牧民だったということで、「羊」は原始ユダヤ教徒の燔祭の儀式に欠かせない動物である。「羊」と「直立した人」というのは、羊を燔祭に捧げる人のことを意味しており、それはアブラハムから始まり、モーセの時代にもずっと続けられた儀式である。

 

「羌」「姜」の字

 

 日本の原始ユダヤ教は徐福がもたらし、「古神道」として古代日本に根付いた。そして「古神道」は山や巨岩、海や川に神が降臨し、雷や風も「神」として祀るアミニズムである。さらに原始ユダヤ教徒は物部氏として、日本では牛や鹿を使って燔祭を行ってきた。だが、それはもともと古代の日本に「羊」がいなかったからであり、「羊」を最初に燔祭の捧げ物としたのはイスラエル民族の太祖アブラハムである。創造神の命により、ひとり子のイサクを生贄に捧げようとしたアブラハムは、神に忠誠心を認められ、イサクの代わりに羊を与えられている。

 

 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。(「創世記」第22章11−13節)

 

羌族の燔祭の祭り

 

 「羊」の字を入れた「羌」を一族の名に使った事は彼らの牧畜の生活様式とも密接に関係している。羌族の人々は元々古代の中国の西部(今の山西省、陕西省一帯)の遊牧生活をする部族を指していたが、北方の遊牧民族も含まれるようになった。羌人は祖先から遊牧業を守り抜いてきた一族であるが、漢族と結婚もし、混血して生きてきた。但し、中原の漢族の不断の征伐と凌辱を受け、次第にはるか西北部に追いやられてきたのだ。漢代の時、人々は「西羌」と呼び、北宋時代には「突厥」と呼称し、唐の時代には「トルファン」と呼んだ。後に青海とチベットの少数民族に融合している。

 

 だが、彼らは燔祭の儀式を今も守っている。上の画像は、旧暦の4月15日に四川省茂県雅都郷大寨村で住民たちが「水神節」の祭りを行った模様である。村の老若男女が祝日の盛装姿で村の端に集まり、歌や踊りを披露し酒を酌み交わして遠くから訪れたお客をもてなす。住民は年配者に引率され、ロウソクを手に祭祀塔を訪れ、天神や村の神を祀る。「神水」と呼ばれる神の水を塔の前に具え、1頭のヤクを生贄に1年の無事や五穀豊穣を祈るのである。祭祀が終わると、村の知恵者に引率された住民は「哈日」の踊りを踊りながら村をめぐり、邪気を祓い、無事を祈るのだという。

 

 ヤクとは牛である。羌族もまた物部氏と同様に、「牛」を燔祭に捧げるのである。なぜなら、彼らは「失われたイスラエル10支族」の末裔だからである。それを示すのが、「羌」と全く同じ発音と意味を持つ「羗」である。

 


同じ発音と意味を持つ「羌」と「羗」

 

 「羊+儿+ム」である。羊を燔祭に捧げる人を表す「羌」に「ム」である。これまでも書いてきたように、「ム」は「私有」を意味し、それはモーセの前に顕現し、自らを「私は有る」と言った創造神ヤハウェである。アブラハムの燔祭の際、創造神ヤハウェに命じられたように、ずっと「羊」を捧げ物としてきた一族なのである。

 

 さらに始皇帝の本当の父親は「呂不韋」(りょふい)だったと司馬遷は『史記』に記しているが、呂不韋は「羌族」だったのである。イスラエルの政府機関で、現在も「失われたイスラエル10支族」を調査している「アミシャーブ」によれば、「羌族」には「失われたイスラエル10支族」がいたことは判明している。聖書最大の謎とされる「失われたイスラエル10支族」は、アッシリアに捕囚されたことによって東に消えた北朝イスラエル王国の民である。

 

 彼らはアッシリア帝国を滅ぼした騎馬民族である「スキタイ」と合流し、北方アジア大陸へと広がっていった民であり、その一部が遊牧民として「羌族」になったのである。だからこそ羌族だった始皇帝の父「呂不韋」とは、古代ヘブライ語で「レヴィ」、つまり祭司レビ人だったのであり、母系を基本とするユダヤ人にあってもレビ族だけは男系である。よって呂不韋の息子・始皇帝もレビ人であり、同族だった徐福もまたレビ人だったのである。

 

<つづく>