「大和と日本」の謎:その8

 

 西日本を支配したのは畿内を中心地とした女王・卑弥呼を戴く「邪馬台国:ヤマト」であり、東日本を支配したのは男王・卑弥弓呼を戴く「狗奴国:クナコク」であった。両者は常に戦ってはいたが、それは政治体制の問題で、卑弥呼は「日巫女」、卑弥弓呼は「日巫覡」で、二人とも「太陽神を崇めるシャーマン」であった。つまり、卑弥呼も卑弥弓呼も創造神ヤハウェ=イエス・キリストの預言者であり、神の御言葉を託されたのが女か男かの違いである。

 

 卑弥呼は当時は一般的だった刺青(入れ墨)は入れておらず、一目瞼の能面的な顔立ちでもなく、ポリネシア系の二重瞼で彫りが深い丸い顔をしていたらしいが、一方の卑弥弓呼は刺青を入れていた絵が残されている。但し、アイヌ民族は文字を持たないため、確固とした資料は残されてはいない。あくまでも口承伝承でしかないため、卑弥弓呼が刺青を入れていたのかどうかは定かではない。が、筆者が考えるに、卑弥弓呼が戦いの先頭に立つ武将としての王ではなく、あくまでも絶対神の預言者であったのならば、一般のアイヌ民族のように顔や身体に刺青はいれていないはずである。

 

◆謎の狗奴国の王「卑弥弓呼」

 

 一般的に「狗奴国」も「卑弥弓呼」も有名ではない。「卑弥弓呼」は「卑彌弓呼」(ひみここ・ひみくこ)とも表記される王だが、生没年は不詳である。『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王で、3世紀の人物である。狗奴国の北に位置する邪馬台国の女王「卑弥呼」とは不仲であり、247年に戦争を起こしたと記録されている。おかしなことに、霧島地方には鹿児島神宮末社として「卑弥呼神社」「卑弥弓呼神社」が同居している。なんでここに、それも敵対した二人の神社があるのだろうか。

 


鹿児島神宮末社「卑弥呼神社」と「卑弥弓呼神社」

 

 「卑弥弓呼」については諸説あり、熊襲の長あるいは蝦夷の長であるとされるのだが、詳細は不明である。『魏志倭人伝』の記録には、以下のように表記されている。

 

 「其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀」
 

 「邪馬台国畿内説」を唱える内藤湖南は、原文中の「卑弥弓呼素」を「卑弥弓呼 素より」ではなく「卑弥弓呼素」という名であるとし、名のうちの「呼素」は「襲國の酋長など」を指すと推測している。この「襲國」とは「熊襲の域」(九州南部)の意であり、内藤湖南のほか、新井白石、白鳥庫吉、津田左右吉、井上光貞、喜田貞吉ら名だたる学者も、狗奴国を熊襲のクニであるとし、したがって熊襲の人物であるとみている。内藤のほか、新井、山田は邪馬台国畿内説、本居、白鳥、津田、井上、喜田、吉田は邪馬台国九州説である。

 

 卑弥弓呼についての記録は、『魏志倭人伝』における2か所の言及に留まっており、それぞれ言語学、歴史学等のアプローチによって推定されている。山田孝雄氏は、狗奴国を毛野国(現在の栃木県・群馬県一帯)であるとし、従って卑弥弓呼は毛人、つまり蝦夷の人物であるとしている。ほかには本居宣長、吉田東伍らによる狗奴国を伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県松山市北条)とする説もある。

 

 これらに対して市井の研究者である佐藤裕一氏が紹介するのが「彦御子」説だが、これは「卑弥弓呼」を「卑弓弥呼」の誤りであるとするもので、「彦御子」、つまりは皇子と同義の「天皇の息子」を指す一般名詞であり、「卑弥呼」も「姫御子」で、皇女と同義の「天皇の娘」を指す一般名詞であり、「卑弓弥呼」は「卑弥呼」と対をなすものとなるとする。さらに、佐藤氏の採用する説では、天皇の子女という意味を超えて、「彦御子」は「男王」、「姫御子」は「女王」を指すとしている。

 


 卑彌弓呼を建日別(熊襲)「隼人」の王であると考え、火照命(日本書紀では火須勢理命・火闌降命・火酢芹命)とする説もある。火照命のホデリは「火が明るく燃え盛る」の意である。石原洋三郎氏によれば、卑彌弓呼は「ヒミコ(卑弥呼)」のような性質があり、「男子」であるため、さらに「弓」が付いたのであろうとしている。「弓」が得意であったのか、或いは「弓」のように速さや急襲を得意とする王であったと考えている。

 

 いろんな説が乱立し、結局はどこの誰だかは分かっていないのだ。なにせ『魏志倭人伝』の2箇所の記述と、邪馬台国の位置を現在の日本列島に当てはめて考えることで、「九州だ」「畿内だ」という自説を基に学者たちは無理くりな結論を導くのである。はっきり書いておくが、卑弥弓呼は熊襲ではない。なぜなら、熊襲とは九州を中心に住んでいた琉球民族のことだからである。山田孝雄氏の言う狗奴国を毛野国というのは、間違いではないがそんな狭いエリアのことではない。狗奴国とは東日本全体を指すのである。

 

 「隠岐」に磐座を作って封印した後、徐福が第1回目の渡来の際、西日本列島で最初に上陸したのは「丹後」であった。ここに日本最古の社となる元伊勢・本伊勢「籠神社」の奥宮「真名井神社」を磐座として建立。宮司は代々、海部氏(アマベ)が務めてきたが、2回目に徐福が上陸したのは九州である。佐賀には徐福を祀る神社や史跡があるが、この2回目の渡来の際に連れてきた技術者や童男童女の末裔が「物部氏」であり、彼らが作ったのが「物部王国」である。やがて物部王国の物部氏たちは、畿内へと移住。そして、畿内にやってきた物部氏が海部氏とともに樹立したクニが「大倭:ヤマト」である。だからこそ、九州北部の物部王国の地名と畿内に移動してきてから名付けた地名に多くの同名があるのである。

 

九州の物部王国と畿内の邪馬台国の地名

 

 

◆海部氏と物部氏という「二本樹」

 

 物部氏の大王「ニギハヤヒ命」は天浮舟に乗って畿内に天孫降臨したと伝わるが、これは2度目の天孫降臨なのである。一度目が徐福の渡来を伝え、2度目がニギハヤヒ命に率いられた物部氏の畿内への移動で、既に「丹後王国」といえる「投馬国」(とうまこく)を率いる海部氏の支配地域に「ヤマト(大倭)」を建国した。これが「魏志倭人伝」でいう「邪馬台国」である。

 

 但し、「邪馬台国の王がなかなか定まらなかった」とあるのは、物部氏から出た男王ではクニがまとまらなかったということで、それはカッバーラを駆使できる預言者ではなかったことを意味する。つまり、当時の物部氏には大預言者がいなかったため、物部氏が手にしたカッバーラの叡智が不完全だったということで、物部氏の王は創造神ヤハウェ=イエス・キリストに認められなかったのである。かくして混乱が続いた後、別のクニから王が推戴される。それが卑弥呼である。

 

 

 

 卑弥呼は「鬼道」を扱う優秀な霊能者であった。そして、霊能者である以上に、創造神ヤハウェに認められた預言者だったのである。彼女は邪馬台国ではなく、「投馬国」の人間であり、投馬国とは丹波王国のことである。つまり、最初の徐福の民が上陸し、祭祀を行った海部氏の王の血を受けた太陽神の巫女だったのである。海部氏の系図には「日巫命」(ひるめのみこと)という名前で記録されているが、卑弥呼=日巫命は徐福と琉球の神女の血を引く者だったのである。

 

 投馬国の巫女が邪馬台国の女王となったことで、両国は合体した。これにより西日本はゆるやかな連合国として統一された。海部氏と物部氏は、ともに徐福が率いてきたイスラエル人である。ふたつの樹が一つになった。西日本において、海部氏と物部氏という「二本樹」をもって「大倭」(邪馬台国)が成立する。「倭」ではなく「大倭」とするのは、2つの徐福の民=二本樹となったことで、それまで「倭」だった畿内のヤマトが「大倭」でヤマトになったのである。これを「大邪馬台国」もしくは「前期大和朝廷」ともいい、さらに3世紀、そこに始皇帝の子孫を取り巻く「秦人」=原始キリスト教徒「秦氏」がイスラエル十支族と大王・神武天皇とともに渡来。「二本樹」の呪術が「大和朝廷」として完成することになる。

 

徐福の2度の渡来

 

 

<つづく>