「大和と日本」の謎:その7

 

 邪馬台国と常に戦っていた狗奴国(くなこく)は、畿内にあった邪馬台国から見て南にあった。つまり、現在の東日本である。東日本列島に住んでいたのはアイヌだが、彼らは東日本側を中心とした縄文文化圏を築いた。3世紀において、西日本列島を支配したのが邪馬台国で、東日本列島を支配したのが狗奴国だった。邪馬台国は鬼道を操る女王・卑弥呼(ひみこ)が支配する国で、狗奴国は男王・卑弥弓呼(ひみここ)が支配していた。名が似ている。「卑(しい)」という字を当てたのは、中華思想によって日本を見下したものだったが、本来、卑弥呼=ヒミコは「日巫女」のことで、太陽神を崇める巫女を意味する。では、卑弥弓呼=ヒミココとはいったいどんな王だったのだろうか?

 

◆「卑弥呼」と「卑弥弓呼」とカッバーラ

 

 卑弥呼=ヒミコは「日巫女」だが、卑弥弓呼=ヒミココは「日巫覡」である。つまり、「太陽神を崇める男の神職」を意味することになる。正確には「日覡男」である。女性のシャーマンは「巫」で示すが、男性のシャーマンは「覡」という。両者を合わせて「巫覡」(ふげき)という。両者ともに崇めるのは太陽神である。

 

卑弥呼と卑弥弓呼

 

 ここでいう太陽神は「天照大神」のことであり、天照大神が伊勢内宮で女神とされるのは、記紀編纂時代の女性天皇・持統天皇を正当化するために藤原鎌足の子で預言者であった藤原不比等が意図的に改竄したからである。不比等は卑弥呼の存在を知った上でこれを利用した。本来は男神の天照大神を女神に変え、邪馬台国の卑弥呼になぞらえながら、かつ持統天皇に見立てた。この意図は、後世の日本人に気付かせないように天照大神の正体を隠す必要があったからである。

 

 藤原不比等は「古代日本の総合プロデューサー」であった。わが国初の体系的な法律と国の歴史書の制定に深く関わり、日本の「原型」を作り上げたのが藤原不比等と言われているが、不比等は全ての豪族から家系図を取り上げ、それを封印してしまった。あくまでも天皇を中心とする中央集権国家への変革を急いだからである。そのために秦氏系の天皇家こそが正統とするための国史として『古事記』と『日本書紀』を編纂させたのである。“等しく比べる者がいない”という名を持つ、希代の政治家の実像とは、「カッバーラ」を駆使する預言者であった。

 

藤原不比等

 

 ユダヤ教神秘主義「カッバーラ」では、ひとつの言葉にいくつもの意味を込める。多層的になっているのは聖書文字・漢字も同様である。意味は決して1つではない。『旧約聖書』『新約聖書』の逸話を隠し、さらに日本神話に込められた「史実」の正体と「預言」の意味も込められている。『旧約聖書』の預言は、すべて多義的に解釈できるようになっており、象徴とは、そもそもいくつもの解釈を可能にするためのものである。その意味からも藤原不比等は預言者なのである。

 

 カッバーラの基本は「数・文字・言葉」で、これを使っていくつもの暗号を作り出してきた。日本の「和歌」は、その典型例で、和歌の言葉にはいくつもの意味があるが、それはまるで大預言者ノストラダムスの預言詩と同じなのである。その意図を解読するためには、日本の「歌詠み」の素質が必要だと言っても過言ではない。その字の通りの意味は、あくまでも表向きのものであり、裏読みをして、初めて本当の意味が分かる仕掛けになっているのである。

 

国宝「和歌体十種」

 

 これまでも記してきたように、天照大神の正体はイエス・キリストである。男神である創造神ヤハウェ=イエス・キリストの預言者が卑弥呼であり卑弥弓呼なのであり、神の御言葉を託された人間が女か男かの違いである。邪馬台国と狗奴国はともに古代イスラエル民族のクニであり、政治的な勢力争いで対立していただけである。

 

 東日本には文字を持たない狩猟民族のアイヌが住んでいたが、そこには北方からエスキモー、イヌイッもが渡ってきていた。前回書いたように、彼らの風習である遮光器が土偶になっているのはそのためだ。西日本には中国大陸、朝鮮半島からの渡来人も多くいた。中でも最大規模を誇ったのが徐福集団である。紀元前3世紀、中国初の帝国「秦」から2度に渡ってやってきた。徐福は道教の呪術師で、カッバーラの使い手で、イスラエル人の預言者であった。そして、秦の始皇帝の命を受け、極東の島にイスラエル民族の至宝を隠し、極東イスラエル王国を樹立させる。

 

 同じ「贏」(えい)の姓を持っていたのが「始皇帝」と「徐福」である。二人は同じ血統でイスラエル人「祭祀レビ族」の末裔だった。さらに始皇帝も徐福も同じ呪術の能力を持つ「ユダヤ人ユダヤ教徒」の預言者で、始皇帝が授かった「預言」に従って徐福は日本に到来する。それが紀元前3世紀のことであった。

 

徐福の像

 

◆徐福の渡来と最終目的地「大和」

 

 始皇帝の命を受けて古代日本を「ヤ・ゥマト=神の民」の国として封印するため、そして「契約の箱」と「三種の神器」をはじめとするユダヤの神宝を世界から隠すために渡来した道教の方氏・徐福は、原始のユダヤ教を「古神道」として日本に根付かせる。まだ、日本列島が90度傾いていた時代、徐福が最初に訪れたのは、大陸からの玄関口となる九州の上にあった琉球=沖縄であり、「神の島」と呼ばれることとなる「久高島」であった。「徐福」はまず、琉球を海上の鳥居と見立て、そこから先の日本列島全体を「聖域」とするため「結界」を張った。これが後の琉球の名前となる「沖のしめ縄」の意味を持たせた「沖縄」である。

 

 久高島において徐福は琉球の創世神「アマミキヨ」と呼ばれ、琉球民族に入婿する。「神の島」と呼ばれる神聖な島である「久高島」は沖縄や奄美群島で遠い海のかなたにあると信じられていた楽園「ニライカナイ」に1番近い島と言われている。「ニライカナイ」とは記紀神話に登場する「常世」(とこよ)の国に相当する場所のことであるが、なぜ「久高島」が神聖な島なのかといえば、琉球の創世神「アマミキヨ」が降り立ったとされるからである。琉球の国土を創成したといわれる「アマミキヨ」は 女神で、男神「シネリキヨ」との間に3人の子をもうけ、それぞれが領主、祝女(のろ)、民のはじまりになったとされるが、それはあくまでも神話で、「アマミキヨ」とは「徐福」のことである。

 

「神の島」と呼ばれる神聖な島「久高島」

 

 徐福は「久高島」を日本最初の聖地とした。そして現在は対岸の沖縄本島にある「斎場御嶽」(せーふぁーうたき)に「契約の聖櫃アーク」を安置して絶対神ヤハウェの磐座とした。古神道の「磐座・磐境」の一番最初の形こそ沖縄であり、久高島を奥宮として沖縄本島の中に聖所としての磐座を設置したのである。それこそが琉球神話の創世神「アマミキヨ」の話であり、それは後に日本神話の「天孫降臨神話」へと姿を変える。つまり、「アマミキヨ=徐福」は琉球王族に入婿したのである。具体的な名前は越されていないが、それは王家出身の「神女:ノロ」であったはずだ。

 

 久高島には「イザイホー」と呼ばれる秘密の儀式があった。「イザイホー」は久高島で12年に一度行われてきた祭りで、久高島で生まれ育った30歳以上の既婚女性が「神女」=「ノロ」となるための就任儀礼である。現在は途絶えてしまっているが、基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過するとされていた。琉球王国時代において、最高の聖域と位置づけられた久高島には、古くから「男は海人(ウミンチュ)、女は神人(カミンチュ)」の諺が伝わってきた。久高島では男たちは成人すると漁師になり、すべての既婚女性は30歳を越えるとこの儀式を経て、神女になるのである。

 

イザイホー(1954年)

 

 「イザイホー」は史料に記録される限り600年以上の歴史を持ち、来訪神信仰の儀礼として日本の祭祀の原型を留めているとされるが、徐福が渡来したのであれば、600年どころではなく、2300年前にはあったはずで、まさに日本の祭祀の雛形がここ久高島から始まったと言ってもいい。なにせ男は「海人」=「アマ」となり、女性は「神人」=「巫女」になるというものだからだ。この男性を「海人=アマ」と称することは、後の徐福の末裔の氏につながっている。

 

 徐福は日本列島に結界を張るため、琉球を神社の「一の鳥居」に見立てて「沖の注連縄」としたが、次に向かった「奄美」(アマミ)においてヤハウェの祭壇を作った徐福の一団は、福岡県の沖に浮かぶ「沖ノ島」(おきのしま)へと向かう。「沖ノ島は」、福岡県最北端の地であり、玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの島であり、「神宿る島」と呼ばれている。ここも「久高島」と同じ構造で、この島自体が古代の磐座なのである。徐福はここ「沖ノ島」に結界を張り、最後に日本列島の奥宮を作るため「隠岐」(オキ)に次々と磐座を作った。

 

徐福が封印した「隠岐」

 

 目的は「契約の聖櫃アーク」と徐福が持ってきた「三種の神器」の一つ「草薙の剣=アロンの杖」及びメノラーなどユダヤの神宝を世界の目から隠すことであり、日本列島全部を「聖域」と考えれば、アークは本島の奥の院、つまり「神殿」に封印されなければならなかったはずだからである。「契約の聖櫃アーク」をはじめとするユダヤの神宝を祀って結界を張ったのだ。それは「ヤマト」の本当の姿を隠し、呪詛を受けないための場所「隠岐」を隠すための呪術だったのである。

 

 「隠岐」は陰の六芒星の形をした「島前」(どうぜん)と陽の五芒星の形をした「島後」(どうご)からなる。「国生み神話」の縮図が陰の女島「島前」であり、島を生ませた男島「島後」に陽の心御柱の「ロウソク岩」が直立する。「ロウソク岩」が象徴しているのはもちろん「男根」である。日本各地の神社に「男根」を象徴する木の彫り物を祀っているのは、そのことを示しており、さらに伊勢内宮の地下殿にも「男根」を象徴する「心御柱」(しんのみはしら)があるとされている。要は隠岐の「男根」と「女陰」が結合したことで、「国」が産み出されたということなのである。

 

「男根」と「女陰」が結合

 

 沖のしめ縄たる沖縄=琉球の神話では「日の大神(天の最高神)は琉球を神の住むべき霊所である」と認め、創世神「アマミキヨ」に島づくりと国づくりを命じたとされる。 天上より琉球の地に降りたアマミキヨは、「日の大神」の命を受け、沖縄本島を創ったという。 現在では、「アマミキヨ」によって創られたとされる聖地のうち7つが、「琉球開闢七御嶽」として語り継がれ、琉球の信仰において最も神聖な「御嶽」(ウタキ)として位置づけられているが、この話はそのまま天孫降臨神話である。

 

 海の彼方にある神々の住む理想郷「ニライカナイ」から久高島に降り立った琉球の創世神アマミキヨ=徐福が、続いて沖縄本島に上陸したときに最初に足に降ろした場所とされているのが「ヤハラヅカサ」である。アマミキヨはここから浜川御嶽を経て、ミントングスク、玉城グスク、知念グスクへと歩みを進めていったと伝承されている。実は「男根」と「女陰」が結合したことで、「国」が産み出されたという隠岐の雛形は、ここ沖縄にある。それが「ヤハラヅカサ」と「御嶽:ウタキ」の関係なのである。

 

「ヤハラヅカサ」と「ウタキ」は「男根」と「女陰」

 

 「ヤハラヅカサ」は久高島を望める百名ビーチの北端の海の中にあり、琉球石灰岩で作られた石碑は満潮時には水没し、干潮時にその姿全体を見ることが出来る。簡単にいえば「岩」であるが、自然の石が信仰の対象となっているという時点で「古神道」だということが分かる。そして世界遺産である「斎場御嶽」(せーふぁうたき)も琉球の創世神「アマミキヨ」が創ったといわれる。「御嶽:ウタキ」とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、「斎場御嶽」は琉球開闢伝説に登場する琉球王国最高の聖地である。

 

 「隠岐」に磐座を作って封印した後、徐福が西日本列島で最初に上陸したのは「丹後」である。ここに日本最古の社となる元伊勢・本伊勢「籠神社」の奥宮「真名井神社」を磐座として建立。宮司は代々、海部氏(アマベ)が務めているが、海部氏=天部氏の祖先は徐福が最初に率いてきたレビ族である。徐福がイスラエル人カッバーリストであったように、海部氏もイスラエル人であった。徐福と琉球王家のノロの地を受け継ぐ末裔こそが物部氏の王族となるレビ族の「海部(天部)=海人:アマ」であり、海部の王の血を受けた太陽神の巫女であり女王が「卑弥呼=日巫女=神女:ノロ」だったのである。

 

 2回目に徐福が上陸したのは九州であり、この時に引き連れてきた技術者と童男童女の末裔が後の「物部氏」である。徐福を王として戴く物部王国は、畿内へと移住した。当時の様子は『先代旧事本紀』に書かれており、北部九州の地名と畿内の地名が一致するばかりか、配置まで対応している。そして、畿内にやってきた物部氏が樹立したクニが「邪馬台国」である。なぜ、九州からわざわざ移動したのか。それは日本列島が高速で移動し、九州の山々が噴火を繰り返したことも大きな理由だが、最終目的地が「大和」だったからである。そこは約束の地、イスラエル人が集合すべき場所だったのである。

 

 

<つづく>